第73話 観測者の正論

 ヨルの部屋の内装は、スズネの部屋と何ら変わりないものだった。ここは宿屋であって、彼の私室ではないのだから、当然のことではあるのだが。二つの部屋の差異といえば、彼が置いていったであろう林檎のみである。

 スズネは、ヨルに勧められるまま、一人掛けのに腰を掛けた。机を挟んで向かい側に、同じようにヨルが座る。彼の視線は、スズネが膝の上に置いた両手と、それに包まれた林檎に向けられていた。


「それ、食べないの?」

「食べる前に確認をとりたくて。これ、ヨルくんが置いていってくれたんですよね」

「……そうだけど」

「どうしてですか?」


 既に自分の中で結論を付けたことだったが、どうしても本人の言葉が聞きたい。スズネが淀みなく質問を口にすれば、彼は妙な沈黙を放った。あまりそのことに触れたくない、という彼の心の声が、ひしひしと伝わってくる。けれど、スズネもこればかりは譲れない。

 ヨルの瞳を見つめ続けるスズネに、静かに逸らし続けるヨル。無音の室内には、妙な緊張感さえ漂い始めていた。

 硝子と蝋燭が大量に吊り下げられた優美な証明が、二人を照らし続ける。視界の端で爛々と光を反射させる雫型の色硝子が眩い。酷く美しい光景だったが、スズネの視線はあくまでヨルの瞳だけを射抜いていた。

 スズネにとっては彼の瞳の方が、あの照明よりも余程美しく、そして眩く見える。というのは、恐らく、スズネが困っている際にいつでも手を差し伸べてくれたヨルに抱く信頼が厚いからであろう。彼への信頼は何よりも確かだ。それが、ヨルの瞳を美しく見せるのかもしれない。


「今日は本当に退かないね」


 参ったように呟いたヨルは、眉尻を僅かに下げた。諦めたように浮かべられた微笑は、通常よりもヨルのことを何処か儚く見せる。


「あんまり食べてなかったみたいだから。明日もきっとマナを使うだろうから、補充しないといけないと思って」

「……気付いてくれたんですね」

「まあ、ね」

「有難うございます。ヨルくんもお疲れなのに」

「僕はちゃんと食べて回復したからさ。食欲ないにしても林檎なら食べれるかと思って。キミ、好きでしょ?」


 ヨルは、言いにくそうにしながらも最後まで言い切った。彼の表情は相変わらず晴れないが、会話は成立している。時折交わる視線も、今日はヨルの方が逸らす番だった。自分の部屋だというのに、ヨルは酷く居心地が悪そうにしている。それでもスズネを追い出そうとしない辺りに、彼の優しさを感じる。

 スズネは、手元の林檎に視線を移した。

 確かに、スズネは林檎が好物なのである。けれど、その林檎というのは、ヨルやコハルの手によって創られるマナの林檎のことを指す。普通に実った林檎だって嫌いではないけれど、マナの林檎はそれとは別格に美味しい。それが精霊に共通する好みなのか、スズネ本人の嗜好なのかは分からない。けれど、スズネはマナの林檎が何よりも好きだった。樹の里で、ヨルに初めて林檎を貰ったあの日から。

 そのことを知っているのか、いないのか。マナの林檎をわざわざ生成してベッドに置いてくれていたヨルの気遣いが身に沁みる。

 思わず林檎の真っ赤な皮を指で撫でたスズネを見て、ヨルは静かに呟いた。


「……皮、剥こうか?」

「え」

「そのつもりで来たわけじゃないの?」


 予想していなかった提案に、スズネはぱちくりと瞬きを繰り返す。

――もしや、林檎の皮が剥けないから食べられないと思われているのだろうか?

