第85話 唯一無二の愛言葉
間に合った。目一杯腕に力を込めれば、ヨルの身体が消滅していないということを、彼の体温が教えてくれた。スズネが縋るように強い抱擁をする間、スズネの登場に動揺を隠せないでいるらしいヨルは、ただ身体を強張らせるばかりだ。
好きだ、と、口から零れてしまった言葉はもう戻ってこない。明確に吐き出された好意は、確かにヨルの耳に届いたはずだ。両者の間に落ちた沈黙は、たった数秒の短いものだった。それですら永遠に感じられるようなもどかしさが、疾走直後で激しい心臓の音をさらに高鳴らせる。
先に口を開いたのは、ヨルの方だった。
「……何で、キミがここに。ここは危ないって、分かるでしょ?」
「ダンくんの試練を私もついさっき合格してきました。ヨルくんと条件は同じです」
「ダンさんから聞いたの? 僕のこと」
「聞きました」
「どうして追いかけてきたりなんかするの」
「貴方を失いたくないからです」
明確な動揺と、僅かな躊躇いを含んだヨルの声に、スズネの明瞭な声が返答を繰り返す。普段、穏和に細められるばかりのヨルの瞳が、今は何処か苦しそうな色を浮かべている。
彼がスズネの登場をよく思っていないのは明確な事実だ。しかし、つい先ほどまでヨルが消滅する寸前であったことを考えれば、ここに来たことが間違いでないことは確かだと言える。
ヨルの腕は、スズネの抱擁を外すように、控えめに動いた。しかし、スズネはそれから逃れるように、ますます自分の腕に力を入れる。決して離してはいけない、という警鐘が頭で鳴っている。抵抗をすればするほど逆効果だと悟ったらしいヨルは、声を最低限まで潜め、憂鬱色な声音で言葉を紡いだ。
「……どうして? 僕の顔なんて、もう見たくないでしょ? 放っておいてくれればいいのに、どうしてそうしてくれないの」
「もう一度言います。私、ヨルくんが好きです」
「そんなに僕が消えるのを止めたい? そんなに心配しなくたって、僕が消えるのはキミのせいじゃない。仕方ないねって笑って見送ってほしいのに。僕は、もうこれ以上嘘を吐くキミを見たくないよ」
離して、と、低い声は懇願した。棘を含む言葉を吐くにはあまりに弱弱しい声音が、スズネの鼓膜を撫でていく。スズネの言葉を真実だとは思っていないらしいヨルが、それを聞いて、酷く傷ついた顔をする。そんな顔をさせるまでヨルを追い詰めていたことを知って、スズネは、己の愚行を静かに悔いた。
祠の中心部で、巨木に絡まれた神の炎は、その黒々とした身体を揺らめかせていた。太い根に巻き付かれながら、この世の全てを憎悪する叫び声が祠内部に響き渡る。鼓膜を劈くような大きな声は、耳をすませば、何処かで聞いたことがあるような声にも聞こえる。自分の中で真実の欠片が隙間なく填まっていくのを感じながら、スズネは、白藍の瞳を僅かに細めた。
祠の入り口では、真剣な眼差しをしたメイが、スズネのことを見据えている。憎悪でもない、嫌悪でもない、『観測者』に徹する彼女の双眸は、冷静に二人の挙動を観察していた。
「……本当に私、ヨルくんのことが好きなんです」
「嘘吐き」
「嘘じゃないです」
「目の前で僕が消えそうになってるから、引き止めたくてそんなこと言ってるんでしょ? キミは残酷なくらい優しいから、分かるよ」
淡々とした態度に徹するヨルの声は、僅かに震えていた。スズネのことを抱きしめ返すこともなく行き場を失ったヨルの手は、彼の身体の横に力無く下ろされた。それでも、スズネはヨルのことを抱きしめるのを止めない。
眼前で逸らされた瞳を、スズネはまじまじと見つめる。居心地の悪そうな顔をしたヨルが笑顔を繕わないことに、ほんの少しの安堵さえ心を過った。彼は、未だ、スズネに本当の心を触れさせてくれるのだ。
「私のこと分かりやすいって言ったのはヨルくんです。ヨルくん、ちゃんと私の目を見て。私が嘘吐いてるかどうか、ヨルくんなら分かると思います」
「嫌だ」
「お願いします」
「キミこういうときだけシンヤにそっくり。強引で強情で生意気で」
「嫌い?」
「……きらい」
「ヨルくんの方が嘘吐きじゃないですか」
