第23話 泣く男

 勤め帰り、ふと一杯やりたくなって僕は地下街の蕎麦屋に入った。板わさと焼き海苔で二合ばかり呑んで、そのあと盛そばを食べて帰ろうと思った。

 店は空いていた。70歳くらいの男女が一番奥のテーブル席にいるだけだった。

 僕は入り口に近い壁際のテーブルに座った。長居をするつもりはなかったので。

 熱燗を二合徳利で頼んだ。酒はすぐに運ばれてきた。一口飲んで板わさと焼き海苔をを頼んだ。いい酒だった。

 昔から蕎麦屋の酒はうまいと言われている。訳は諸説あるようだけど。もっとも最近はひどい酒を出すところもあるから油断できないけど。

 板わさと焼き海苔が運ばれてきた。山葵もいい山葵だ。焼き海苔も香りがいい。

 酒を口に含んで、板わさに箸を運んだ時だった。

 「申し訳ありませーん」男の大声が響き渡った。泣き声だ。

 びっくりして声がした方を見た。奥のテーブル席の男の老人がこちらに背を向けていて、向かいに女性が座っている。

 男は首を垂れている。肩が震えている。グレーのスーツを着ている。かなり上等の品に見える。

 女性は髪を紫に染めてきちっとセットしている。赤い淵の眼鏡をかけている。目つきがきつい。瘦せていて薄い唇に真っ赤な口紅をさしている。癇が強いという顔だ。

 女性は、頭を垂れたというよりはテーブルに額をこすりつけているような形になっている男を何の感情も浮かんでいない目で見下している。微動だにしない。

 男はちょっと顔を上げて女性の顔を見た。次の瞬間「申し訳ありませーん」大きな泣き声が響き渡った。男は顔を伏せた。「ごめなさーい」泣き声が響く。

 テーブルの上には3本ほど銚子が並んでいる。盃は2人の前に置いてある。泥酔するほどの量は飲んでないんではなかろうか。

 女性は身動きせずに低い声で何か言った。薄い唇が幽かに動いた。

 「わああ」男は叫び声を上げて椅子から転がり落ちるように床に降りた。額を床にこすりつけながら「ごめなさあい。許してくださあい」そう叫ぶとわああっと泣き出した。

 さすがに蕎麦屋の女性の店員が2人のところに行き「あの、他のお客様のご迷惑になりますので」と声をかけた。

 女性は身じろぎ一つせず、感情の無い目で男を見下ろしている。

 男はのろのろと立ち上がった。店員に軽く頭を下げた。椅子に座った。顔は伏せたままだ。

 女性は店員に何か言った。「かしこまりました」店員は厨房の方に戻った。

 僕はちびちびと酒を舐めながら二人の様子をうかがっていた。

 男は声は出さないが肩を震わせている。

 暫くすると、先ほどの店員が盛そばを2枚運んできて、二人の前に置いた。

 女性が無表情のまま何か言った。

 男は顔を上げた。女性がまた何か言った。薄い唇が幽かに動いた。

 男は素早く割り箸を割ると、そばを手繰りつゆにつけると、ずずうっと大きな音を立ててすすり込んだ。

 女性の顔に一瞬うすく笑みが浮かんだように見えたが、すぐに無表情に戻った。

 男は音を立ててそばを食べ続ける。

 女性も蕎麦に手を付けた。

 どうやらおさまったようだ。

 僕は残りの酒を一気に飲み干し、盛そばを注文した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

不可思議奇妙な人たち(旧・虚言妄言日記) Aba・June @pupaju

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