第82話 憂鬱な恋慕

 頭痛が酷い。眩暈は立ち上がるのが困難な程度には重症になり、スズネは、寝具の上で一日を過ごすことを強制された。窓は遮光のための布で常に隠されており、逐一開け閉めするのは、体調面でも精神面でも億劫だった。故にスズネは三日ほど外の光を浴びておらず、外の景色を見ていない。スズネがすることと言えば、定期的にやってくる嘔気と格闘しつつ、ヨルから言い渡された一言を、幾度となく反芻することくらいなものだった。

 スズネは、宿屋の一室で小さく息を吐く。憂鬱を具現化したような溜め息は、行き場を失って空気に融けた。

 現在時刻を知る術は失われている。強いていうのなら、カーテンの向こうから差し込む光がないため、酷い曇天の昼間か日が傾いた後の時刻であることは理解できた。しかし、天気や時刻などという要素は、現在のスズネにとっては興味をそそられる話題ではない。今から雨が降りだそうが、夜が明けようが、宿屋の部屋に籠るスズネにとっては全て遮断された外側の世界の話。外の世界について考えるのは、何よりも疲れる。停滞した思考はそこから先に踏み込むことを止め、その虚無の時間が、ここ三日の無力感を増幅させていた。


「――好きに、なりたくなかった」


 沈黙が落ち続ける部屋の中、スズネはぽつりと呟く。その言葉の主よりもいくらか高い自分の声がなぞるのは、スズネに刻み込まれた憂鬱な告白の言葉だった。

 遠まわしに好きだと伝えられる言葉。そして同時に、その好意を否定する率直な言葉。

 それを言い放った時のヨルの顔を思い出す度、スズネの心臓は嫌な音を立てる。いつだって優しさに満ちていたヨルが歪な表情を浮かべ、あれだけ残酷な言葉を残したのだ。そこに至るまでに、彼が如何に痛みを蓄積していたかは想像に容易い。スズネの容易い想像一つで補える痛みではなかったことも、十二分に予測がついた。


「どうすればよかったの」


 寝具の上で膝を抱えて、その膝に顔を埋める。この上なく小さく丸まったスズネの独り言は、先ほどからヨルの言葉の復唱か、過去に執着する後悔の言葉ばかりであった。

 既に体温を吸いきって熱を与えてくる布団は、煩わしいので既に押しやっていた。素肌に触れる空気は冷たくも熱くもない。全てが無に感じられる宿屋の中で、スズネは何度も同じ言葉を呟く。枕やシーツ、押しやった布団は所々が涙でぐっしょりと濡れており、睡眠欲を大いに削いでいた。


「スズネさん、僕です。ダンですよ」


 嫌と言うほど設けられた逡巡の時間を終わらせたのは、扉越しの幼い少年の声だった。

 規則正しい三回のノックの後で、ダンの丁寧な声掛けが飛んでくる。返事をすることは躊躇われた。人と会うことは当然として、話すことすら避けたいのが本当のところ。しかし、無視をするのはあまりにも失礼である。自分の私情を突き通してまで守りたい内心など、スズネは持ち合わせていない。


「……はい」

「今いいですか? お話があるんですけど」


掠れたスズネの声を聞いても、ダンの明るい声音は変わらない。気を遣わせていることに気が付いて肩を竦めたスズネは、はいともいいえとも言えぬまま、数秒の硬直を余儀なくさせた。

 三日前。つまり、ヨルに残酷な告白をされた日。

 あのまま、スズネは倒れてしまった。無論、一人で宿屋まで移動することなど到底不可能であった。いっそのこと誰にも見つからないまま消えてしまいたい、というスズネの儚い願望を打ち砕いたのは、何を隠そうダンその人であった。

 どんな手段を用いたのかは分からないが、気を失ったスズネを宿屋まで運んだのはダンである。――と言う話を、人伝いに聞いた。しかし、本人からの接触は皆無で、スズネも部屋を出られるほど好調な日は無かった。部屋を訪れるのはコハルとシンヤ、そしてオウやサイといった面子ばかりだったのだ。誰が相手でも、スズネは話をできる体調や精神状態を持ち合わせておらず、深い眠りについていることも屡々あったので、各方面に酷く気を遣わせながらの訪問ではあったけれども。

 ダンからの接触は、スズネが部屋に引籠り初めて以来、初めてのことだった。妙な緊張感がスズネの内心に芽生える。


「失礼しますね」

「あ」


 どんな言葉を紡ぐべきか悩んでいると、部屋の扉は容赦なく開けられた。『いいですか?』というのが形ばかりの質問であったことを悟りつつ、スズネは目元を拭う。擦りすぎて赤くなった目許や、ぐしゃぐしゃにしてしまったシーツや布団を見ても、ダンは優しく微笑むばかりで、文句を言う気配はない。

