第80話 邂逅の刹那

 一通りの話を語り終えると、司書は羽ペンを指先で弄び始める。宙に何かを書くような子供らしい仕草で、羽ペンの先端がひらひらと揺れた。


「……こんなに大事な話を聞いて、よかったんでしょうか。ダンくんの個人的なお話なのに」

「いいのですよ。ここは全ての情報と記録が集まる場所。必要があればそれらは全て開示される。そういう場所なの。それに、これは歴史の性質でもあるしね」

「ダンくんの事情は、理解できました。有難うございます」

「情報を知ることは、それと同じだけ力を持つということだわ。応援しているわね」


 司書の笑い声混じりの声援に、スズネはぎこちなく頷く。それから、遠慮がちに口を開いた。ここに来てから――正確には、神都でその話を聞いてから、ずっと気になっていたことがあるのだ。


「……あの、精霊と契約するのは結婚と同じって、本当ですか?」

「ああ……それくらい重要というだけで、結婚するわけじゃないわ。神様と神官がそう言う意味合いで契約をなさったから、そういう認識をする人が多いけれど。信頼がおける人と契約するのは間違いないけどね」

「それじゃあ、恋愛関係になくても、契約はできるんですね」

「ええ。……誰か契約をしたい人でもいたの? ふふ」

 司書の揶揄うような声に、スズネは勢いよく首を横に振る。

 ずっと気掛かりだった。夢に出てくる『契約者』の存在が。

 スズネの夢には、決まった人物が出てくる。その中の一人が、補助の精霊であるスズネが持つはずのない契約者の影だ。その影は、記憶の断片に、確かに存在している。

 契約者を望むなら、ダンのように補助精霊を引退しなければならない。しかし、スズネは現在も補助精霊を務め、大精霊の代行で神の試練を行っている。引退をした、という訳ではなさそうだ。

 事実がどうであれ、スズネは最愛の人物以外と恋愛関係にあった訳ではないらしい。これ以上、最愛の人物候補が並ぶのは避けたかったのだ。混乱を防ぐためにも、自分の名誉のためにも。

 事実を確認して安堵したスズネを、司書はベール越しに眺めている。それから、彼女は何かを思い出したように突然その場で立ち上がった。


「ねえ、スズネさん?」

「は、はい?」

「貴女に読まれたいと思っている本がいるのだけれど」


 本がいる、と言うのは、不思議な表現だった。困惑を示したスズネにも構わず、司書はのんびりとした声で「どうかしら」なんて問いかけをしてみせる。スズネは、暫く小首を傾げた後で、メイの発言を思い出した。


「あの、それ、私にしか読めないっていう本のこと、ですか?」

「ああ……そうよ。誰に聞いたの?」

「メイさんに」

「ふふ、そう。メイもあの本を貴女に読んでほしいみたい。どう? 読んでいく?」


 司書は可笑しそうに小さく笑い声を零したが、メイの意図までは語らなかった。本を読むか否かは、あくまでスズネの意思に任されるらしい。僅かに続いた沈黙の後、スズネは、曖昧にその首を縦に振る。肯定の意を示せば、司書は、別段喜ぶ様子も悔しがる様子も見せずに、「じゃあいらっしゃい」と淡泊な言葉を投げかけた。

 司書は緩慢な動作で立ち上がり、スズネの眼前を通り過ぎていく。その先は、本棚が塔の上まで積み上がった情報の洪水地帯である。背表紙を見るだけで視界から飛び込んでくる情報量は圧倒的だ。思わず気圧されたスズネは、その先に踏み込むことを躊躇い、その場に立ち尽くす。そんなスズネの様子を悟ったのか、司書は、振り向かないまま言葉を紡いだ。


「星の民ならば、どんな情報も好きに観覧することができる。それは、我々が神直々に『観測者』の役割を任されているから。……でもね、それは、かつて本の中にいた私達が、本の外に締め出されたということでもあるの」

