第72話 林檎の証明

 部屋に入った瞬間に、スズネは小首を傾げることとなった。

 まず、部屋がやけに明るい。星の里独自の家具なのだろうか。炎を灯した蝋燭が円形に連なった鉄製の照明器具が、天井の真ん中からぶら下がっている。溶けだした蝋を受け止めるのであろう小さな皿の下から、磨き抜かれた雫型の色硝子が吊り下げられている。それが炎の光を複雑に反射して、部屋を一等明るく見せているのだ。

 優美な照明器具に負けず劣らず、部屋の家具には全て美しい鉱石があしらわれている。瞬きをする度に視界の何処かが光るこの部屋は、星の里の特色をよく表していた。

 座り心地の良さそうな長椅子に、冷たい黒い石の丸い机。家具の選択から設置場所まで、随分と考えられているように感じる。

 けれど、スズネが視線を向けたのは、それらの家具ではない。隅々まで清潔に保たれた部屋に、確かな違和感が一点だけあったのだ。

 スズネは静かに、その違和感に歩み寄る。染み一つない純白のシーツと布団に、一点だけ目を惹く鮮やかな赤がある。

 それは丸くて、眩い照明に照らされた表面が艶やかに光っていて、鼻を近付けると甘酸っぱい香りがする――。


「……林檎」


 林檎だ。どう見ても、その『違和感』というのは、林檎そのものだった。

 スズネのベッドに一つだけ置かれた林檎は、悠々と自らの美しい光沢のある赤を光らせていた。痛んでいる様子はない。ここまで芸術的に仕上げられた部屋の中に、無造作に林檎が置いてあるだなんて、明らかに可笑しい。しかも、ベッドの上である。

 宿屋側の善意で容易された果実なら、せめて机の上に放置されるはずだ。……それにしたって、違和感が拭えないけれども。

 スズネは、その林檎を恐る恐る拾い上げた。そして、静かに林檎と見つめ合いながら、思考の海へと飛び込んだ。

 この林檎からはマナの気配がする。食料そのものが帯びているマナを、遥かに上回る量だ。つまりこれは、マナをたっぷり与えられて育った林檎、或いは、マナそのもので生成された林檎、ということになるのだが。


「……ヨル、くん?」


 ぎこちなく紡がれた己の言葉を聞いて、スズネはぱちくりと瞬きを繰り返した。林檎を作れる精霊といえば、樹の精霊――つまり、ヨルとコハルという選択肢以外が消える。そして、先ほどまでコハルは大広間に居たので、自ずと答えは一つに絞られてしまう。

 己の期待や希望が籠った答えだということは否定できない。しかし、それが現状で最も可能性の高い答えであることも、否定できない。

 当然、スズネの思考は「何故」という方向に向く。ヨルがスズネの部屋を訪れて、わざわざ林檎を置いていく理由。


「……私が、あんまり、食べてなかったから?」


 一人きりの部屋に、スズネの声が落ちる。大広間でコハルやシンヤに質問をした時とは違い、か細いながらに声が震えていなかった。

 林檎に触れる手に僅かに力が入る。思い上がりも甚だしい、と思う自分がいる一方で、それでも、有り得ない話ではない、と反論する自分もいた。

 ヨルは、いつだって優しい少年だ。スズネは、彼のことをきっと思うよりずっと理解していない。ただ、スズネの知るヨルは、基本的に笑顔を絶やさず温かい言動を繰り返す少年だった。

 スズネがヨルの異変に気が付いたように、ヨルもスズネの異変に気が付いていたのかもしれない。その延長戦で、スズネがマナを回復しきっていないことにも気が付いて、それを補うためのマナの林檎を置いていったのではないだろうか。

 全く自分に都合の良い妄想だったが、それを肯定するのは、今まで彼が見せてきた優しさである。スズネは何度も瞬きを繰り返し、それから林檎を胸に抱いた。

 もしかして、の域を超えない予測を辿り、スズネの心臓は僅かに速くなる。決して嫌な音ではなく、確かな喜びを訴える感覚だった。

 もしも、もしもその推測があっているなら。きっと、ヨルはスズネを嫌っていない。

 全身に安堵の波が広がっていく。思わず倒れこみそうになったスズネは、林檎を潰してはいけないと思い、慌てて自分の足に力を込めた。ゆらりと動いた身体は、次の瞬間、弾かれるように駆けだした。

 自室の扉を――スズネにしては――勢いよく開け、左隣の扉の前まで足早に移動する。扉越しには物音が一つも聞こえてこなかったが、彼が部屋に戻ったのはつい先ほどのことだ。もう眠っている、だなんてことは、ないだろう。

 静かに深呼吸を二度繰り返して、スズネは無言で眼前の扉をノックする。硬質な音が三度、無人の廊下に響き渡る。

 返答を待つ間、スズネの心臓は明らかに緊張で早鐘を打っていた。けれど、不思議と逃げ出したいとも思わない。話す内容など頭に浮かんでいないが、それでも彼の顔が見たかった。

