第84話 夜に響く鈴の音

 肌を焼くような灼熱の温度、限りなく勝ち筋が薄いこの状況に、不思議と恐怖は感じなかった。

 里外れの祠の内部は、夜間とは思えぬ程の熱量に覆われていた。祠の中心で轟々と燃える神の炎は、当時の憎悪を鮮明に物語る黒々とした色で、ヨルの全ての攻撃を燃やし尽くす。どれだけ戦闘訓練を積もうが、マナの性質による相性の不利を覆すことは難しい。ヨルは、投擲した十五本目の武器が燃え尽きたことを確認して、静かに目を細めた。神の炎は、目覚めた当初よりも勢いを増して燃え盛っている。空気をも焦がすような熱量は、ヨルの呼吸を僅かに苦しくさせた。


「ヨルくん、次くる!」


 入り口付近に立っているメイが声を張り上げる。炎が形成した黒炎の拳は、振り下ろせば民家が一件丸々呑み込まれそうな質量を持っていた。その大きさだけでも凶悪なのだが、炎の動きは素早い。反対側の壁へと走り出した刹那、炎の拳は、ヨルの真横を――丁度、歩幅一歩分の距離である――殴り付ける。その際に飛び散った火花は、恨み事を言うかのように、パチリと大きな音を立てて弾けた。

 たった一人で試練を行うことが如何に困難であるか、その現実を目の前にしたヨルは、静かに息を吐いた。蟀谷、首筋、背筋を流れる全身の汗は、衣服をじっとりと湿らせ、酷く不快感を煽る。それでも『どうでもいい』と思える程度に気にならないのは、全てにおいて諦めがついたからだろう。


「メイ、下がってて。焼けたら大変だよ」


 一瞬そちらに視線をやれば、メイは、その顔に分かりやすく不安を張り付けていた。炎の攻撃で上がった強風が祠内部に吹き渡り、メイの艶やかな黒髪を大きく揺らす。それが、スズネの髪を連想させるのが、酷く厭わしかった。

 瞬時に目を逸らしたヨルは、燃え盛る神の炎を睨み付ける。魂さえ焼き尽くす、という凶悪な性質を示すように、神の炎は、ゆっくりとヨルと向き合った。――正確に言えば、顔があるわけでもないので、何処が正面かなどは分からない。しかし、身体を大きく揺らして形を整えるのは、次の攻撃を用意しているのだと断言することができた。

 通常の攻撃は、全てが焼き切れる。ヨルの扱う短剣も、生成した弓矢も、全て神の炎の前では無力であった。ある程度、理解していた事である。結局のところ、この試練は、たった一人で乗り切れるような甘い設定をされていない。そんな抜け穴があるのなら、もうとっくの昔に、この炎は何らかの手段で消火されていることだろう。

 そんなことは、分かっていた。まだ冷静な自分が、当たり前だと脳内に声を響かせる。相手は神の一部を切り取った炎なのだ。大精霊の補助とはいえ、たかが一精霊の攻撃に屈するような脆弱さは持ち合わせていないだろう。


「ねえヨルくん、やっぱり誰か呼んできた方が――」


 メイの言葉に、ヨルは沈黙する。スズネやコハルはともかく、シンヤにさえ声を掛けていれば、確かに戦況は変わっていただろう。マナの相性や実力を考慮すれば、それは火を見るよりも明らかなことだった。

 けれど、奥義を目覚めさせていない上、スズネやコハル関連の事柄で何かと多忙な彼を引きずり出すのは、あまりに忍びなかったのだ。彼は何だかんだと言いながらヨルの世話まで焼こうとする。彼に今以上の負荷をかければ、いつ壊れてしまうか分からない。

――それに、それまで単独行動をとっていたことと、彼の妹であるスズネを戦闘不能に追いやった自分自身の行いを考えれば、シンヤに声を掛けられるはずもなかった。彼が心配していることを理解しながら、それとなく距離をとっていたのはヨルの方である。