「……締め出され……?」

「私達は罪を犯し、その末に物語に関与することを禁じられた存在。私達は全てを知ることができる代わりに、物語を書き替えることはできない。――この本は、私達『読者』ではなく、貴女のような『登場人物』に向けて書き残されたもの。だから私達は読むことができない、という訳です」


 司書の説明は、酷く抽象的だった。スズネが全てを理解する前に、司書はその思考を撃ち止めるように両手を叩く。沈黙の落ちた図書館内には、乾いた音がやけに大きく響き渡った。

数千冊は優に超えるであろう量の本の中からたった一冊を見つけるのは、スズネにとっては不可能に近い至難の業である。しかし、彼女にとってはそうでもないようだ。

先ほどと同じように、司書の手元に一冊の本が飛び込んでくる。寸分の狂いもなく司書の手の平に納まったその本は、白い革の表紙の美しい本だった。


「この本は、少し特殊なの。だから、読むときに驚かないようにね」

「は、はい」


 見掛けは何の変哲もないが、司書の言葉通り、その本からは微かにマナの気配が漂っている。丁重に手渡された本を受け取ったスズネは、何かの宝物を持った気分になって、肩に力を込める。妙な緊張感が、全身を巡った。

 本の表紙には、金色の字で題名が残されていた。

 題名は、『願い事』。その本には、歴史書とは違って著者の名前が明確に示されている。

――著者は、ミカ。

 見知った名前に、スズネは瞬きを繰り返す。同時に、神官である彼は元々この里の出身である、という話が頭を過った。


「あの、これ……」


 スズネが顔を上げれば、司書は既に姿を消していた。まるで最初から誰もいなかったのように、当然といった顔をした無人の図書館が広がっている。歩いていった物音や気配は一切せず、彼女だけが空間から切り取られたような不自然さが辺りを支配した。

 絶句したスズネは、己の中に滲んだ恐怖に一瞬肩を震わせる。それから、それを誤魔化すように、本の一頁目の捲った。

 白紙。次の頁も、その次の頁も、スズネが予測していたような文字の羅列は見当たらない。


「その本、どれだけ捲っても文字はないですよ。文字の代わりにボクが現れる仕組みなんです」


 ペラペラと音を立てて素早く頁を捲るスズネを、誰かが背後で笑った。司書の声ではない。魅惑的な女性の声と呼ぶには低く、けれど、男性のものだと確信するには少し高い、中性的な声。

 聞き覚えのあるその声に、スズネはびくりと肩を揺らして、慌てて振り向いた。知っている声の主に安堵したからではない。その人物は、絶対にここにいないと知っていたからだ。


「み、ミカさん?」

「この本を読んでいるということは、ちゃんと新都に来てボクの話を聞いた後だと思います。でも、敢えて自己紹介をさせていただきましょう。こんにちは、ボクはミカ。神の契約者であり、神都の全てを守る者です」


 改まった自己紹介と共に、その人物――ミカは、その場で恭しくお辞儀をしてみせた。

 真白い髪に黄金の瞳。何処からどう見ても神都で見た彼と一致するその姿は、聞き覚えのある言い回しで自己紹介を終えた。


「予め言っておきます。ボクは、その本に仕込んである幻影ですので、いくら話かけられても返事をすることができません。ご了承ください」

「幻影……?」

「こちらである程度の反応は予測しておきますが、もしも的外れなことを言っていても、お許しください。これはあくまで、ボク自身の願い事を伝えるための本なんです」


 あくまで丁寧な口調を貫いていたが、その言葉には、有無を言わさぬ雰囲気が伴っていた。その圧倒的な美しさや雰囲気は、間違いなくミカそのものである。

 幻影、と聞いて思い出すのは、オウが見せた奥義である。記憶の再現を幻覚で行った彼の奥義を応用すれば、本の中に自分自身の幻を仕込むことも可能なのだろう。問題は、それが大精霊の補助を務める精霊だけが持つ奥義の応用というところだが――神の契約者である彼にとっては、それくらいは造作もないことなのかもしれない。