 確かに、スズネは林檎を食べるとき、毎度ヨルの好意に甘えて皮を剥いてもらっていた気がする。

 シンヤが背後の上着の下に隠している短剣は、未だ人を斬っていない、常に清潔に保たれたものだ。故に、旅の間では果物を切り分けたり皮を剥いたりすることに重宝していたのである。本人は「果物用ではない」と随分と不服そうな顔をしていたが、戦闘で意地でもその短剣を使わなかった辺りに本音が透けて見える。……と、スズネは勝手に思っている。

 そのシンヤの短剣で、スズネが林檎を口にしようとする度、ヨルは律儀に林檎の皮を剥いていた。最初に彼がした気遣いが、その後も毎回引用されていたのである。


「いや、そんな」


 厚かましいお願いをしに来たわけでは。その言葉を呑み込んだのは、何となくそれを口にした後の展開を想像したからであった。

 ただ、スズネは勢いでヨルの部屋を訪れてしまっただけなのである。林檎を置いていった意思を確認したかっただけで、別段他の話題は考えていない。ここでそれを断ってしまったら最後、スズネは沈黙してしまうこと間違いなしだった。


「……お願いします」


 結果として、厚かましいお願いをすることになった。肩を竦めたスズネは、おずおずと林檎を差し出す。ヨルはそれを見て、いつもよりは控えめに、それでも確かに、くつくつと笑い声を零した。


「本当に皮剥いて貰いに来たの?」

「……いえ、あの……うん、はい」

「ふふ。分かった」


 仕方ないね、という意味合いが含まれている気がする。スズネが恐る恐る彼の顔色を窺えば、ヨルは予想よりも遥かに優しい微笑みを浮かべていた。スズネの手から丁重に林檎を受け取ったヨルは、先ほどよりも力が抜けているように見える。無言で安堵したスズネは、姿勢を正しながら彼に尋ねた。


「ヨルくん、今短剣持ってるんですか?」

「僕の武器しかない。でも、僕のマナなら――」


 その先の言葉は、彼自身の意思で塞き止められたようだった。不自然に途切れた言葉に、スズネは小首を傾げる。ヨルは数拍間を置いて、それから自分でも不可解だと言いたげに、己の口を自らの手で塞ぐ。


「……マナなら、何だろう。ごめん、変なこと言ったね。シンヤか宿の人に短剣借りてくる」


 どうにも、意識して吐かれた言葉ではないらしい。不自然を繕うように紡がれた言葉に、スズネが曖昧に頷く。林檎を片手に立ち上がったヨルを見つめながら、スズネは自分の記憶を振り返っていた。

 同じようなことが前にもあった。あれは、樹の里でのことである。確か、それは――スズネが初めて樹の里で食事をご馳走になった時の話だ。


『だって、精霊は人間と違って食べ物を食べなくても生きていけるの……に……?』


 精霊としての知識を奪われたスズネは、無意識の内にそんな言葉を吐いていた。その時は否定されたが、後になって、スズネ達だけが食事を必要とする精霊である、ということが判明した。否、正しくは、『大精霊が弱っているために、マナの補給が追いつかず、食事を必要とする状況下にある』というのが事実である。

 しかし、どちらにせよそんな状況は特例だ。百年前、里同士の別離が起きる前のスズネ達は、食事を必要としなかったのだろう。無意識に刷り込まれた常識は、記憶が奪われた今も生きているということだ。

 恐らくは、先ほどのヨルの言葉もそういった類のはずだ。彼の中には、無意識の常識が生きるほどに使い込んでいたマナがあるのかもしれない。

 もしかしたら、それが彼の――。


「あ、シンヤ。果物用の短剣貸してくれない?」

「はあ?」


 背後から聞こえてきた声に、スズネがぴくりと肩を跳ねさせた。背後を振り向けば、扉を僅かに開いているヨルの背中が見える。扉の隙間から聞こえてきた声の主は、間違えようもなくシンヤだ。


「持ってない?」

「……持ってるけど、何急に」

「今使いたいんだよ。後で返しに行くから」

「何、林檎でも食べたいの?」

「食べたいっていうか……とにかく、皮剥くから」


 はやく、とシンヤを急かすヨルの声音は、通常の彼に随分と近い。シンヤは最後まで怪訝そうな声をしていたが、一瞬の間の後、全てを察したように「ああ」と短く声を出す。


「ありがと」


 ヨルの簡素な感謝の言葉が聞こえてきた。どうやら、無事にシンヤの短剣を借りることができたようだ。扉とヨルの隙間から、シンヤの姿が見える。その隣には、ふわりと広がったスカートの裾。――どうやらコハルも一緒に居るようだ。

