第81話 歪

 調べものをしている内に、それなりの時間が経過したらしい。高かった日は沈みかけており、夕暮れに燃える空が二人を見下ろす。図書館の塔が創り出す濃い影の中、ヨルとスズネは数秒の間沈黙を守っていた。

 図書館に入る前に生えていた塔周囲の木々は忽然と姿を消している。ヨルがマナの特訓を切り止めたようだ。見晴らしがよくなった塔付近は、ヨルとスズネ以外の人影が見当たらない。メイの姿がないことに安堵をする余裕すらないスズネは、そのまま、全身から力を抜けさせた。

 身体の重心を大きく傾けたスズネの様子を見て、ヨルが驚愕の表情を浮かべる。咄嗟に伸ばしたのであろうヨルの腕は、スズネに触れる前に引っ込められた。受け止める前に、スズネの身体がその場に座り込んだからである。倒れこまなかったのは、彼の前でこれ以上みっともない姿を見せたくはないというスズネの意地であった。


「……どうしたの? 調子悪い?」


 明確にスズネに向けられたヨルの声に、スズネは小さく肩を竦めた。その声を『久しぶり』と感じるのも致し方ないだろう。普段通りを装うのが極めて困難な体調の中で、忘れかけた普段を思い起こすのは非常に難しい。

スズネは眉間に皺を寄せてから、程なくして「大丈夫です」と簡単に答える。散々気まずい思いをさせているのに、これ以上何かを言ってヨルに迷惑を掛けることは避けたかった。


「ずっと本を読んでいたので疲れたのかもしれません。ヨルくんも、特訓お疲れ様です。……メイさんは?」

「さっき知らない女性に連れて行かれた。後で宿屋で落ち合う予定だけど、何か用事?」

「いえ、一緒に居ないのが不思議だっただけです。その、最近はずっと一緒にいらっしゃったので」

「まあ、百年も待たせたんだからこれくらいはね。罪滅ぼしって訳でもないけど……僕の特訓に付き合ってもらってるだけだし」


 ヨルの表情はあまり明るいものではなかった。スズネとの会話に嫌悪感があるのか、特訓による疲労か、彼らしからぬ険しい表情をしている。視界が歪むような眩暈の中で、その事実だけはしっかりと確認することができた。いっそ視界が定まらないほど不調になってくれれば、まだまともに会話ができたかもしれない。

 気まずさの漂う空気の中、やや間を空けて、ヨルが静かにスズネに問いかけた。


「図書館で何してたの?」

「少し、ダンくんの情報収集を。弱点が分かれば多少は立ち回りやすくなるかと思ったんですけど……」

「何か分かった?」

「物理的な弱点は何も。いくつか気になることはありました」


 後で話し合いましょう、とぎこちなく笑みを浮かべるスズネに、ヨルもまた、不自然さの残る動作で頷きを返す。ヨルが少し前まで常に浮かべていた優しげな笑顔は、今の彼には無い。たったそれだけのことで、その場に渦巻く空気感はがらりと変わるものだ。

 吹き抜ける風が冷たい。身体をその場に縫い付けるような冷たさに、スズネは一瞬身震いする。身体の奥が嫌に冷えているような気がした。


「今日は冷えますね。ヨルくん、お昼寝して風邪とか引いてませんか?」

「そう? 普通だけど……ああ、夕方になってから冷え込んできた気はするね。精霊は風邪引かないから大丈夫だよ。今日は例の強制睡眠も浅かったし、キミが心配することは何も。……それより、キミのが体調悪そうだよ。ねえ、本当に大丈夫? キミもマナ不足の影響受けてるんじゃない?」


 ヨルは気遣わしげな顔でそう呟く。そこに寒さを堪えているような雰囲気は無く、凍えるほど寒い思いをしているのはスズネだけらしい。急激に寒さを感じるようになったのは、ミカの幻影から『何か』を渡された途端に体調が優れなくなったことと関係があるはずだ。

 マナ不足ではない。そう断言できるのは、スズネは許容されている範囲内でしかマナを使っていないし、猛烈な眠気に誘われることもないからだ。この不調はそれとは全く関係のないところで起こっている。それはそれで、原因が何であるかが全く理解できない以上、全く良しとは言えないのだが――。