スズネの言葉を復唱したヨルは、顔を歪めながら顔を正面に戻す。視線が絡むのと同時に、複雑そうに眉間に寄せられた皺が、彼の内心に湧く感情を物語っている。それが、心の底から嫌悪を語る人物の顔ではないことくらい、スズネにも容易に理解することができた。
「何でそんな顔するの。もっと、僕のこと恨んでるとか、そういう顔してよ」
「恨んでない人にそんな顔できる程、私、器用じゃありません」
「いっそ嫌いって言ってくれた方が優しいよスズネ」
「ごめんなさい、優しくできなくて」
「……なんでキミのこと守れない僕なの? どうしてキミのこと胸張って大好きって言えない僕なの? どうして僕なんかのこと好きになるの?」
知らない街で迷子になった子供のような顔をして、ヨルは静かに俯いた。周囲に舞っていた半透明な粒子は収まり、彼が纏うマナも安定する。消滅が収まったことを確認して、スズネは、静かにヨルの背中から腕を外した。二人の間に、拳一つ分の隙間が生まれる。そうやって離れると、泣き出しそうなヨルの顔が良く見えた。その瞳に映るスズネの顔は、今まで見てきたどんな自分よりも、迷いを切り捨てた顔をしていた。
「貴方と一緒なら、何処に居ても怖くないです。貴方と一緒なら、どんなに辛いことも頑張れます。迷子防止で手を繋ぐなら貴方がいい。本当は、そうじゃなくても手を繋ぎたいです。そのための理由を探してしまうくらい。私は貴方に側にいてほしい。私が森で目を覚ましてから今日まで、守ってくれたのは、他でもないヨルくんです。そこにどんな理由、目的、思惑があっても構いません。私が貴方に救われたのは、紛れもない事実ですから」
今まで喉の奥に詰まらせていた言葉は、一度口に出し始めると、止まることを知らない。一度も躓くことなく言葉として現れたそれは、紛れもなく、それまでずっと抱えてきたスズネの感情だ。
スズネはヨルのことが好きなのだ。目覚めて助けられたあの日から、ずっと。
「私、貴方のことが好きです。ヨルくん。もう、守ってほしいなんて言いません。もう今まで十分守ってもらいましたから、。その代わり、他に言いたいことがあります」
「……何?」
「私に貴方を守らせてください。どうか消えないで、死なないでください。貴方が苦しいときは、私が貴方の盾になります。……私に貴方を救わせてください」
守ってほしい、と懇願するのは、もう止めである。彼に救われた分だけ、スズネだって、ヨルを救いたい。
スズネの決意の言葉に、ヨルは僅かに両目を見開いた。静かな驚きを露わす表情に、スズネの熱心な眼差しが向けられる。
「――嫌だ」
それに返ってきた言葉は、簡素なその一言だけ。簡単な拒絶の言葉のすぐあとに、ヨルは、参ったと言いたげな苦笑を浮かべる。眉尻が下がった力のない微笑は、ヨルの見慣れた笑い方であった。
「僕も、キミが好きだよ。だから、平等でいてほしい。後ろでも前でもなく、隣を一緒に歩きたい」
「……私、貴方の運命じゃないかもしれません。それでもいいですか?」
「上等。キミこそ、それでもいい? 僕だってキミが望む運命の人じゃないけど。もう離してあげられないよ」
「私は、ヨルくんが好きですから。もしもヨルくんがその事実に耐えられなくなったら、一緒に何処までも逃げてあげます」
「じゃあ気合いれて君の隣に立たないとな。夜逃げはちょっと」
「物の例えですよ」
逃げるつもりは毛頭ない、と付け足せば、ヨルは力の抜けた微笑みを浮かべた。何か重荷から解放されたような顔をして、ヨルは静かに頷く。
その刹那。ヨルの巨木に捉えられていた神の炎が、一際大きな咆哮を上げた。
神の一部だとは思えない、獣のような獰猛な叫び声が祠の内部に響き渡る。その瞬間、炎に絡みついていた巨木に、神の炎が燃え移る。一気に周囲の空気に漂う熱量が増し、スズネの肌は焼かれるような熱気に晒された。
恐らく、ヨルの奥義であろうそのマナでも、神を抑えきることは難しかったらしい。巨木は見る見るうちに灰へと姿を変えられ、炎はその身に纏う憎悪をさらに深くした。燃え盛る黒い炎は、さらに色の濃い漆黒へと変化する。舞い上がった風に火傷しそうな熱を感じながら、スズネは、神の炎に――『彼』の一部であるソレに、目線をやった。
