第75話 戦闘訓練

「ごめんなさい、大事な日に遅れてしま――わぷっ!?」


 ここが戦闘訓練で使う部屋。オウにそう案内されたスズネは、扉を開けた瞬間、顔面に冷水を掛けられた。

 全身が容赦なく水に濡れる。スズネが妙な悲鳴を上げるのと同時に、そのすぐ横の壁に誰かが勢いよく背を打った。その鈍い音にぎょっとして、スズネは慌てて目元を拭う。そこには、顔を顰めたままのシンヤが、木製の短剣を握って座り込んでいた。どうやら、背を打ったのはシンヤらしい。

 しかし、壁に背をぶつけて座り込む、という挙動は、一人では決してできないだろう。できたとしても、シンヤがするとは思えない。ということは、誰かに投げ飛ばされたということだ。……あのシンヤが、一体誰に?


「し、シンヤ……? どうしたの?」

「……ああ、漸く起きたの、この寝坊助。見て分かんない?」

「全然」


 おずおずと問いかけるスズネを、シンヤの不機嫌そうな眼差しが射抜いた。どれだけ不快そうな顔をされても、彼が投げ飛ばされるなどというイメージがとんと湧かない。スズネが小首を傾げて疑問を突き通すと、シンヤの冷たい眼差しが部屋の中央に動かされた。

 そこには、ダンと斬り合っているヨルの姿があった。無論、彼等もシンヤと同じ木製の短剣を使用しており、本気で斬り合っている訳ではない。これがダンが昨夜言っていた戦闘訓練なのだろう。訓練は怪我をしないように木製の短剣を使うようだ。これならば、誰かが致命傷を負うことはないだろう。――しかし、スズネがそのことに安堵する余裕は無かった。


「……ダンくんって、あんなに、強いんですか……?」


 スズネの呆然とした独り言を聞いて、シンヤが緩慢に立ち上がる。その横顔は、明らかに渋い。

 短剣の扱いに長けているヨル、マナの扱いが上手いシンヤ。どちらもスズネにとっては戦闘において頼れる仲間だ。今まで何度も戦闘で助けられてきた経験があるからこそ、その信頼は絶対である。絶対である、のだが。

 ダンは、軽々しくその上を行く。ヨルの目にも止まらぬ攻撃は、笑顔のダンにひらりひらりとかわされる。ダンの軽やかな動きは何処か活発な少年のお遊びを連想させたが、ヨルは随分と息切れをしていた。疲労が見え隠れする彼の様子から、もう随分あの光景が続いているのだと理解できる。

 ヨルの攻撃速度は、シンヤをも上回るというのに。ダンは、まるで相手の行動が先読みできるかのように、軽々しく全ての攻撃を避けていた。


「あ、スズネさん! 遅かったですね、おはようございます! もうお昼ですけれど!」

「えっ、あ……」

「あ、隙あり!」


 ダンの明るい挨拶が室内に響く。動揺したのは、どうやらスズネだけではなかったらしい。彼と対面していたはずのヨルの動きが一瞬鈍り、ダンに目敏くそこを攻められる。その小さな身体の何処にそんな力があるのか、ダンは短剣を構えていたヨルの手首を掴むと、勢いよく投げ飛ばす。軽々しく宙を舞ったヨルの身体はそのまま、入り口とは反対方向の壁に衝突仕掛ける。

――ぶつかる、と思った瞬間、ヨルの身体は水の中に沈んだ。正確には、突如として現れた巨大くらげの体内に呑み込まれた。言わずもがな、シンヤのマナである。息を吐いたシンヤは咄嗟にマナを発動してヨルを庇ったらしい。くらげが投げ飛ばされた勢いを殺して、どうにか壁との衝突を避けることができた。くらげから顔を出したヨルは、何度か大きく咳き込んで、その場に座り込む。激しく上下した肩は、如何に体力を消耗しているかをよく物語っていた。


「強いよ、ダンは。何て言ったって、僕らの前任。戦闘担当だから」


 スズネの後ろにいたオウが、にこやかな笑顔でそう呟く。囁くようなその声に息を呑んだスズネは、静かにダンを見つめた。

 幼い見掛けによらず、ダンは随分と長生きをしている精霊だ。少年の容姿を持っているにも関わらず、その実力は計り知れない。ダンはスズネに視線を向けると、そのあどけない顔に人懐っこい笑みを浮かべて見せた。


「待ってましたよ。よく眠れました?」

「ね、寝坊をしてしまってすみません……」

「お気になさらず! では、戦闘訓練の説明を改めて。といっても、難しいことは何にもないんです。この、木製の短剣を、僕に当てるだけ。何人掛りでもいいですよ」

「……当てる?」

「そう、当てるだけ。マナの使用もいいですよ。他に使いたい道具があれば、それも使って構いません。例えば、そう、弓とか」


 そう言って、ダンはその場で両手を叩いて見せた。その瞬間、ダンの背後に勢いよく猛火が現れる。青い炎はそのまま、何処からかダン目掛けて飛んできた弓矢を一気に燃やし尽くした。