 慎ましい言葉遣いとは裏腹に、ダンは容赦なく室内に踏み込んだ。スズネが蹲っている寝具の脇まで、室内の椅子を引きずりながら近付いてくる。そうして、何を言われる前にちょこんと椅子に座った。視線が交わった際、にこりと愛想の良い少年の笑顔を浮かべたのは、スズネが話し合いに好意的ではないことを知っていたからだろう。


「調子、あんまりよくなさそうですね。寝転がったままで構いませんよ」

「……そういう、訳には」


 緩慢な動作で上半身を起こすスズネを、ダンは温かい目線で見守った。一切崩れぬ温厚な表情は、ここまで一貫していると、寧ろ恐ろしい。そういう感想を抱いてしまうのは、ヨルの一件があったからに違いない。

 スズネは、おずおずとダンの顔色を窺う。体調を崩す前だって戦闘訓練でまともな結果を出せなかったのに、今はこの有様である。いくら丁寧で優しい少年といえど、長い年月を生きた精霊である彼から見れば、現在のスズネはあまりにみっともない姿に見えるだろう。自分自身に抱く劣等感と罪悪感は、ダンの明るい表情を曇らせて見せた。

 言葉を失って目を伏せるスズネを見ながら、ダンはあくまで明るい声で会話を切り出した。


「率直に言いましょう。先ほど、ヨルさんが戦闘訓練を突破されました」


 ヨルの名を聞いた瞬間に、スズネの肩は大袈裟に跳ねた。心音が激しく鳴るのが、口から飛び出る合図のように聞こえる。

 心の声を読めるはずの彼は、恐らく、ヨルとスズネの間で起きた一件を知っているのだろう。否、きっと本人たちが問題を起こす前から、彼はその件を認知していたはずだ。ダンがわざわざ口に出す素振りを見せなかっただけで。


「スズネさんを含めた四人の中で唯一の合格者です。長らくマナの訓練をしていたのもあるでしょうね。彼は無事奥義を取り戻し、再び神の試練を受ける資格を獲得することができましたよ」

「……シンヤとかコハルちゃんは、まだ?」

「ええ。御二人共、色々と心配事があるようで。一歩でヨルさんはある種踏ん切りがついたんでしょうね。鬼気迫る様子で訓練を合格されましたよ」


 本物の短剣だったら危なかった、と、冗談交じりに笑うダンは、己の細い首を指で軽く叩いて見せた。反対の手には木製の短剣が一本握られている。少年は顔の何処にも疲労感を浮かべていなかったが、ほんの少し前まで戦闘訓練を行っていたことが伺えた。


「試験監督にはメイがつきます。ヨルさんはそのまま試練を受けに行く、と、メイを連れて神様の炎の元まで向かわれました」


 ダンの声は、あくまで淡々と事実報告だけを述べた。その簡素な言葉とは裏腹に、スズネの心臓は冷やりとした温度を訴える。

 四人で挑戦した試練でさえあの結末だったのに、ヨルは、それをたった一人で終わらせるつもりなのだろうか。精霊に与えられる奥義がどれだけ凄まじいものだったとしても、彼一人で終わらせられる試練だとは思えない。神の炎の凶悪さや、試練の意味合いなどを考慮しても、到底ヨル一人の行動で終えられるものではないはずだ。

 普段の冷静な彼ならば、そんなこと、直ぐに理解するはずなのに。


「シンヤとコハルちゃんは、ついていくんですよね? 奥義、取り戻してなくても、二人がちゃんと……」

「いえ。奥義を取り戻していない精霊があちらに行っても、危険性が増すだけでしょうし。御二人にはこのことを伝えていませんよ」

「……なんで……それじゃあ、ヨルくんの奥義は一人で試練を熟せるくらい、強いん……です、よね?」


 小刻みに震えたスズネの声を聞いて、ダンは小さく微笑む。丸々とした少年の瞳は、細くなると、酷く大人びた印象をスズネに与えた。

 無邪気で無垢。それまで抱いていた彼の印象を大きく覆す。そこにあるのは――大人染みた冷酷さだ。


「いいえ?」

「……いいえ、って?」

「ヨルさんの奥義は確かに強力です。しかし、数百年前の残骸と言えど、相手は神のマナ。たった一人の精霊が消化できるはずありません」

「じゃあ、なんでヨルくんをたった一人で行かせたんですか!? ダンくんがそれを知っているなら、当然、メイさんだって知ってるはずで……ヨルくんを失わないように、絶対、止めるはず……」

