第83話 貴方と私と星明り
それまで全身全霊で仕えてきた大精霊の元を離れてまで、ダンが契約者を欲した理由。ダンはそれを、何処か懐かしむような声音で語り始めた。
「僕が補助精霊を引退したのは、今から約115年前のこと。それまで、大精霊様のご命令に従うことだけを幸せにしてきた僕は、あろうことか、とある女性に想いを寄せることになります」
ダンは睫毛を伏せながら、そう呟いた。薄暗い部屋の中に、ダンの穏やかな声だけが響き渡る。その声は、不思議と眩暈や吐き気といった不調を和らげた。それ程までに、ダンの語り口調は優しかったのだ。
「……ダンくんの気質や来歴を考えると、大精霊の元を離れるに至るまでの経緯が、私には想像がつかないんです。どうして、補助役を止めてまでその方と契約したいと思ったんですか?」
スズネの遠慮がちな質問に、ダンは「そうですね」と俯く。手元で木製の短剣を握りしめた少年の手は、昔と寸分も変わらぬであろう幼さを帯びていた。
「かつて、この里では盲目的に神を信仰するあまりに、神の望まぬ風習を創り出していた。その結果、神の契約者であるミカ様を迫害するまでに至った。もう、この歴史はご存知のことかと思います」
「ミカさんは、処刑される寸前までに至った、と」
「ええ。……何を隠そう、彼を迫害していた筆頭も、処刑を担当するはずだったのも、他でもない僕だったんです」
穏やかな表情の中に、己の罪を懺悔するような、悔いの色が浮かぶ。ダンは、前髪の下で空色の瞳をゆっくりと瞬かせた。今だけは、目の前の少年が、大人びた男性に見えて仕方がない。無論、それはスズネの錯覚に過ぎなかったが、ダンが物語る歴史は、彼がただの少年ではないことを肯定していた。
「里全体で犯した罪。蔓延していた価値観と根付いていたお門違いな正義感。当時のことであれば仕方がない、と語る者は大勢います。無論、ミカ様に酷い仕打ちをしていた僕に対する非難の声は上がりました。しかし、歴史はいつの日か風化され、それを口にしていた者達は皆、僕より速くに神の炎に焼かれていった。僕が己の罪に気付いた頃には、全てが後の祭りでした。僕は自分が信じた間違った正義感で、この里ごと世界を滅ぼす寸でのところまでいった」
「……その罪意識から補助精霊を引退したかったんですか?」
「いえ。寧ろ、償いのために僕は生涯を大精霊様に捧げるつもりでした。神やミカ様、そして大精霊様が僕の消滅を望むのであれば、僕はそれに従うでしょう。しかし、そうではなかった。神は自身の怒りをこの里に遺した以外は、ここを他の里と同じように扱われます。僕の消滅を願うことも、炎以上の責任をこの里に求めることはしない。僕達は、罪意識に囚われながらも普通に生きていくことを指示されているのです」
正義感が強ければ強いほど、その生活は何よりも罰になる。優しいようで優しくはない懲罰の形に、スズネは思わず肩を竦めた。
目の前の少年がミカを迫害し、処刑人を務めた、などという事実は、本や司書からは得られなかった情報だ。彼が持つ歴史の中で最も触れられたくないであろう話を、語られている。それはきっと、心地の良いものではないだろう。
それでもダンの声は揺るがなかった。穏やかな懺悔の語り声は、そのまま、無音の室内をゆっくりと満たしていく。
「――かつての僕は、自分を正しいと思い込み、強い正義感を持っていました。自己を正しいと認識している時、本当の人格が露わになる。恐ろしい考えを持つ僕は、里が滅ぶ寸でのところまで、自分の罪に気が付かなかった。その愚かさは、かつての僕の相棒だった補助精霊と、数多の星の里の住人を失う結果を生みだした。そうして、初めて自分が正しくないことを自覚した。……神の炎に焼かれ、生きた証さえ失った者達の顔は、もう、大精霊様と僕しか覚えていません。彼等は皆、一様に僕を恨んでいることでしょう。僕の愚かな行動が、自分達の生きた形跡と魂を焼くに至らせたから」
「……ダンくんの相棒……。それじゃあ、メイさんとオウくんが、ダンくんの相棒と同時に後輩を名乗っているのは、彼女達が二代目の補助精霊だからなんですね」
「はい。里を存続させる以上、空白の枠をそのままにしておくわけにはいきませんからね」