 コハルは、ヨルの隙間から顔をひょこりと出して部屋の中を覗き込む。桃色の瞳と目が合って、スズネは大きく目を見開いた。

 大広間では心配そうな顔を見せていた彼女は、スズネの姿を確認した途端、それを忘れさせるような満面の笑みを浮かべた。大輪の花の如く咲いた彼女の笑顔は、明らかな喜びを携えている。


「ヨル、私は今日シンヤくんとずっと一緒に居るから、返すなら明日にしてね。二人になりたいし。その短剣ずっと持ってていいから。ね、シンヤくん」

「そうだね。明日でいいよ」

「……そんなに使うとは思わないけど」

「移動面倒臭いでしょ。明日でいい。俺、それ使わないし」


 弾んだコハルの声音に、同調するシンヤの言葉。ヨルの僅かな戸惑いを押し切るように、二人は次々と言葉を投げかけた。


「……分かった」


 その勢いに、ヨルは大人しく頷いて見せる。それじゃあ、という軽い挨拶の後、部屋から離れていく二人分の足音は、やけにそそくさとしているように感じられた。

 シンヤとコハルが気を遣ってくれたことくらいはスズネにも伝わってくる。その気遣いは、ヨルではなく十中八九スズネに対して向けられたものだろう。少しでも長い間会話ができるように、という二人の気遣いを感じ取って、スズネは静かに顔を綻ばせた。

 改めて向かい合って座ったヨルは、手慣れた手つきで林檎に短剣の刃を触れさせる。衣を剥ぐように白い果肉を露わにする林檎を、スズネはまじまじと見守った。


「ヨルくん、手慣れてますね」

「今まで何回林檎の皮剥いたか分からないからね」

「……それ、私がいっぱい林檎食べたから、って言ってます?」

「ふふ」


 笑い声で曖昧に誤魔化されたが、彼の返答は明らかだった。スズネが皮を剥いてほしいと強請ったことは一度もないが――今回だけが例外である――毎度彼の好意に甘えていたのも事実だ。反論ができないまま無言で沈むスズネを見て、ヨルが笑いながら林檎を回す。赤い実がくるくると踊るように回転する度、鮮烈な色の皮が剥けていく。もしも皮が剥けなければずっとこうして会話をしていられるのだろうか。そうだとするなら、林檎の美味に関係なく、いくつでも林檎を頂きたい気分になってしまう。

 そんな馬鹿なことを考えても、時が止まる訳がない。丁寧に皮を剥かれ、一切れに切り分けられた林檎が、スズネの眼前に差し出される。鼻孔を擽る甘酸っぱい香りを感じながら、スズネは静かにヨルのことを見た。


「いただきます」

「召し上がれ」


 歯を突きたてれば、瑞々しい感触と甘さが口いっぱいに広がる。実を言うと、人に見られながら何かを食すという行為は、あまり得意ではない。変な顔をしていないか、とか、自分の些細な言動が気になってしまうからである。

けれども、ヨルは真っ直ぐにスズネを見つめていたし、スズネの中にもそれを厭う気持ちは一切無かった。寧ろ安心感さえ覚える始末だ。

 林檎の一切れを、いつもより少し時間を掛けて咀嚼する。そこに含まれる意図を、ヨルは知っているのだろうか。

 彼は一度も急かすことなく、穏やかな目付きでスズネのことを見ていた。

この時間が続けばいいのに、と、心の隅で思う。決して口に出せない代わりに、スズネは脳裏でその言葉を反芻する。林檎を食している間だけは、何の話題が無くとも、ヨルの側にいることを赦される気がしていた。


「……本当に美味しそうに食べるね」


 最後の一切れを食べ終えると、ヨルがぽつりとそう呟いた。彼の手から滑り落ちたリンゴの皮は、床に触れた途端、光の粒子となって空気中に消えていく。照明よりも遥かに淡い光は、天井に上り切る前に眩い光に掻き消されてしまう。それを眺めながら、スズネは顔を赤くしながら俯いた。


「ヨルくんの林檎ですからね。特別です」


 その言葉に対する返答は、無い。林檎を食べ終えた先での会話は結局思いつかず、恐れていた沈黙の時間が訪れる。いつもの馬車内であれば、沈黙が続いてもそう気まずい思いはしないのだが。

