第76話 予感の短剣


 当たらない。当たらない。当たらない!

 そんな心の声が、もう何千回響いたか分からない。戦闘訓練を行う部屋、と案内された、決して狭くはない室内で、息を切らしたスズネがよろよろとへたり込む。冷ややかな床は、数秒と経たずにすぐに温くなっていった。それ程までに、スズネの身体は火照っている。

 周囲を見渡せば、同じように地面に座り込んだコハルが荒々しい呼吸を繰り返している。時折激しく咳き込んでしまう彼女の背を撫でるシンヤも、壁に寄りかかっているヨルも、スズネと同等に――否、特に動き回っていた男子二人は、それ以上に息を切らしていた。


「そろそろ休憩にしましょうか。皆さんのマナ消費も不安な頃ですし」


 そんな四人とは対照的に、息一つ切らしていないダンがあっけらかんと笑う。スズネには、喋る余力さえ残っていない。乾いた口内と喉奥が水を欲しているのがよく分かる。精霊には食料も水分も必要ない、ということを考えるに、スズネが本当に求めているのは、水ではなくそこに含まれるマナなのだろう。ダンの言葉や他三人の様子から察せる通り、著しくマナを消費したようだ。

 スズネの全身を、どうしようもない倦怠感が包んでいる。呆然としたスズネの視界の先で、ダンは普段と寸分違わぬ様子でにっこりと微笑んで見せた。


「皆さん、お疲れ様です! こちら、お水と手拭いですよ」


 部屋の片隅で戦闘訓練を眺めていたサイが、慣れた様子で四人の水と手拭いを渡す。ダンの契約者、という肩書通り、彼への支援は完璧に身についているらしい。サイは別段、四人の様子に驚いた様子を見せることなく、淡々とダンの支援に回っている。こうなることを理解していた、とでもいうような態度であった。

結論から言えば、ダンとの戦闘訓練初日は、大失敗に終わった。

 シンヤの言う通り、ダンは他者の思考が読めるらしい。思考が読める、ということは、動きを先読みすることも可能なのである。

 身体の動かし方。マナの使い道。それらの情報を処理することで、ダンは己の身の動かし方を決める。短剣は当然として、マナの攻撃すら当たらない。『短剣を当てるだけでいい』という極めて簡単なはずの戦闘訓練は、思う以上に困難だったのだ。

――それに、大失敗の理由は、もう一つ。


「ヨルくん、平気? 汗拭こうか。……あ、お返事はいいよ。お水ゆっくり飲んでて。戦闘訓練お疲れ様!」


 部屋の片隅で、ヨルに駆け寄ったメイがにこやかな表情で言葉を放った。荒く呼吸を繰り返すヨルは、壁に背中を預け、そのまま静かに座り込む。随分疲労した様子のヨルに付き添い、甲斐甲斐しく世話を焼くメイの姿を数秒見つめた後、スズネは静かに視線を外した。

 大失敗の理由。それは、いつも以上に戦闘の連携が取れなかったことにある。理由は単純明快。スズネとヨルが、昨晩からまた気まずい状態に戻ってしまったからだ。

 会話をすることも、見つめ合うこともない。目線があっても、どちらともなく目を逸らしてしまう。そんな状況が何度も発生していれば、例え訓練と言えども戦闘が上手くいかないことは明白なことであった。

 サイに渡された水を一気に嚥下したスズネは、その澄み切った味と冷え切った温度に僅かな冷静さを取り戻した。胸中を蝕むように広がっていた、黒い靄のような感情を、必死に押し殺す。『それ』は赦されない、という自制を保ちながらの戦闘は、当然悲惨なものであった。


「スズネ、お疲れ様。ちょくちょく危うかったけど、大丈夫?」

「……有難うございます。オウくん。私、あんまり戦うのが得意ではなくて」

「分かるよ。僕も戦闘型ではないから。でも、それにしたって動きがぎこちなかった気がするけど。何処か体調悪い?」


 オウの心配を含んだ眼差しを受けて、スズネは小さく俯く。そのぎこちなさの原因は、既に理解している。神都では、もう少しまともに動けていたことも自覚済みだ。しかし、それを彼に白状するわけにはいかない。動き回った後で赤面した頬が、ゆっくりと蒼くなっていく感覚がした。スズネはそのまま、肩を竦めてみせる。