 分かりやすく心配を帯びたヨルの視線に、スズネは小さく首を横に振る。平気だ、という意思表示をいくらしても、その視線が途切れることは無かった。


「大丈夫です。本当に、少し疲れただけ、だと思います。ちょっとずつ楽になってはいるので……」

「全然そう見えないけど。本当にしんどそうだよ。宿屋まで運ぼうか?」

「平気です」

「スズネ、強情張らないで。どう見ても絶対平気じゃないよ」


 ヨルの声は普段よりも多少硬い。優しさばかりが含まれている訳ではない彼の声に、スズネの思考が僅かに乱れる。スズネの正面にしゃがみこんだヨルの顔を見つめることができなかったのは、近さ以上に、メイと一緒にいるヨルのことばかりを思い出してしまうからだ。

 本当にどうしたの、と尋ねるヨルの声が脳内に反響する。どうしてこういう時ばかり、彼は目敏く、そして優しくなるのだろう。ここ一週間、何ら関わりがなかったのに、こうして直接的に苦しんでいる時にばかり声を掛けてくる。林檎の差し入れも、こう言う声掛けも、彼が律儀な性格をしていると理解していても、ほんの少しだけ恨めしくなってしまう。

 ヨルがもっと意地悪だったなら、分かりやすくスズネを突き放してくれたなら、『好きになってはいけない』なんて言葉で自分を押し殺さずとも済んだだろうに。

 何百回、何千回と頭の中で反芻したその言葉が、脳内で繰り返される。

 好きになってはいけない。それで苦しむのは他でもないスズネである。そんなことは赦されない。

 好きになってはいけない。――だから、これ以上好きにさせないでほしいのだ。


「……私なんかに優しくするより、メイさんに優しくする方が、堅実的です」


 不意に口を衝いて出た言葉に、ヨルがぴくりと肩を跳ねさせた。夕陽を浴びて輝くヨルの瞳が大きく見開かれる。それすら、スズネは見ることができない。

 一層冷たくなった空気の中で、スズネの声はよく目立った。静謐の中で存在感を放つスズネの声は、そのまま、か細いながらに言葉を紡ぐ。僅かに震えたその声を止める術は、自分にだって分からなかった。


「私は、貴方が望んだ大事な人ではないんです。……ヨルくん、神都で、私が『その人』だと思ってるって言ってくれましたよね。でも、違います。違うんです。私はメイさんじゃなくて、私の大事な人もヨルくんではなくて……もう、私に気を遣ったり優しくしたりする必要、ないんですよ」

「……スズネ」

「メイさんはずっと貴方のことを待っていた健気な人で、ヨルくんはそんなメイさんの存在を記憶喪失になっても忘れなくて。そんな二人が漸く出会えたんですから、私のことなんて気にしないで、メイさんに優しくしてあげてください」


 自分の言葉が自分の心臓を抉る。心臓の音は大きいまま、目の奥が貫かれたように痛いのを無視して、スズネはその言葉を言い切った。涙が零れそうになったのを、目を擦るふりをして誤魔化す。へらりと浮かべた口元だけの笑みは、ヨルに届くことなく、顔を俯けた際の影ですっかりと隠れてしまった。

 ヨルの優しさを搾取するつもりはない。一度でも彼の思い出の大事な人が自分だといい、と願った自分が、あまりにも浅はかで愚かに思える。自嘲の笑みが込み上げるのは、あまりにもそんな自分に嫌気が差すためだ。

 ヨルがスズネのことを「思い出の人かもしれない」と認識していた以上、彼の優しさの殆どは、スズネではなく、『思い出の人』に向けられていたということだ。彼自身が樹の里でも発言していた通り、彼はずっと自分が守るべき存在を探していた。スズネは偶然その項目に当てはまるだけの人物だった、と言うだけに過ぎない。

 盗賊から救われた出会いも、神都で迷子防止だと手を繋いだ事も、眠れない時に歌ってくれた子守歌も、馬車で肩を貸してくれた時間も、優しい微笑みも、声も、言葉も。

 彼の優しさの全ては、スズネを通して思い浮かべていた『大切な人』宛てなのだ。

 それを自分のものだと勘違いして、勝手に勘違いしたのは、スズネの方だ。それを優しさの搾取と呼ばず、なんと呼称するのだろう。


「私なんか、構わなくて大丈夫です。今度は正しく、ヨルくんの大事な人に優しくしてあげてください」


 今までスズネが勝手に独り占めしてきたものを、返すだけである。これ以上ヨルに面倒を掛けて失望されたくはない。

 好きになってはいけない。スズネはヨルのことを決して好きにならない。だから、何の面倒も迷惑もかけない代わりに、ただ友人として話したい。つまるところ、スズネの願望はそれだった。