 二人きりの部屋故か、状況故か――恐らく、どちらもあるだろう。その沈黙は、居心地の悪さとなってスズネに襲い掛かってくる。

 勝手に押しかけた上に林檎の皮を剥いて貰う、という厚かましさ。正気に戻ってしまえば、今にも消えてしまいたいのだが。ここで引いてしまったら、また明日も話せなくなってしまう気がするのである。

 メイやオウが来てしまったら、もう話せない。その事実が何よりも心苦しい。

 そんなことを思ってしまう自分に嫌気が差す。けれど、感情はどうにも押し殺せないものだ。


「……ヨルくん、あの……」

「何?」


 何か言わなければ、ここに居る権利すら奪われてしまう。そんな強い意識に駆られ、スズネは思わず口を開いた。けれど、頭の中は真っ白だ。

 何を話してもメイやオウに繋がってしまう。彼の口から、今だけはその名を聞きたくなかった。そんな我が儘を悟られぬようにするだけで、スズネは精一杯である。

 在りもしないその先の言葉を、ヨルは待ち続けている。暫く沈黙した後、スズネは己の視線を窓の外へと向けた。


「……今日は、星が、綺麗に見えると思いますか?」


 突拍子のない問いかけに、ヨルが目を見開く。明らかに困惑した様子の彼の表情を見て、スズネはスカートの裾を強く握りしめた。

 脳内のシンヤが「天気の話でもするの?」と皮肉を言って去っていった。去り際に、スズネの話題選択を鼻で笑っていった。

 結局天気の話をすることになってしまった。到底、わざわざ部屋を訪れてまでする会話ではない。

 違和感は拭いきれない。どう頑張っても、『まだここにいたいので下らない話をしたい』という意思表示にしかならない。スズネは話し上手ではない己の性質に恨みを覚えたが、相手は何よりも優しいヨルである。彼は一瞬の間を置いた後、「そうだね」と窓の外を見やって呟いた。


「見えるんじゃないかな。雲少ないし」

「そう、ですかね」

「うん。それに、ここは星の里だから。他の場所で見るよりもずっと綺麗に星が見えるよ」


 そう言って立ち上がったヨルは、窓辺まで歩み寄った。その背中から目が離せないのは、一瞬、記憶の断片がちらついたからである。


『今度、二人きりで綺麗な星を見に行こう。この前、すごく星が綺麗に見える場所を見つけたから。きっと気に入ると思う』


 その言葉は、最近スズネがよく見る夢の中に登場するものだった。

 スズネが過去に愛したその人が、優しい声音で紡いだ約束の言葉。今になってそれを思い出すのは、どうしてなのだろう。

 夢は、目覚めた時には曖昧になってしまって、その人物の声や顔を覚えていられない。けれど、その言葉だけは記憶に刻み込まれていた。

 靄のような何かで目元が隠れた『彼』と、目の前の彼が重なって見えるのは、何故なのだろう。

 スズネは、静かにヨルの背中を見つめ続けた。ある答えが頭に浮かんだが、その存在に、スズネは無意識の内に蓋をする。

 そんなことはあってはいけない。そんな言い聞かせをする度、己の心臓が速くなる。窓越しに空を覗き込んでいたヨルは、ふと何かに気が付いたように視線を下に向ける。それから、ぽつりと小さな声で呟いた。


「……メイだ」

「え」

「ダンのこと送り終わったみたい。……オウもいるよ」


 そこまで言い切って、ヨルは静かに窓越しの誰かに手を振った。誰、というのは考えずとも分かる。

 思考が一気に乱れるのを感じて、スズネは慌てて息を呑む。ゆっくりとした動作で振り向いたヨルは、一等眉尻を下げた困ったような笑い方で、スズネを真っ直ぐに見つめた。


「そろそろ戻りな、スズネ。オウに心配されるよ」

「……心配」

「うん。例え仲間だとしても……互いにその気がなくたって、ここは男の部屋だから。自分の大事な人が他の男の部屋にいたら、何もなくたって心配するものでしょ」


 言葉は選ばれていたが、それが彼の拒絶の言葉であることは容易に察することができる。ヨルは最後まで微笑を浮かべながら、硬直したままのスズネに、止めのような言葉を零す。