「……僕一人でやる。僕しか奥義は目覚めさせてないんだから。僕がやらなきゃ」

ヨルは、頬を伝う汗を手の甲で乱雑に拭った。メイにも自身にも言い聞かせるように紡いだ声は、自覚できる程度には強張っていた。

「メイ、キミは観測者なんでしょ? 駄目だよ、僕の決断を覆すようなこと言っちゃ」

「……そうだね。ごめんなさい」

「しっかりそこで見てて。大丈夫、僕強いからさ。『前』と比べたら少し頼りなく見えるのかもしれないけど、でも、ちゃんと奥義も取り戻したんだから。平気だよ」


 メイが僅かに俯いたのも見ないまま、ヨルは背筋を伸ばした。

 『観測者』である以上、メイは、ヨルの決断にこれ以上口を出すことができない。星の民である彼女の性質と責任を人質にとった残酷な手口に、ヨルは、自嘲の笑みが零れた。

 こんなことが平気でできてしまう。そんな自分に嫌気が差す。あれだけ『好きだ』と感じていた思い出の人といざ対峙して、その結末がこれなのだ。守りたい、傷つけたくない。その感情は嘘じゃなかったはずなのに、たった一人の少女との出会いが全てを変えてしまった。

 これを知ったら、シンヤは怒るだろう。あの世話焼きはどんな言い訳をしても絶対に納得しない。

 コハルはきっと泣いてしまう。そして何もできなかった自分を責めて、塞ぎこんでしまうかもしれない。

 スズネは――あんな酷い仕打ちをしたんだから当然だ、と、嗤ってくれれば、一番いい。けれど彼女は、そんなことができる性質を持ち合わせていない。

 あの顔を歪めて、目元が赤くなるほど泣いて、必要のない謝罪を繰り返して、ヨルとの最期のやりとりを反芻するに違いない。

 彼女はあまりにも優しくて、脆い。そんなところが堪らなく好きで、堪らなく厭わしい。

 せめて彼女がもう少し強いか、或いは、狡猾な人であったなら、こんな感情を抱かずに済んだのだろう。

 脳内に浮かんだ三人の姿は、次の瞬間にぼやけていった。熱気のせいか、精神状態のせいか、まともに考え事をすることができない。ただ漠然とした光景や記憶の断片が脳内に蘇って仕方がない。走馬燈を見るにはまだ早い。そんな自嘲を心の隅に置いて、ヨルは小さく微笑みを描いた。なんてことはない、いつも通りの自己を守る仮面である。


「もしも『何か』あったら、その時はすぐ逃げるんだよ。メイ」


 いつだって『好きな人』を守る姿勢を忘れない。そうであるべきだと、せめて彼女には嘘を突き通せと、もう一人の自分はいつだって自分を律した。

 メイの強張った表情など、ヨルには見えなかった。彼女の内心を考える余裕も暇もない。幻聴か、或いは本当に炎が声を持っているのか、半透明の鉱石の壁に反響して、この世の全てを憎悪するような唸り声が聞こえてくる。死へ手招くような悍ましい声は、ヨルの微笑をさらに増幅させた。

ただ美しいばかりの微笑みは、ただ、この先がどんな結末に転がっても良いことを物語る。


「――キミが世界を焼いてくれたら、こんな感情、持たなくて済んだのにな」


 メイには聞こえない程度の声量で、ヨルは憂鬱な独り言を呟いた。その一言を、炎は聞き逃さなかったらしい。

 まるでヨルを糾弾するかのように増幅した熱量が、ヨルの肌をじっくりと撫でる。痛みさえ感じるような熱の中で、ヨルは、只管に記憶の断片を思い出していた。


『今度、二人きりで綺麗な星を見に行こう』


 かつての自分の声が、頭の中で反響する。前後のやりとりの記憶は、どうにも思い出せない。けれど、二人で星を見る約束をしたことと、それを聞いた彼女が――ヨルにとっての大事な人が、酷く嬉しそうに笑ったことだけは覚えていた。