ダンはそう言って、僅かに表情を歪めた。ほんのりと憂鬱の色を纏った幼い笑顔は、過去の後悔と己への自責を強く感じさせる。その小さな肩には、何百年もの間降り積もった罪悪が乗っているのだろう。彼はそれを背負いながら、無垢な少年のように笑顔を浮かべていたのだ。
それがどれだけ辛いことか、スズネには、想像もつかなかった。
「僕は、誰かに罰せられたかった。里全体の罪だと、仕方のないことだと言われても、自分んの罪を可視化できる形で償いたかった。神様も、ミカ様も、大精霊様も、誰も僕を叱って等くれなかった。我が儘だけど、僕はそれが一番つらかった。いっそ消えてしまえば、と思うことは何度もありましたが、僕の記憶にしか生きない者がそれを赦さなかった。生きることも死ぬこともままならなかった僕の前に、『彼女』は突然現れました」
ダンの苦悶の表情は、『彼女』の存在に触れた途端、僅かに和らいだ。少年に穏やかさが戻るその一瞬、スズネは、不思議と数人の顔を思い出していた。
ダンと共にいると、これと同じ顔をする人物が、三人いる。彼と契約を結ぶ女性、サイ。分かりやすくダンを溺愛する彼女と、後もう二人。
この幸福極まりない表情をする、あの二人の精霊。
「彼女の名前は、マーズ。一言で表せば――炎のように熱烈な女性、でしょうか」
「マーズ、さん? ……サイさんではないんですね」
「おや、彼女の名前は聞いていませんでしたか?」
「恋をした女性の存在はお聞きました。名前までは……。私は、サイさんかと思っていたんですけど」
「いいえ。僕は大精霊様ほどの力を所持していませんので、契約者の寿命を115年も伸ばすことはできませんよ。でも、大方外れではありません」
「……というと?」
「サイは、マーズの孫にあたりますから」
ダンはそう言うと、少し笑って「あまり似ていませんが」と付け加える。孫、という一言に、スズネは白藍の双眸を大きく見開き、はて、と小首を傾げた。
孫――つまり、サイの祖母にあたる人物に、ダンは恋をしたのか。しかし、その恋の結末は、歴史書の記述や孫がいることからも明らかである。ダンはそんなことを悟らせないような穏和な笑みを浮かべ、スズネに向けた説明を綴り始めた。
「マーズは、ミカ様と同じ白髪を持って生まれた女性でした。神様とミカ様の契約以降、祝福の色として扱われるようになった白髪の人間。彼女は、里全体から大層愛されて過ごしていました。……僕は、彼女とミカ様を重ねていた。かつて迫害した白髪の人間を、今度は丁重に扱いたかった。罪滅ぼしという、自分勝手な理由で。僕は、彼女に近付きました」
「……それで恋に落ちたんですか?」
「いえ、その前に殴られました」
「……殴ら……えっ?」
「殴られました」
ダンの笑顔は、一際輝いて見えた。清々しい口調と声音とは裏腹に、スズネの困惑は強さを増す。
少年は、まるで殴られた痛みを思い出したかのように、徐に自分の左頬に手を当てる。あどけなく丸みを帯びた頬は、今は、赤みも痕も見当たらない。ダンは目を伏せたまま、何処か嬉しそうな口調で言葉を継いだ。
「彼女は博識且つ聡明で、風化し始めていたかつての歴史を良く調べていた。歴代の星の民の中でも、一番歴史に興味があったのでしょう。曖昧になっていた僕のことも何処からか調べあげ、同時にその罪を知り、大変憤慨していました。そして、ミカ様と同じ髪色を持った自分に、知らん顔で近づいてくる僕を見て、相当苛立ったのでしょう。真っ先に殴られました」
「……そ、それで……?」
「かつての行いと罪滅ぼしのために僕が彼女に近付いたこと、両方を酷く叱られました。一応、僕は里の中でも偉い方にいますし、いくら髪の色が白くても、人間が精霊に強く出ることなんて滅多にないので、僕は初めて人間に怒られました。彼女は周囲の価値観や常識に囚われない強かな女性でしたので。後にも先にも、僕を叱ってくれる人は、マーズだけです」
苦々しい思い出のはずが、ダンは寧ろ、良い思い出のように語る。どれだけ痛い思いをしても、愛おしい人との出会いの記憶と言うのは、素晴らしいものなのかもしれない。
大きな丸い瞳を輝かせながら、ダンは、手短ながら、色鮮やかな思い出話をしてみせた。
彼女にどんな怒りの言葉を投げかけられ、多彩な語彙で罵られたか、とか。