「この試練は、メイではなく貴女達に課せられている。行動、選択、結末――全ては神に示すもの。僕達は観測者です。試練を受ける者が選んだ結末なら、どんな形でも受け入れます。無論、メイだってそういう生き方をします。それが我々星の民の生き方です」


 ダンの声は、一寸の揺るぎもなく発せられた。決意や強い意思を感じさせない――それが当たり前だと悟っている声だった。彼等にとっては、その生き方は何の勇気も苦しみも伴わない、当然のことのようだ。

 つい先日まで話していた人物が目の前で死に往く道を選んだとしても、それは『そう言う選択』だと受け入れる。それを当然だと語るダンの表情は、あまりにも穏やかだった。

 一方で、スズネの方は全身から血の気が引いていた。今までで一番強い眩暈がスズネの身体を強襲する。


「勿論、ヨルさんは死を選んだ訳ではありません。彼はこの試練を終わらせるつもりでいます。何処まで本気で言っているかは、彼と、それを読んだ僕にしか分からないとは思いますが」

「……ダンくんは、ヨルくんが死んでもいいと言ってるんですよ? そんなの……」

「言ったでしょう。彼は『踏ん切りがついた』と。ヨルさんは今まで様々なことに葛藤し、行動し、その末でこの選択をした。貴女達を次の試練へ導くか、己が姿を消すか。どちらに転んでも、彼にとってはそう悪くない選択肢なのでしょう。星は、全ての決断を等しく見守ります」

「……そんなこと……」

「貴女はよく知っているでしょう。彼がどういう踏ん切りをつけたのか。……スズネさんはどうですか? 踏ん切り、つきましたか?」


 ダンの甘やかな声で投げかけられた問いに、スズネは小さく肩を竦める。脳裏を掠めるのは、ヨルが残した、残酷な好意の言葉であった。

 踏ん切りというのは、きっと、あの言葉を指すのだ。あれはヨルの決断の言葉だったのだ。

 好きになってはいけないと、全てを否定して曖昧にしていたのはスズネの方だ。彼は、その行為を認め、口に出した上で、全てを終わらせるつもりなのだろう。

彼の全てだった『思い出の誰か』以外の好意を認めた誠意に、応えられなかったのは、スズネの方だ。

 残酷だ、なんて、本当に残酷なことをしていたのは、誰の方だろう。

 胸の奥が鋭利な刃物で突き刺されたような痛みを訴える。素直に顔を顰めたスズネは、静かに、自分の心中に揺蕩う言葉を探した。


「……図書館で、ダンくんについて、色々な話を見聞きしました」

「はい」

「ダンくんなら、叶わない恋の苦しさを、よく知っているはずです」


 スズネの言葉に、ダンは狼狽える様子を一切見せない。彼の奥義は、良くも悪くも全ての情報を集めることができる。スズネがどんなことを知ったのか、口で説明せずとも、ダンはよく理解しているだろう。積極的に触れられたいような話題でもないはずだが、ダンは嫌がる素振りも見せず、ただ静かに頷くばかりだった。


「どうぞ、お話を続けてください。会得した情報は、書くか話すかして形にしないと意味がないのです。スズネさんのごちゃ混ぜになった今の心では、思考も読みにくい。是非、貴女の言葉でまとめてみてください」


 ダンの勧めに従い、スズネは静かに思考を言語化してみせた。歴史書に比べればあまりにも拙い言葉を、掠れた声で紡ぎ直す。ダンはその拙さも厭わしくはないと言いたげな表情で耳を傾けている。


「……ダンくんは、精霊の中で最も年長のすごい精霊だ、ということを知りました。その寿命に恥じず、ダンくんは星の大精霊に全身全霊でその身を捧げ、仕事を全うしてきました。今のダンくんの恭しい態度から見ても、それは明らかなことです」

「わあ、なんだか照れちゃいますね。それでは、そんなに『すごい』僕が、どうして大精霊セイ様の補助を降りたのか。勿論、ご存知ですよね?」

「大精霊の補助でありながら、契約者を欲したからです。歴史書には……叶わない恋をしたから、と。記述されていました」


 スズネの遠慮がちな声を聞き、ダンはにこりと愛想の良い一笑を零した。それが肯定の意であることは、明白なことである。

 ダンはその通り、と小さく手を叩くと、何処か懐かしむように目を細める。そこに浮かんだ僅かな熱は、観測者に徹する少年が、観測者に成り切れなかった当時の記憶を、ありありと語っていた。

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