 約束を破るのは嫌いだったが、どうしても、その約束だけは果たせなかった。

 自分を形成する思い出の痛みが、胸の奥で存在を主張する。

 思い出の誰かを喜ばせた一言、何でもない会話をした愛おしい時間、手を繋いだ時間、守りたかったこと、したかったこと、果たしたかった約束。

 それらは全て、記憶を失ったヨルに残された、数少ない『自分』を形成する証拠品だった。

 思い出の誰かに出会うこと、今度こそ守り抜くことが、ヨルの存在意義だった。今までずっとそう思って生きてきた。

 存在意義を自分の手で壊してしまった今のヨルには、生存の理由は、無い。


「ヨルくん、奥義を!」


 メイの張り上げた声に、ヨルは緩慢に顔を上げた。眼のない炎に睨み付けられる気分は、何とも奇妙だった。けれど、存在意義を失った現状で、それを恐怖に思うこともない。

 神の炎が大きく揺らめくのを無関心に見つめながら、ヨルは、静かに右腕を前に突き出す。


「キミがキッチリ仕事してたら、今頃、僕はもっと楽だったんだ。責任、とってくれる?」

「…………」

「『仕方がない』って僕に言わせて。それから――僕と一緒に死んで?」


 自嘲と挑発。両方を含んだ口元だけの笑みに、神の炎は沈黙を返した。

 刹那、ヨルの足元からは目を眩ますような閃光が上がった。真白い強光と共に、円形の祠内部に突風が吹き荒れる。ヨルの上着や髪の毛、神の炎までもを激しく揺さぶる強風は、強いマナの気配を帯びていた。その風の中で、ヨルの双眸が淡く光を発した。

 体内に巡るマナの密度が跳ねあがる。慣れない感覚ながら、何処か懐かしい気分になるのは、やはり、以前のヨルも同じ奥義を使っていたからだろう。

 異変を察知したらしい。神の炎は、ヨルのマナを拭うように巨大な腕と拳を振り下ろした。しかし、奥義発動前の突風は、そんな動作を軽く跳ね除ける。そんな光景を冷静に見つめながら、ヨルは、静かに目を伏せた。

 研磨された透明な鉱石の床や壁が、強い光を反射する。光で満たされた祠内は、あっという間に視界を奪うような眩さに包まれた。メイが咄嗟に目元を腕で隠す傍ら、ヨルと炎だけが平然としてその空間に立っている。眼が潰れるような輝きも、不思議と眩しいとは感じない。

 ヨルはそのまま、右腕を振り上げる。それに伴い、光の中から、木製の武器達がずらりと姿を現した。槍、剣、短剣、弓、斧、鎌。その数は、十、二十、三十、と増えていき、見る見るうちに三百を超える武器の群れを形成した。祠の婉曲を描く壁に沿って、武器達は演舞を披露するかのようにずらりと並び、宙を舞う。

神の炎を取り囲むように列を成した武器達は、そのまま、ヨルの数百本の腕と成って、神の炎に標的を定める。

――神の炎に言葉は無い。しかし、何処かで嘲笑されたような気がした。それを思わせるように、神の炎が一瞬弾けるようにして燃え盛る。炎の天辺で爆発が起きた。次の瞬間、無数の火の粉の雨がヨルの奥義で創り出した武器達に降りかかる。

 どれだけ数があっても、所詮は樹だと言われている。それを感じながら、ヨルは、小さくその行為を鼻で笑った。

 炎を被っても、武器達が燃えることは無い。


「僕が無暗に武器を燃やしてるとでも思ったの? 間抜け」


 その一言と同時に、ヨルは、勢いよく右腕を振り下ろした。それと同時に、全ての武器達が神の炎目掛けて飛び掛かる。

 炎が大きく揺らめいた。内部では、武器達が勢いよく集結し、炎の中心で球体を作る。実体のない炎は、そうして初めて、ヨルが『燃えない樹を製作をしていた』ことに気が付いたようだった。

 ヨルがこれまで炎に投げた武器は、十五本。その内、木製の武器が焼け切るまでに掛かった時間は、僅かながらに誤差があった。それを見極めながら樹のマナの性質を変えていくことは、ヨルにとって、決して難しいことではなかったのだ。

 ……何故、樹の大精霊が生み出されたことを、神が問題視したのか。樹の大精霊が自分の手で生み出された存在ではないこと以上に、大精霊が持っている『能力』の方に問題があった。それを、ヨルは奥義を取り戻してから初めて知ったのだ。

 炎の中で球体を創り出した樹は、そのまま、実体のない炎に絡み付くように巨木を創り出す。太い根に絡みつかれた炎は、その隙間から逃れるように身を揺らめかせたが、樹のマナはそれを赦さなかった。

 樹は大地に根付き、自らの生に必要なものを吸い上げる。それと同じように、マナの塊である神の炎に、樹のマナは、根を下ろしたのである。

 樹のマナは、自分の思うままに、『樹』そのものの性質を作り変えることができる。そう気が付いたのは、奥義を取り戻して直ぐのことだった。湖の中で生きる樹、炎の中でも燃え尽きない樹、そして、他のマナを余さず吸い取る樹。全てが思い通りだ。

 もしもその樹が他の里に忍び込み、マナを吸い上げたとしたら――マナの塊である精霊や大精霊は忽ち吸収され、人間だけが残される。そこを強襲されてしまえば、その里は簡単に滅びることだろう。