彼女がどんな容姿で、どんな振る舞いをしていたか、とか。
ダンを殴るという強硬手段に出るその半面で、動物や子供といった存在には酷く優しく、頼れる人であった、とか。
マーズについて語るダンの声は、何処か熱を持ちながらも穏やかだった。温かい春風のような声音は、ダンが今も尚、かつてと同じ感情をマーズに抱いているということを物語る。115年も前の恋慕は、現在も、少年の心に灯を残しているようだった。
「彼女は稀有な人だった。僕が待ち望んだ、自分を叱ってくれる人。僕は、罪意識も償いも関係なく、彼女に想いを寄せるようになりました。彼女といれば、僕は永遠に罪を正当化することなく、背負っていけると考えました。大精霊様の元にいることで、いつか『仕方がないことだった』と僕の意識魔で風化することが怖かった。何より、僕はマーズを愛していた。僕を正面から見てくれるマーズと共に、僕は運命を歩きたかったんです」
「それで、大精霊の補助を止めたんですね。……そんなに簡単にやめられるものなんですか?」
「メイとオウの後押しがありまして。勿論、反対はありましたが、メイとオウが僕の分の働きまですることを約束してくれたんです。僕がマーズの契約者となれたのは、二人の存在が大きいでしょう。今でも感謝しています。決して容易なことではありませんから。……さてスズネさん。契約というのは精霊の中でも重要で、僕の規模の精霊になれば特別な意味を持つこともあります。ここまで順調だった僕の恋路ですが、では、何故マーズへの想いが『叶わない恋』と称されたのか、貴女はご存知ですか?」
ダンはにこりと笑って、目を細めながらスズネに問いかけた。かつての記憶に浸るのは、どうやらここで終わりらしい。
彼の物語る甘い思い出から、急速に現実に引き戻される。先ほどまで何とも感じていなかった部屋の空気は、いつの間にか冷えていた。肌を撫でるひんやりとした空気は、澄み切った水中を思わせる。それが心地よく、何処か懐かしい。
気が付けば、スズネを苛んでいた身体の不調は薄れていた。吐き気も眩暈も、今は程度が浅い。明瞭に動くようになった思考は、スズネが発するべき次の言葉を導き出す。
星の里の図書館で知った、ダンの過去。現在のスズネと似た過去を持つ彼は、スズネとは違い、ただ穏和な笑みを浮かべていた。
「――マーズさんに、婚約者がいたためです」
「その通り。僕が好きになった頃には、マーズには婚約者がいて、二人は相思相愛だった。僕とマーズの間で交わされた契約は特別な意味を持つことなどなく、守護者とその加護を受ける者という形に納まりました」
「私には、分かりません。ダンくん。……マーズさんと契約するということは、好きな人が他の人と幸せになる光景を一番間近で見ることと同義です。どうして契約するという道を選んだんでしょう」
スズネが険しい顔で問いかければ、ダンは何か、面白いことを聞いたかのように笑った。揶揄いの色を含まない純粋な笑い声は、少年のような純粋さを帯びている。スズネの本気の疑問は、長い時を生きる彼にとっては、ほんの細やかな問題に過ぎないということだろうか。
ダンは「そうですね」と悩む素振りをみせてから、ただ、静かな声で呟いた。
「何だかんだと理由をつけてきましたが、結局一番は、『それでも一緒にいたかった』からでしょうね」
「……辛くても?」
「はい」
「『好き』を始めなければ終わりもしないのに?」
「それはもう、終わってることと同じです。それに、そう思ってしまっている時点で、きっとどこかで始まっているんだと思いますよ。心当たりがあるのでは?」
ねえ、と同意を求められる。少年の声は、やんわりとしていながら何処か確信を持っていた。きっと彼は、心の中を読むマナを持っていなくとも、この確信めいた言葉を吐いたに違いない。
スズネは、静かに膝を抱える。空気で冷やされた素肌の冷たさで、苦悶を訴えるあの日のヨルの表情を連想した。
「僕がこの手で彼女を幸せにする必要は、残念ながらありませんでした。それでも僕は、幸せなマーズを守りたかった。誰かに幸せにされるマーズと、マーズの子供達を見守って生きていく。時折寂しくなりますけれど、そう言う形で納まる『好き』があっても、僕は良いと思います。それが、僕なりの『踏ん切り』です」