 ヨルに迷惑を掛けることで、優しさを搾取することで、好きになってしまうことで、嫌われたくはなかった。

 数拍、沈黙が落ちる。空を切る風の音は、何処かから周りをしているような音を出していた。ひゅう、ひゅう、と何度も鳴る風の中、自然の音以外は聞こえない沈黙を破ったのは、温度を失ったヨルの声だった。


「……キミは、いつもそうだね」


 その声は、優しい声音の割に何処か冷たい印象を受けた。まるで分厚い壁を突きつけられたような、そんな気分になる。スズネがふと顔を上げると、ヨルは眉尻を下げ、珍しく哀しさを表に出した表情を浮かべていた。

 銀灰色の前髪が風に揺れる。その下にある青と緑が混じった宝石のような彼の瞳は、もう、スズネを捉えてはいなかった。


「出会った時から今の今まで、スズネは僕に『大丈夫』ばっかり言って、頼ろうとはしてくれない。大丈夫じゃない顔でずっと突き通される大丈夫がどれだけ怖いか、きっとキミは分かんないんだろうな」

「……ヨルくん?」

「信じて、って言ってくれる君を信じたかったよ。でもね、スズネ。どんな気遣いの末に吐き出した優しい嘘でも、嘘であることに変わりはない。嘘は、露見した時点で人の信頼を殺していく。……キミは分かりやすいから、嘘が嘘ってすぐに分かるんだよ。ねえスズネ、今まで何回僕に嘘吐いて、何回僕の信頼を殺して、何回僕に信じてって言った?」


 責めたてるというにはあまりにも穏やかな声が、スズネの鼓膜を撫でていく。突き刺されるよりも遥かに突き放されているような呆気ない言葉が、その空間を埋めていった。

 火傷のような胸の痛みは、いつの間にか治まっていた。その代わり、真綿で首を絞められるような感覚が、次第に全身を支配する。ヨルの言葉によって呼び起こされるのは、恐怖にも似た感情だ。その感情は、指先を動かすことすらままならなくしていく。

 その感覚をよく知っていた。嫌われたくないと願って行動しても、それらは全てが裏目に出る。その行動が相手の首を絞めて、二人が共に歩めない未来が少しずつ近づいてくる、その感覚を。


「僕に助けを求めるのはそんなに辛い? 僕が頼りないから? それとも、僕が、キミを守るだけの実力を持ち合わせてないから?」

「……そんなことは一言も言ってません。だって私いつも救われてばっかりで、ヨルくんにご迷惑ばっかり」

「それについても、何度僕が大丈夫だって言ってもキミは信じてくれない。どう頑張っても信じてもらえないし、助けも求められない。お前には守れないって言われてるみたいだ。そして、その度にいつも自分の無力を恨んじゃう。キミの運命の相手は僕じゃないって、何十回も思い知らされるんだよ」


 そこで初めて、ヨルは乾いた笑い声を絞り出した。傾いた夕陽が静かに山の向こうに沈んでいく。時間経過と共に緩やかに暗くなっていく中でも、ヨルの表情は良く見えた。

 あまりにも痛々しさが滲んだ笑顔に、スズネは見覚えがあった。スズネが不調を覚える度、それを心配したヨルに『大丈夫だ』と答えてきた数々の己の言動を。迷惑をかけまいとして行ったそれらの後で、必ずヨルが物言いたげにしていたことを。眼前の笑顔は、その時のヨルの表情を連想させた。


――あれが傷ついた表情であったことを、スズネは今、初めて知ったのだ。



「ヨルく、ちが……私はただ、迷惑を掛けたくなくて」


 ふい、と視線を逸らされて、スズネの心臓を焦燥感が焼く。誤解を解かなければ、という一心で無意識に伸ばした手は、緩やかに、けれど確かに、ヨルの手によって押し退けられた。