 使い方次第で、樹のマナは恐ろしい対精霊兵器に成り上がる。そんな強大なマナを、神の管理下ではない場所で生かしておくことは、世界の均衡を揺るがす大事件を招く事態になりかねない。そう判断されても可笑しくない能力を、樹の大精霊は持っていたのだ。

 そして、その補佐を務めるヨルにも、その能力は受け継がれていた。


「キミのマナ、全部吸い取ってあげる」


 決して炎で燃やされない樹が、炎を締め上げるように強く絡み付く。根からマナを吸収されているのだろう。先ほどまで祠の天井まで届きそうなほど燃え盛っていた神のマナは、少しずつその影を小さくしていった。

 全てを吸い尽くす燃えない樹と、全てを燃やし尽くす炎。その相反する性質は、互いを忌み嫌い、憎しみ合うように、大いにマナを摩耗していく。ただでさえ奥義は消費するマナの量が多いというのに、神の炎はヨルに対して大きな抵抗を見せた。

 樹の根を焼き尽くそうとする猛火の勢いに、燃えないはずの樹がじわりと焦げる。その部分を補うようにマナを継ぎ足すのと、炎の勢いが増すのとは、殆ど同時のことだった。

 既に、消費を許可されたマナの量を上回っている。それでも尚、ヨルは自身に残されたマナを注ぎ続けていた。

 炎が小さくなればなるほど、樹は大きくなっていく。そして、その大きさに応じて、ヨルのマナをも吸い取っていく。祠の内部が窮屈に見えるほどの巨木は、炎の大きさを上回り、天井にその枝をつけた。マナを吸い取って青々と茂った葉が、炎の熱量で萎れていく。黒々とした炎は、首を絞め上げられているかのような苦しげな叫び声を上げた。

 この世の全ての憎悪を煮詰めたような、鳥肌の立つ声だった。それを聞いたヨルは静かに目を細める。自身を強襲した強い眩暈を感じて、ヨルは、酷く穏やかな気分で口角を上げた。

 ようやくだ、と思ったのは、もう、何かを悩まなくてよくなるからだ。

――大精霊との間でマナ供給が上手くいっていない今、多量のマナを消費すればどんな結末を辿るかは理解している。マナを失った精霊は、消滅の運命を迎えると決まっているからだ。

 神の試練を成功させながら、自身はマナの不足で消滅を果たす。それが、ヨルが思い描く最上の物語だった。


「……仕方がないって、言わせてよ」


 縋るような独り言に、答える者はいない。青と深緑の混じったヨルの瞳は小さく左右に揺れ、その内側に抱く葛藤を強く示す。

 林檎を食べるスズネの笑顔を見た時、彼女が「記憶の少女であればいい」と思ったのだ。

 目覚めたときから内側に蔓延る「何かを守れなかった」という無力感は、スズネを守ることで満たされた。

 彼女の側にいることで、心が穏やかになる。彼女が、思い出の人だと認識していたから。

――そうではないことをこの里で思い知らされてから、ヨルはずっと、終わりのない谷底に突き落とされた気分だったのだ。

 スズネは思い出の彼女ではない。なのに、スズネのことを愛してしまった。

 どうしようもない現実を認めたくはない。自分自身を形成するたった一つの証拠を否定したくはない。

 けれど、動かぬ現実を見て、ヨルは、『仕方がない』と言いたかった。

 記憶を失っていた。彼女も自分と同じように『誰か』を探していた。誰も何も教えてくれなかった。できる限りメイを再び好きになろうと努力もした。彼女には自分ではない相手がいるのだから、と何度も言い聞かせた。自分に対する嘘を何度も吐いて、その度に失敗した。できることは何だってした。

 それでも、ヨルは、スズネのことが好きだった。

 仕方がなかったのだ。全て、仕方のないことだった。そう言わなければ、ヨルの心は、直ぐにでも破裂して壊れてしまいそうだった。

 もしもスズネがヨルを好いていてくれたのなら、二人で『仕方がないね』と笑って墜ちていけたのかもしれない。それがどれだけ愚かなことだとしても、互いを赦し合える関係になれたなら、事態はもっと楽に終結しただろう。