 そう思わせるのは、自分の手中に納まっている林檎の存在だ。彼が残したであろう優しさに、スズネは何を考えるまでもなく縋っている。


「……誰? シンヤ?」


 長い沈黙を経て、返ってきたのはそんな声だった。自分に向けられる彼の声が、随分と久しぶりに感じる。スズネは静かに息を吐き、それから、明瞭な発音で返答する。


「私です。スズネです」

「えっ」

「お話があります。中に……いえ、扉越しでも、お話、できますか?」


 明らかな動揺の声が聞こえてきた。それでも、スズネは引かない。今にも心臓は破裂しそうだったが、その足は一歩たりとて後ろに下がることはなかった。

 妙に長い沈黙の後、扉のすぐ近くから足音がした。がちゃ、と遠慮がちに開かれた隙間から、ヨルが控えめに顔を覗かせる。久しぶりに絡んだ視線は、困惑や戸惑いを露わにしていたが、少なくとも嫌悪を乗せているようには感じられない。


「こんばんは、ヨルくん」

「……こんばんは」


 先ほどまで同じ空間にいた、というには、少し変な挨拶だった。しかし、半日ほど会話をしていなかったせいで、然程違和感はない。

 ヨルは、スズネが手に持っている林檎を見るなり、僅かに視線を泳がせた。明らかに居心地が悪そうにしている姿を見ると、僅かに罪悪感が込み上げてくる。それでも引くわけにはいかず、スズネはヨルのことを真っ直ぐに見つめ続けた。


「……今日は、真っ直ぐ僕のこと見るんだね」

「可笑しいですか?」

「ううん。ただ、いつも直ぐ逸らすから。真剣な時以外。十秒持ったら良い方かなっていつも勝手に数えてたんだけど」


 彼の声は、普段よりは明瞭さが失われていた。ヨルは、その整った顔立ちに微かに苦笑を浮かべる。けれど、スズネの存在を厭っている訳ではない様だ。でもなければ、目が合う秒数を数えている、だなんて話はしないだろう。

 自覚していなかったことを指摘されて、スズネは僅かに沈黙する。僅かに頬が熱くなったのを気のせいだと己に言い聞かせながら、スズネは小さく首を横に振った。


「そ、そんなことはありませんよ。私だって、ヨルくんの目をちゃんと見れる時もあります」

「馬車で僕の肩を枕にして、起きたら悲鳴あげるのに?」

「そ、それは、だって、近いから!」

「コハルとはどれだけ近くなっても悲鳴あげないのに」

「コハルちゃんとヨルくんは別ですし、あげるときはあげます。ヨルくん相手に常時悲鳴をあげるのは……なんというか、恥ずかしいからです。分かりますか? 言いたいこと、伝わりますか?」


 決して可笑しいことではない。そう主張するつもりが、何処か妙な場所に着地した気がする。不安になって尋ねれば、ヨルは僅かに目を見開いた後、曖昧に頷いて見せた。今日のヨルは、途中から僅かに顔色が悪かった。落ち着いたのか、今は随分と血色が良くなったように見える。そのことに安堵して、スズネは思わず口元に笑みを浮かべた。

 ヨルと会話をしている。ただそれだけで、どうしようもなく胸が躍った。


「何か用事?」


 仕切り直すように問いかけられ、スズネはゆっくりと瞬きをする。幾分か緊張が緩んだらしいヨルの顔を見て、スズネは静かに呟いた。


「ヨルくんとお話したいんです」


 縋るような声音になった。それを自分の耳で聞いて、スズネは僅かな確信を得る。

 優しいヨルは、きっとこの言葉を否定しないだろう。彼の本心が何処にあるかは分からない。それでも、彼はスズネの提案、或いは、懇願とも呼べるその言葉に、首を横に振らない。

 だって、ヨルはどうしようもなく優しいのだ。

 スズネの確信は、決して外れなかった。ヨルは何かを考えるように沈黙を選ぶ。その傍らで、彼は静かに自分の背後を振り返った。


「どうかしましたか?」

「部屋、散らかしてなかったかな、と思って」

「……散らかってましたか?」


 遠まわしな言葉に、スズネが静かにその先を求める。もう一度スズネと向き合ったヨルは、その顔に、苦笑ではない柔らかな笑みを浮かべ、困ったように眉尻を下げていた。


「散らかってなかった」


 どうぞ、と迎え入れられたヨルの分の個室は、当然のように美しい景観を保っていた。当然ながら、彼の寝具の上には林檎など乗っていない。それを確認したスズネは、ヨルに対して抑えきれなくなった笑顔を向ける。

 ヨルはただ、困ったような笑みをいつまでも浮かべていたが、スズネを追い返そうとすることは決してしなかった。

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