「いえ、大丈夫です。自分が不甲斐なくて、皆の足を引っ張ったことを反省しているだけだから」

「そう? まあ、ダンが精霊の中で特別強いっていうのもあるし、戦闘に慣れるための訓練でもあるんだから。そう気を落とさずにね」

「はい。お気遣い、有難うございます」


 優しい言葉に笑顔一つ返すことができない自分が情けなかった。ゆっくりと頭を下げた瞬間、背後からは鋭い声が上がる。


「俺、まだできるけど。他は休憩でいいから、まだ付き合ってよ。ダン」


 スズネが自己嫌悪に苛まれている間にも、シンヤは呼吸を整えて次の機会を狙っていた。しかし、強かなその声にも、明らかな疲労が含まれている。それを感じ取ったのか、或いは読み取ったのか、ダンは微笑みを浮かべて静かに拒絶を示した。


「駄目です。シンヤさんは皆さんの中でも特にマナの使用頻度が高く、また、使い方が大雑把なので。元々持っていらっしゃるマナは多いようですけど、消費量も尋常ではありません。休憩しないと、マナが尽きますよ?」

「尽きたところで、それが何。マナを使えば使うほど身体に馴染むっていうなら、万々歳。明日までに回復させればいいんでしょ」


 いいから早く続きをしろ、と言いたげなシンヤの声に、ダンは一瞬苦笑を浮かべた。負けず嫌いを発揮するシンヤに向けて、彼は、首を横に振ってみせる。そして、明瞭な発音で呟いた。


「ここは神都とは違いますから、マナが尽きたら最期、消滅しますよ?」

「……消滅?」


 その言葉に反応したのは、コハルである。それまで無言を貫いていたコハルは、何処か虚ろとした瞳でダンを見つめた。


「消滅って、どういうこと?」


 その声音は、僅かに震えている。サッと顔を蒼くした彼女は、自分の背を撫でているシンヤの腕を捕まえた。「今は何もしないで」と小声で懇願しているのが聞こえてくる。彼女が何を恐れたかは、言うまでもない。


「その通りです。現在、皆さんは大精霊との繋がりが限りなく薄い状態。双方の里と近い位置であれば、辛うじて大精霊からマナを供給されるかと思いますけど……この里はどちらとも遠いですし、湖と樹の大精霊様は弱っておられます。精霊は所詮マナの塊ですから、マナが空っぽになったとき、その供給が間に合わなければ消滅します」


 ダンの言葉を聞いて、スズネは停止しかけていた思考を、ゆっくりと巡らせた。

 四人が旅の中でマナの使用を極力避けていたのは、マナの使用によって、リンや盗賊から居場所を察知されることを避けるためである。マナや精霊としての反応を掻き消す無光石の耳飾りを付けていてもその習慣を続けたのは、マナの回復に当てる食料が限られているため。少なくても、『消滅を避けるため』という目的ではなかった。

 精霊の消滅条件は、マナの不足に限る。神都でミカから聞いた通り、大精霊のいない精霊はマナの供給を受け取れず、神都から出ると消滅してしまう。恐らくは、四人にもこれと同じことが起きているのだろう。本来食事を必要としない精霊が、食事をすることでマナの不足分を補っている。そこから考えれば、『マナの供給が上手くいっていない』ことは容易に悟れる。この話は、その延長線にあるのだろう。

 事態は、思うよりずっと深刻なのだ。神の試練を熟せないまま時間が経過すれば、大精霊が消滅する。同時に、その補助精霊である四人も消滅してしまう。かといって、マナを使い過ぎれば、四人の方が先に消滅してしまう。