 そうではなかった。だから、ヨルが『仕方がない』と言うためには、もうこれしかない。

 試練を終わらせた。その代わりに、マナ不足で自分は死ぬ。でも、『仕方がない』。そうしないと誰も試練を熟せなかったのだから。


「……ヨルくん……」


 祠の入り口では、事態の結末を見守るメイが眉尻を下げていた。決して口に出さなかったが、ヨルが望む終焉を、彼女は知っていたのかもしれない。それでも制止されなかったのは、彼女もまた、この選択を仕方がないと感じているからだ。

 全てが収束に向かう。神の炎が上げる憎悪に塗れた悲鳴を聞きながら、ヨルは無言でその場に直立した。

 指の感触が無い。そちらを見れば、指先が薄っすらと透けていた。透明な部位からは黄色の半透明な粒子が舞い上がる。――それがマナの不足による消滅であると、本能が告げていた。

 消滅は身体を侵食するように、緩慢な動作で透明な部位を増やしていく。手を持ち上げて透かしてみれば、手の向こう側にある光景がしっかりと見えた。樹にマナを吸い上げられて苦しむ神の炎とは対照的な、穏やかな死があることに、ヨルは僅かな安堵を覚える。

 ここまで、もう十分に苦悶したのだ。せめて最期は楽に終わりたい。

 自分の望んだ結末を迎えられる。そう思うと、それまでの苦しみが少しは報われるような気がした。

 光の粒子に包まれながら、ヨルは静かに目を閉じた。いつの間にか、肌を焼くような温度さえ感じなくなっていた。

 最期に脳内に浮かんだのは、残された三人の姿だ。

 シンヤは怒るだろう。コハルは嘆くだろう。スズネは泣いてしまうだろう。

 けれど大丈夫。シンヤにはコハルが、コハルにはシンヤが、そして、スズネにはオウがいる。

 ヨルがいなくとも、彼等はどうにか立ち上がって神の試練を突破していくだろう。その先で、ヨルのことなど忘れて、ただ幸せな未来を歩んでくれればそれでいい。

 そんな淡い期待と、少しの嘘が混じった祈りを心の中で呟いた。

 最期までメイの心配が出てこない。薄情な自分に自嘲した、その、刹那。


「ヨルくん!」


 メイのものではない、少女の声が祠に響いた。

 鈴の音を転がしたような透き通ったその声に、ヨルは思わず瞼を開ける。

 研磨された水晶の床を、強く蹴り上げた音がした。靴底と床がぶつかる硬質な音は、次第にヨルの方へと近づいてくる。

 まさか、と、湧き上がった一瞬の期待を押し殺して、ヨルはその声の方向を振り向く。

 黄色の粒子の向こう側に、艶やかな黒髪の少女の姿が見えた。しかし、それも次の瞬間には見えなくなる。

 その少女――スズネは、眼前まで駆け寄ってくると、勢いよくヨルの体を抱き留めた。消えかけていた身体が、しっかりと細い腕に捉えられる。

 炎の熱は感じられないのに、その癖、スズネの体温だけはしっかりと感じる。走ってきたのだろう。スズネの体は服越しでも熱く、彼女の乱れた息が耳にかかった。

 スズネらしからぬ強い力で、スズネの細腕はヨルの背中を抱き寄せる。二人の間に存在する一切の隙間を赦さぬように、彼女はただ、ヨルに自身の身体を寄せた。


「……スズネ……なんで……」


 それ以上の言葉は、出なかった。困惑したヨルがスズネの顔を見るのと、スズネが顔を上げるのは同時だったのだ。

 両者の視線が絡まる。追言の言葉が途切れたのは、彼女の白藍の瞳に、大粒の涙が溜まっているからだ。

 今にも零れ落ちそうなほど潤んだ双眸に見つめられ、ヨルは心臓を握りしめられたような感覚を覚える。――半ば、無意識にその目元に指を伸ばせば、彼女の涙に当たった指先は、ゆっくりと本来の色を取り戻した。

 彼女がマナを全身に纏っている、と気付いたのは、そのせいだ。消えかけていたヨルの身体は、スズネに抱き留められることで、見る見るうちに形を取り戻していく。彼女がヨルの消滅を食い止めるためにこんな手段に出たことは、明確な事実だった。


「ヨルくん、死なないで」


 そんな懇願の言葉と共に、スズネはヨルに頭を寄せた。子供が何かを引き留めるような仕草で、スズネの手がヨルの背中の服を握りしめる。その場にヨルを繋ぎとめるような仕草をしながら、スズネは、涙に濡れた小さな声で、呟いた。


「私、貴方が好きなんです」

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