「僕も、メイのこと心配させたくないしね。お喋りはもういい?」


 やんわりとした言葉なのに、胸を深く突き刺された感覚がする。鋭い剣先で心臓を抉られたような感覚に、スズネは小さく目を伏せた。

 神都で自分が短剣を突き刺したジンも、こんな感覚がしたのだろうか。急にそんなことを考えてしまうのは、少しでも目の前の状況から意識を逸らしたいからかもしれない。

 スズネは、緩やかに口端を持ち上げた。そうしようとしたのではない。無意識に、そうなった。


「そう、ですね」


 その言葉が悲しくて堪らない、その理由さえ分からない。けれど、どうしようもなく深い悲しみを携えながら、スズネは柔らかく笑ってみせた。力のない笑みだという自覚は、もうない。


「――好きな人を心配させるのは、悪いことです。ご迷惑をお掛けしました」


 椅子から立ち上がり、深々と頭を下げる。口から零れた自分の言葉にも、彼が口にした言葉にも、見えない棘がついているようだ。喉元を締め付けられるような感覚に、乾いたような笑い声が込み上げてくる。

 それを表に出さなかったのは、それ以上に、涙が出そうだったからだろう。


「失礼しますね」

「うん」


 あまりにも簡単なやりとりの後、スズネは慌しくヨルの部屋を出た。こんな場面をメイやオウに見られてはいけない、という焦燥よりも、今にも泣いてしまいそうな自分をヨルから隠すための行為だった。

 ヨルの口から、彼女達の名前以上に聞きたくない言葉を聞いた。扉を閉めた途端に、スズネの頬を生温い雫が伝う。

 ヨルの大事な人は、メイだ。何を間違っても、スズネではない。

 だって、ヨルはスズネのことを何とも思っていないのだから。

 込み上げた嗚咽を呑み込んで、スズネは覚束ない足取りで自室へと戻る。その言葉に衝撃を受けてしまう理由は、最早明白である。

 それでも、認める訳にはいかなかった。認めてしまうことは赦されなかった。

 スズネは、寝具と布団の間に己の身体を滑り込ませると、素早く枕に顔を押し付ける。声を押し殺して泣いているのを、誰にも悟られたくはなかった。

 目尻を伝う涙が枕に染みを作る。シーツに爪を立てたスズネは、それを強く握りしめた。自分の中の感情を、押し潰すかのように。

 ヨルのことを、好きになってはいけない。そんな警告染みた声が、スズネの心を支配する。

 好きになってはいけない。こんなことを考えていることを悟られることも、認めることも赦されない。

 だって、スズネが好きなのは本来オウのはずである。この感情を抱くのは、許されない。

 批判染みた叫び声が脳内で反響する。

 誰かが階段を上る音。隣の部屋の扉が開く音。賑やかな少女の声。

 それら全てに、スズネは聞こえないフリをする。


――好きになってはいけない。好きになることは赦されない。


 始まってしまえば、物事には終わりが必ずついてくる。よりにもよって、スズネの抱いている感情は、名前を付けて、『ソレ』が始まった瞬間に終わりを迎えてしまうものだ。


 好きになってはいけない。好きになったら、その瞬間に全てが終わる。


 好きになってはいけない。『始まり』がなければ、『終わり』も無かったことになる。


 好きになってはいけない。決して、絶対に、何があっても。


 胸元を抑えたスズネは、自分に何十回とその言葉を言い聞かせた。その度に血が滲む様に痛くなる心臓が、嫌な音を立てつづける。

 窓から覗く空には、ヨルの言葉通り、美しい月と星が浮かんでいた。人工物とは違う自然な光を横目に、スズネは緩慢に瞬きを繰り返す。その度に睫毛を濡らす涙は、留まることを知らない。

 静謐な光を纏った月を見て、スズネの心の叫びは僅かな静まりを見せる。

 全てを等しく照らし出す柔らかな月光に、何もかもを見透かされている気がする。スズネは小さな嗚咽を押し殺しながら、逃れるように目を閉じた。

 嫌な音に支配された心臓が、止まればいいのにと願う。

 その傍らで、そんなことは起こり得ないと、静かに光る月に言われた気がした。

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