 幻影のミカは、その美麗な顔に微笑みを浮かべたまま、静かに口を開いた。


「神が遺したあの炎を、ご覧になったことかと思います。願い事、というのは他でもない。ボクは、あの炎を消してほしいんです」


 貴女にはそれが可能だから、と、ミカは語る。物怖じや躊躇いのない真っ直ぐな視線に、射られたスズネの方が身じろいでしまう。そうして理解したことだが、幻影というだけあって、そのミカはスズネが視界から外れても一点だけを見つめていた。


「ボクは神の契約者ですから、あくまで対等な存在です。ボクは何でも彼に申告することができるし、彼も大抵それを聞きいれる。でも、あの炎のだけは別でして。ボクや民が何を言おうと、あの炎だけは消火されることがない。――あの炎は、この里で虐げられていたボクを見て、彼が絶望した証なのです。ボクが虐げられていたのなんて、もう何百年も前の話なんですけれど。彼は未だにそのことを怒っています」


 何て愛情深い男なんでしょう、と、皮肉か惚気か分からない言葉が飛んだ。ミカの表情は依然として微笑みを携えたままである。幻影の彼は、自身の悲劇的な過去を語るには、あまりに穏やかな顔をしていた。

 ミカ自身は、決して自分の過去を嘆いている訳ではないようだ。無頓着なのか、とっくの昔に吹っ切れたのか、ミカの内心はいまいち読み切ることができない。


「あの炎は神の怒りそのものだ。人々に対する憎悪、それを生みだしてしまった自分に対する嫌悪。かつて世界を滅ぼそうとした炎が今も尚この里に封じられているのは、当時の神が『自分の一部分を切り離した』から。あの炎が燃える限り、神の一部は――彼は、その憎悪や憤怒に囚われたままなのです」


 そこまで言って、初めてミカは表情を変えた。痛ましそうに、或いは物憂げに目を伏せた彼が最も気にしているのは、自分の過去や里の命運ではなく、憎悪に囚われた神の方らしい。神を愛情深いと称した彼もまた、神に向ける愛は深いようだ。

スズネは、司書が『神と神官は結婚の意味合いで契約をした』と語っていたことを思い出す。成程。規模は盛大だが、つまりこれは、夫婦がそれぞれの形で互いを想い合っている、という話なのだろう。

かつて契約者――改め、結婚相手を虐げていた対象を決して許さぬ神。

対して、結婚相手が憤怒や憎悪に囚われることを心配している神官。

互いへの愛があるからこそ、互いに譲れない。世界の中心人物が掲げる愛は、どうあっても世界の一部を巻き込むらしい。大精霊同士のいざこざで世界の均等が崩れるというのだから、当然の話ではあるだろうけれど。


「僕や星の里の民では、彼を救えない。どうか、彼を救ってほしい。それが、貴女自身を救済することになるのだから」

「……どうして神様は、そんなに譲りたくなかった物事を『神の試練』として私達に任せたんでしょう」


 例え本物のミカではないと理解しつつも、口に出さずにはいられなかった。

 神の試練は、湖の樹、双方の大精霊の愛を試すために実施されるものなのだ。星の里の罪も、神の憤怒も、ミカの懇願も、関連性があるようには思えない。

 そして、神がこの世界で最も大切にしているであろう契約者のミカに纏わる物事なら、尚更スズネ達に任せる意味が分からない。ミカ本人に言われても消火しない炎の運命を、何故スズネ達に託すのだろう。

 考えれば考えるほど、意味が分からない。思わず顔を険しくしてしまったスズネが見えているかのように、ミカが苦笑を零した。スズネの声が決して聞こえないミカは、その問いの答えではない、別の言葉をスズネに投げかける。


「神は『貴女』に親近感を覚えるようです」

「……私に?」

「勝手な話ですけれど。かつて愛を理解できなかったあの男は、貴女にも愛を理解してほしいようですよ」


 頑張って、と添えられた応援の言葉に、スズネは瞳を瞬かせた。白藍の瞳に浮かんだ困惑を、ミカは微笑みで一蹴する。試練の性質か、彼の性格か、全ての答えを教えてくれる気は彼にはないらしかった。