「……私が思うより、ダンくんは叶わない恋を悲観してないんですね」
「ええ。僕は僕なりの選択をして、物語の形を見つけましたので」
悪くはないですよ、と続けた少年の声は、晴れ渡った青空を思わせる清々しさがあった。きっと、彼はとっくにスズネが悩んでいることを決断し終えているのである。
好きを認められず、足踏みをするスズネ。その先に何があっても、決断をして先に進んでいくヨルとダン。置いてけぼりを喰らう理由は明白なのに、『どうしたらよかったのか』を悩む自分の姿を見直せば、答えなど、容易に弾きだすことができた。
「スズネさん。貴女は、観測者である僕に、どんな決断を示しますか?」
ダンの問いかけに、スズネは、静かに顔を上げた。そうして気付いたことだが、現在時刻は、美しい月が浮かぶ夜である。カーテンから透けて部屋を照らす淡い月光が、そのことを告げていた。
白藍の瞳は、静謐な夜に淡く輝いた。その顔を見るだけで、ダンはスズネの決断を察したようである。少年はにこりと笑うと、否定も肯定もしないまま、手元の短剣をスズネに差し出した。
柔らかな木材で造られた短剣を、スズネの手がゆっくりと握る。考えるよりも先に、その木の刃は、ダンの喉元に当てられた。
あれほど当たらなかった刃はいとも容易くダンの白い喉元を捉え、触れる。本物であれば彼を傷つけたであろう行為に、ダンは小さく微笑んでみせる。
「スズネさん。お気付きかと思いますが、ミカ様が残した本には、貴女に眠る力を解放させる鍵が眠っていました」
「……鍵」
「貴女だけは、特別な手段が必要だった。上手く目覚めたようで、本当に良かったです。どうか、貴女の中で眠る声に従って、貴女が望む結末を導けますよう」
お祈り申しております、と、やけに恭しい口調で言い切ったダンは、そのまま、深々と頭を下げた。鼓動と共に、身体の内側で何かが波打っている感覚を全身で感じる。
淡く輝いた白藍の双眸を見開いて、スズネは、静かに部屋の扉に手を掛ける。それまで閉め切ってばかりだった扉を勢いよく開けた先には、それを予知していたかのように微笑むオウが立っていた。
「スズネ、行くの?」
「行きます」
「ヨルの元に行くってことは、どういうことか分かるかな」
「分かります」
「始めたら、終わっちゃうかも。失敗しちゃうかも。もう二度と、元には戻れないかも」
怖くないの? と尋ねるオウの瞳は、何処か挑戦的で、その反面、穏やかで。その二面性を彼らしく思いながら、スズネは、小さく微笑んだ。
「怖いです。終わってしまうかもしれない。失敗してしまうかもしれない。元に戻れないかもしれない。そうなったらきっと後悔します。それでも、私、『これでよかった』って思えると思います」
心の中で、スズネが連想するのは、美しい星空の記憶だった。二人で星を見に行こう、という約束を語る声は、この里にやってきてから、ずっとオウの声で再生されてきた。
あの笑顔も、優しい声も、その時に抱いていた感情も、全て、今のスズネの決断を間違いだと糾弾する。けれど不思議と清々しい気持ちでいるのは、目の前のオウの瞳が、酷く嬉しそうに輝いているからだろうか。
「オウくん、有難う」
その一言を残して立ち去るスズネを、オウの穏やかな視線は、いつまでも見守っている。けれどスズネは、もう二度と振り返ることはなかった。
久方ぶりに立って走っているのに、身体は全く不調を訴えない。背中を誰かに押されている気分で、スズネは神の炎が眠る祠に急いだ。
頭の中で、誰かの声が何重にも響く。不思議と煩わしくないそれは、初めてにしては聞き慣れた、女性の声をしていた。
『あの子のいるところに行かなくちゃ。速く、速く、速く――あの子が、消えてしまう前に』
酷く焦燥したその声に、スズネも小さく頷く。
速く行かなきゃ。速く、あの人が消えてしまう前に。
全てが終わってしまう前に、始めなきゃ。今度こそ。
冷たい空気が、夜空の白い光を放つ星々を酷く美しく魅せる。何かを訴えるような輝きに照らされながら、スズネは強く拳を握った。
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