 四人が生き延びる道は、『マナを使いすぎず、それでいて大精霊が消える前に神の試練を熟す』以外に残されていない。自分達の立場を理解して、スズネは静かに息を呑んだ。

 もしも、これを知らないままマナを使いすぎていたら――一歩間違えれば、既に誰かが消えていたのかもしれない。その未来を考えるだけで、背筋に悪寒が走った。胸中が不安に蝕まれるのと同時に、スズネはおずおずとシンヤに言葉を投げかける。


「シンヤ、まずは、休もう? 消えちゃったら元も子もないよ」

「そうだよ、シンヤくん。……お願い」


 スズネとコハルの懇願により、シンヤは無言のまま頷く。その眉間には深い皺が刻まれており、彼の複雑な内心が伺えた。

 この話を聞いた以上、今後はさらにマナの使用を注意しなければならない。普段通りにマナを使用しても上手くいかなかったのに、そんな状況下で、ダンに短剣を当てることはできるのだろうか。

 様々な不安が浮かび上がる。その場に訪れた沈黙を破ったのは、弱弱しいヨルの声だった。


「僕、前に一回シンヤと本気の戦闘して、互いにマナを枯らしてるんだけど。あの時はどうして消滅しなかったの? 樹の里だったから僕はともかく、その理論で行くと、シンヤは消えてないと可笑しいんじゃない?」


 以前、樹の里で聞いた話だろう。当時は精霊を何より大事にしているリンが怒る、という状況を不思議に思ったが、今思えば、彼女は『マナの使い過ぎで消滅する』という事実を知っていたのだろう。樹の里にとって、ヨルは重要な存在であるし、シンヤも大精霊の復活には必須な存在。どちらが消えても困るのだから、彼女が真剣に怒るのは最もな話である。

 そして、ヨルの言う通り、リンが叱るだけで済んだという状況は不自然である。話に聞く限り、湖の里と樹の里の距離は決して近くはないはずだ。大精霊からのマナの供給が上手くいっていた、というのは考えにくい。

 その話を聞いて、ダンは「そうですねぇ」と大きく首を傾げて見せた。顎に人差し指を当てて、思考の体制をとった彼を見て、メイが朗らかに笑う。


「それ、半年前の話でしょ?」

「何で知ってるの?」

「ここは星の里だもの。なんでも分かるよ。で、半年前ともなれば今とは少し状況が違うし――それに、ね」


 メイは空色の瞳を細め、ゆっくりとスズネを見据えた。遠くから投げられた視線の意図は、掴めない。不思議に思って、彼女をよく知るであろうオウに助けの視線を向ける。しかし、オウも同じように微笑むばかりで、決してメイの真意を告げてはくれなかった。

 二人は、『双子のようなもの』と自称するだけあって、似た様な笑顔を浮かべる。シンヤとスズネより余程兄妹染みて見える彼女等は、容姿や笑い方と同じくらい、性質が似ているようだった。

 困惑を露わにするスズネに、メイとオウからにこにことした露骨な笑顔が向けられる。その真意を問いただすより前に、両手を叩いたダンは、大きな声で訓練終了の言葉を紡いだ。


「ともかく、皆さんはちゃんと休憩をとらなきゃいけませんよ。戦闘訓練は毎日行いますし、マナさえ使わなければ、『戦闘訓練以外の時間でも』訓練を受け付けます。僕が日常生活を送っている間、一度だって短剣を当てることができたら、それも訓練の成功だと認めましょう。ふふ、頑張ってくださいね」


 その言葉を脳内で解いたスズネは、「そうでもしなければ当てることができないだろうから」という意図を感じ取る。否、「そうしても当てられないかもしれない」という言外の圧かもしれない。

 しかし、それを否定することができないのは、数時間にもわたる挑戦で、成功する感覚が全く掴めていないからだ。

 手の平に納まった短剣の柄は、無機質にスズネを見上げている。いつまでもそれが手に馴染まないと感じるのは、スズネが戦闘に慣れていないからか、それとも、心境の問題か。

 ダンによる戦闘訓練は、始まったばかり。そしてそれが容易く終わらないという予感と、居心地の悪さだけが、スズネの脳内を満たしていた。

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