「さて。そろそろ貴女も思うかもしれません。ボクが改めてお願いをしなくても、神の試練で消火を強いられるのだから、この本は無意味なのではないか、と。本とは何かを伝えるもの。ボクがこの本を他者に読まれないようにしたのは、『これ』を、貴女に渡すためなんですよ」


 そう言ったミカは、次の瞬間、右手をゆっくりと前に差し出した。何かを丁寧に持っているような仕草だが、その手の平には何もない。


「受け取りには、多少苦労するかもしれません。でも、試練を熟すのに役立つと思いますよ。覚悟を決めてから、どうぞお受け取りください」


 ミカはそれっきり、言葉を紡がなくなってしまった。差し出された手の平はそのまま、ミカは微動だにしない。

 困惑したスズネは、恐る恐る、ミカの手の平に触れた。指先が控えめに触れあう。相手が幻影であるせいか、体温はおろか感触さえ存在しなかった。

 しかし、幻影のミカに触れた場所から、何かが流れ込んでくる。血液が逆流するような、何かが流れに逆らって強引に入り込んでくる感覚に、スズネは思わず口元を抑えた。込み上げてくる吐き気と視界を大きく揺るがす眩暈と共に、スズネは勢いよくその場に転倒する。

 心臓が、今までにないほど高鳴っていた。緊張や恐怖、或いは、羞恥や喜び。そのどれでもない、動悸と呼ぶにふさわしい心臓の爆音が、耳元で鳴っている。

 滲んだ視界の中に、ミカの姿はもうない。大きく乱れたスズネの呼吸音が、無人の図書館内に響く。ひゅう、ひゅう、と虚しい呼吸音を繰り返す内、ふと、スズネは、自分の身体の奥で、何かが波打っている感覚がするのに気が付いた。

 全身の倦怠感や息苦しさとは別に、何かが溢れるような感覚がする。自分の中に何か強大なものがある。そんな不思議な感覚は、スズネに盛大な不快感を与えた。それが強い嘔気となって、スズネの体内を蝕み続ける。

 床に落下したミカの本は、役目を果たしたと言わんばかりに、表紙に刻まれた題名の文字を消した。そこにあるのは、何の力も持たない白紙の本だけである。

漸く視界が定まった頃、スズネは、吐き気を覚えながらゆっくりと周囲を見渡した。ミカの姿も、司書の姿もない。

眩暈と吐き気だけが永遠に続いていた。床に倒れこんでいたスズネは、そのまま、力の入らない四肢でどうにかその場に立ち上がる。図書館を出るまでに、三度ほど転倒した。けれど、身体を引きずってでも、スズネの身体はその場から立ち去ろうとする。それは最早、自分の意思とは関係のない行動だった。

 まるで自分の身体が誰かに乗っ取られたかのようだ。ふらふらと大きく左右に身体を揺らしながら、スズネは、ゆっくりと図書館の外へと足を運ぶ。とてつもなくゆっくりな足取りでも、スズネの身体は何処かへ行こうとしていた。

 その『何処か』というのは、自分でもよく分からない。ただ、猛烈に何処かへ行かなければならない気がする。この里ではない。もっと遠くの――彼女がいる場所へ。


「――スズネ?」


 強迫観念染みたその思考を止めたのは、ある少年の声だった。四方から鳴っていた耳鳴りは、その声を聞いた瞬間にピタリと止む。朧げになっていた意識は徐々に清明になっていき、スズネの身体は、再びスズネの意思で動かせるようになる。

 蒼い顔でそちらを見れば、その声の人物は、酷く驚いた顔をしていた。スズネがここにいる、というのが不思議だったのか、もしくは、それほどまでにスズネの顔色が悪かったのか。


「……ヨルくん……」


 その呼び掛けが、どういう感情の元行われたのか、いまいち自分でも理解しきれない。そこに立っていた少年――ヨルは、驚いた顔をしたまま、顔色の悪いスズネを見つめている。

 どうやら、眠りから目覚めたらしい。そんなヨルの姿を、スズネはただ、ぼんやりとした瞳で見つめ続けた。

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