「なっ」
動揺したヨルの声が、隣で上がった。神の炎の抑え込みに失敗したと、彼はすぐに気付いたらしい。動揺を抱いた直後に表情を引き締めた彼は、再び神の炎を拘束しようと、再び奥義を発動しようとする。
ヨルが勢いよく前に突き出した右腕を、スズネの手が緩慢に制した。
「スズネ、ごめん少し離れて。また僕が奥義で抑え込むから、それから二人で止めを――」
「ヨルくん。神の炎が燃える理由は、世界が憎いからです」
冷静な指示に割り込んだスズネの声は、温度を失っていた。――否、温度が無い訳ではない。ただ、それまでのスズネらしからぬ冷えた声音に、ヨルが目を見開く。
スズネの双眸は、淡く光っていた。それが、彼女の奥義が発動し始めていることを物語る。白藍の瞳は、まるで日光を反射する水面の如く煌めき、神の炎を見据える。
彼女の足元から巻き起こった風は、スズネの黒い髪の毛を大きく舞い上げた。しかし、その風は何処か温かく、穏やかなものである。祠の婉曲を描く壁に沿うようにして発生した風は、神の炎を中心にして渦巻いた。
「スズネ、これは……」
「私の奥義。まだ完璧ではないけど、彼の炎を収めるには十分です」
キッパリと言い切るスズネの横で、ヨルは驚いたように瞬きを繰り返した。スズネは果たして、こんなことを言うような人物だっただろうか。
まるで別人である。唖然としたヨルの目の前でゆっくりと微笑みを浮かべたスズネは、そのまま、緩慢な動作で靴の爪先を透明な床に一度打ち付けた。
コツン、という小さな音の後、唐突に床が波打った。――目を凝らせば、いつの間にか、床が浸水していることに気が付く。床が波打ったのは、水面が揺蕩っているからだ。祠の床は踝が浸かるまでの水で沈められ、その水の中には、少しの汚れも見当たらない。そして、神の炎に熱されることもないまま、不思議と肌を刺すような冷たさを保っていた。
巻き上がる風に水面を撫でられた浅い湖が、僅かに発光する。目に優しい温かな光を放つその水は、確かにスズネのマナを含んでいた。
「――目覚めたんだ」
入り口で、メイが小さく呟く。その独り言は、ヨルやスズネの鼓膜に届くより先に、静寂に満ちた祠の空気へと消える。
神の炎は、それまでみせていた抵抗を途端に止め、その場から動かない。先ほどまで上げていた唸り声さえも聞こえなくなった祠内部には、殺気や喧騒といった空気とは程遠い、神聖で静謐な雰囲気が漂い始めた。
「……スズネ、これは……」
「ヨルくん、真ん中を見てください」
落ち着きを払ったスズネの声は、ヨルの困惑を補うように言葉を紡いだ。
ヨルの視線は、浅い湖の中心――神の炎の根元に向く。
湖の中心は、不思議と水面が波打っていなかった。水が炎を消火する素振りもない。その代わり、澄み切った水は磨き抜かれた鏡のようにそこに立つ者の姿を映しだしていた。
――そこに映り込むのは、獰猛な炎の姿ではなかった。
「……ジンさん……?」
褐色肌に、金色の髪。神都で対峙した精霊攫い、ジンと同じ容姿の存在が、浮かない顔で水面に映り込んでいる。神の炎は、その自分の姿を食い入るように見つめていた。
スズネはそれを見つめて静かに目を伏せた。長い睫毛の下、淡く輝いた白藍の瞳は物憂げな色を浮かべる。湖が放つ淡い光は、彼女の白い肌を強調させて――決して姿が変わった訳ではないのに、そこに立つスズネは、やはりどこかいつもとは違う雰囲気を漂わせる。
「この湖は、ここに立つ者の正体を映し出します」
「……は……じゃあ、神の炎の正体が、ジンさんってこと?」
「そうです」
困惑を滲ませたヨルに、スズネは小さな肯定を返す。スズネは瞳を光らせたまま、驚愕の表情を浮かべるヨルに視線を投げかけた。
「この世界の創造主、そして、私達にこの試練を投げかけた存在。その正体こそ、彼――ジン様なんです」
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