――弓矢の出所は、コハルである。彼女も晴れない表情のまま、短弓をダンに向けて構えている。壁に背を付けるようにしてダンを見据える彼女の顔は、至って真剣であった。

 一切そちらを見ないままコハルの攻撃を無力化した。スズネは思わずぞっとして、部屋を見渡す。

 笑顔を保っているのは、星の精霊であるダン、メイ、オウと、ダンの契約者であるサイだけである。星の里に住む者にとって、ダンの実力が圧倒的であることは至極当然のことのようだ。動揺しているのは、彼を知らない他の四人だけ。


「朝からスズネさん以外のお三方とずっと戦闘訓練をしているんですけど、中々当たらなくて。スズネさんが来たから、もう少し機会が増えるかもしれませんね」


 ダンはあっさりとした口調でそう言う。この光景を見て、尚「そうですね」と肯定できる図太さを、スズネは持ち合わせていない。

 部屋の片隅では、戦闘訓練に参加していないサイとメイが甲高い声を上げていた。「素敵」だの「流石」だの、彼女達から紡がれる褒め言葉に、ダンが照れたように笑う。そこに合流したオウまでも「頑張れー」などと呑気な応援をし始めるものだから、ダンの圧倒的な力が夢のように思えて仕方がない。


「さ、スズネさん。これをどうぞ」

「は、はい」


 オウから短剣を手渡され、スズネはおずおずと受け取った。注意深く観察しても、念入りに触れて確認しても、何の仕掛けもない木製の短剣だ。別段マナが吸い取られて弱くなるだとか、気分が悪くなるだとか、そういった感覚はまるでしない。本当にダンの実力が圧倒的なのだと示されて、スズネは眉尻を下げる。

 スズネの目の前で、ダンはにこにこと人の好い笑顔を浮かべていた。一歩近づけば、木製の短剣が当たりそうな距離である。そのまま離れようとしないダンに、スズネは小首を傾げる。


「えっと、ダンくん?」

「どうぞ」

「え?」

「当てて見てください」


 どうぞどうぞ、と、まるで何かの押し売りを受けているような気分だった。あれだけ三人が苦労しているのを見せられた後で、何故スズネだけがそんなに優しい対応をされるのだろう。

 小首を傾げたまま、スズネはダンを見つめる。前言の撤回は、いつまで経ってもない。

 何の武器も持っていないダンに、木製の短剣を当てる。斬りつける、刺す、という指示でないことに安堵しつつ、スズネは意を決してダンとの距離を一歩詰めた。

 そして、ダンに見事に避けられる。笑顔を浮かべたままのダンに、スズネは小さく瞬きをした。

 一歩詰める。同時に下がられ、刃は彼と一定の距離を保ったまま。

 一歩詰める。下がられる。

 一歩詰める。下がられる。

 一歩詰めつつ腕を伸ばす。下がられるし避けられる。

 何歩進んでも、その繰り返しだった。距離を詰めるまで、少し間を置いたり、逆に直ぐに距離を縮めても、ダンは笑顔で難なくそれを避ける。まるで舞踏の練習のような動きである。スズネとダンはそれを続けて、部屋の内周を一回りした。短剣は、ダンに掠りさえしなかった。


「何遊んでんの」


 部屋を一周しきったところで、シンヤの不機嫌そうな声が横から飛んできた。肩を跳ねさせたスズネは、慌てて遊んでいるわけではないと訂正しようとする。しかし、到底そんなことを言えるような雰囲気ではない。シンヤの眉間に刻まれた皺は深く、彼は現在非常に機嫌が悪いことが察せられた。


「今マナがまともに使える状態なの君だけなんだからね? 分かってる?」

「そ、そんなに消費してるの?」

「朝からずっとこの調子。君が寝過ごしてる間にこの様だよ」

「ご、ごめんなさい」

「いいから、さっさとマナの準備して。ヨルは引き続き俺と近距離から攻めるよ。コハルも、無理じゃなければ弓矢で援護。お願いね」


 申し訳なさで肩を竦めることすら、今のスズネには許されない行為らしい。シンヤの低い声が堂々と指示を出す。その深い青の瞳が燃えているように見えたのは、彼が今『ダンに敵わない』という事実を、何よりも屈辱的に捉えているからかもしれない。

 シンヤの声を聞いて、ダンが小首を傾げた。彼は可愛らしくゆらゆらと体を左右に揺らして、無邪気な子供のように質問を投げかける。


「あれ、いいんですか? シンヤさん? 僕の前でそんなに堂々と作戦を口にして。時間はたっぷりとりますから、声を潜めての作戦会議とかして頂いてもいいんですよ。僕、待ちますから!」

「そんなの時間の無駄。声を潜めようが堂々と言おうが、君には関係ないでしょ?」


 シンヤの声に、ダンがくすりと笑い声を零す。一瞬静寂に支配された部屋に、シンヤの一言はよく響いて聞こえた。


「だって君、俺達の思考が読めるんだから」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る