「キミが思い出の人だったらいいなって、思ってた。だって、そうじゃないと、記憶を失った僕に唯一残されたもの――かつての大事な人の存在が揺らいじゃうから」


 明確な拒絶を示しながら、ヨルが自棄になったような笑顔を浮かべる。眉間に寄った皺は、心底辛そうなヨルの心境を表していた。

 夕陽が落ちて、周囲には深い影が落ちる。塔と地面の影の境界線が曖昧になる頃合いで、ヨルは、何かを嘲笑するような含みのある笑い声を落としながら、吹っ切れたような声で呟いた。


「キミを守りたいと思うのはキミが大事な人だから。キミに一際優しくしたいのはキミが大事な人だから。キミと触れ合う口実を探すのはキミが大事な人だから。キミがその人じゃないと、僕が僕であるための条件が失われちゃう」

「条件、って」

「キミがかつての大事な人じゃないと、僕は彼女がいない間に他に大事な存在を造った奴になる。『かつての大事な人をずっと好きでいた僕』が死んじゃう。記憶を取り戻す前に、僕は僕ではなくなってしまう」


 遠まわしな言葉が何を伝えたいのか、スズネの脳内は否応なしに受け取った。ヨルが投げやりな理由も、スズネのどんな言葉に傷ついたかも、その瞬間に全てを理解してしまった。


「違うって言い聞かせても駄目だった。諦めようとしても駄目だった。真実と向き合って受け入れようとしても駄目だった。キミが本当の大事な人と一緒に居るのを見ると苛々する。何をしてても忘れられない。頭から離れない。何をしてたって、キミが全部僕の思考を上塗りにしていく。守りたかったことも守れなかったことも、その役割が僕じゃなかったことも、全部苦しくて仕方ない。キミに頼られない自分も、頼ってくれないキミも、恨めしくて仕方ないのに、全部切り捨てられない」


 勢いよく吐露された感情の羅列は震えていた。ヨルがここまで感情を剥き出しにする瞬間を、スズネは見たことがない。今にも泣きだしそうな声で並べられた長文は、ここ暫く彼がスズネを避けていた訳や過剰にメイと行動を共にしていた理由を分かりやすく提示していた。


「……キミのこと、好きになんてなりたくなかった」


 そうして、泣き出しそうな顔をした少年に告げられた一言は、静かにスズネの心臓を貫いた。

 そうしたら楽でいられたのに、と付け足されて、スズネは呼吸を止める。スズネが言葉にしないように自身に掛けていた言葉の杭は、ヨルの心臓に、同じように刺さっていたのだ。

 穏やかに絶望を語るヨルの声に、スズネは呆然と彼の顔を見つめる。辺りは暗い。瞬時に頬を伝った涙は、その薄らとした影に隠れて、ヨルからは見えなかっただろう。


「ごめんね」


 ただ一言添えられた謝罪は、何に対して向けられたものか分からなかった。それ以上の対話は無意味だと判断したのか、或いは、言葉を失ったスズネが見るに堪えなかったのか、ヨルは静かに夜を迎える星の里の中心部へと歩みを進める。最早スズネに向ける心配など無いのだろう。だって、それらを全て拒絶して、ヨルの心さえ踏みにじったのはスズネ本人である。

 遠のいていく足音を見送って、スズネは冷え切った空気の中で未だ座り込んでいた。立ち上がる気力はない。未来永劫そこから動ける気がしないのは、勘違いでも何でもない。全身に入る力など、最早残されてはいなかった。

 眩暈が酷い。図書館を出た直後よりも増した眩暈に、殆ど確保できていない最低限の視界が滲むのが分かる。

 嗚咽と嘔気が込み上げて、顔面をぐしゃくしゃに濡らす涙は留まることを知らない。

 どうすればよかったのか。己の行動を顧みて、反省や嫌悪の感情が込み上げる。

 最善を選んできたはずの選択は、最悪の結果を招いて終止符を打った。冷え切ったスズネの身体は動かない。

 夜空に散らばった大量の星々の輝きは、スズネの視界には入らなかった。いつかの記憶で見た空よりも圧倒的に美しいはずの星空は、今まで見たどんなものよりも忌まわしいものに見えて仕方がない。それはまるで呪いのように、スズネの記憶に深く刻み込まれるのだった。

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