第71話 君の手を引いて
スズネの腹が満たない内に、食卓に並べられた大皿から全ての料理達が消え失せた。ぼんやりとしていた手前、まさか足りませんなどとは口が裂けても言えない。マナは決して回復しきってはいなかったが、スズネは静かに肩を竦めながら、その事実を隠蔽することにした。全て自業自得である。
「それでは、明日の説明も皆さんのお食事も済んだことですし、僕はこの辺りで失礼させていただきますね!」
スズネが反省会を行っている傍らで、満面の笑みを浮かべたダンが椅子から立ち上がった。弾んだ声音から察することができるのは、自分を待っているであろうサイの手料理への期待である。サイとダンは――神都での様子も含めて考えるに――非常に仲が良いようだ。
ダンを攫われかけたサイの反応は、仲が良いというだけではなさそうだが。契約関係になる、ということは、婚約すると同義であるという話も聞く。もしかしたら二人はそういった関係なのだろうか。……という思考まで至って、スズネは静かに首を横に振った。
否、他者の個人的な事情に踏み込むのは野暮である。それに、ダンは十歳にも満たない少年の容姿をしているし、リンの例もある。精霊と契約関係にある人間は、スズネの予想以上に精霊を敬うようになるのかもしれない。
明らかに機嫌が良いダンの姿を見て、オウが同じように立ち上がった。その表情には、スズネに向ける表情に似た、爽やかな笑顔を携えている。
「ダン、家まで送るよ。ついでに神都での話聞かせてほしいな」
「オウに話したら心底怒られるか心が擦り切れるほど心配されるかのどちらかだと思うのですが……構いませんよ」
「なぁに、何をやらかしたの?」
「僕がやらかしたわけでは……いえ、やらかした、に入るかもしれません。まあ、行きながら話しましょう」
「やった。ダンの話聞くのすごく楽しみにしてたんだよ」
オウはダンを随分と慕っているようだ。否、ダンだけではないらしい。二人のやりとりを聞いたメイが、大声を上げて勢いよく椅子から立ち上がる。
「ええ、ずるいよ! 私も聞きたい! 神都の話!」
「メイはヨルから聞かせてもらいなよ。護衛は一人で十分」
「う……ヨルくんから聞く話とダンから聞く話は違うもん。ずるいよ、オウ~……」
「喧嘩しないでください。僕の話なんて、刺激的なことはちょっとしかありませんよ」
「もう絶対面白いやつだもん」
ずるいずるい、と、メイは拗ねた子供のように同じ言葉を繰り返す。ぷっくりと膨らんだ頬は、彼女が覚えている感情がそれなりに大きいことを示していた。
それまでヨルから離れることがなかったメイからは、少し想像がしにくい態度である。メイとオウの二人は、想像よりも遥かにダンのことを慕っているようだ。
メイは眉尻を下げて、困ったようにヨルに視線を向けた。それを受けたヨルは、静かに瞬きを繰り返す。一瞬の間を経て、ヨルは彼女に飛び切り優しい笑みを浮かべて小首を傾げて見せる。
「僕のことは気にせず、行ってきな」
「行ってもいい?」
「いいよ。彼の話聞くの、楽しみにしてたんでしょ?」
「うう、有難うヨルくんっ! そういう理解力がすこぶる高いところ、昔から変わってないね! 有難う!」
あまりにも感激したのだろう。メイはその瞳を星のように煌めかせ、蕩けるような笑みを浮かべる。いいよ、と簡単な相槌を口にしたヨルは、その微笑みのままオウとダンに視線を向けた。
「メイのことよろしくね」
「ええ。僕は送られる側ですが」
「僕が送るから大丈夫だよ、ヨル。仕方ない、一緒に行こうかメイ」
「行く!」
許可が出るや否や、二人はダンの背後にそそくさと移動する。そのまま、ダンの肩に手を置いて子供のようにはしゃぎながら、三人は宿の外へと消えていった。
――三人がいなくなるだけで、その場は随分と静かになる。
本来の旅の面子が揃っているはずなのに、不思議とその場の空気が重い。少し前まで気軽に会話ができていたとは思えないような雰囲気に、スズネは思わず息を呑む。
「……僕、先に部屋まで戻ってるね」
その場の空気に追われるように、ヨルがゆっくりと立ち上がる。椅子が床と擦れる音がやけに大きく感じた。人気が少なくなったせいだろうか。その割に、彼の言葉は今にも掻き消されてしまいそうな声量で紡がれたように感じる。
引き留めなければ。メイが居ない今なら、目を合わせて、何かが話せる気がする。
そんな意思が込み上げた。スズネは慌てて椅子から立ち上がったが、その音にヨルが振り向くことはない。立ち止まるどころか、視線はやはり一度も交わることがなかった。
――何を話せば良いのだろうか。
言葉を紡ごうとして開かれた唇は、その形のまま硬直した。
彼は、彼の意思でスズネを避けている。それは明白なことだった。その裏にどんな事情、どんな理由があれども、その事実は変わらない。この場にメイやオウが居なくとも、ヨルと視線が交わらないのが何よりの証拠だ。
大広間の両扉を潜り抜け、ヨルの後ろ姿が見えなくなる。その間、シンヤもコハルも、彼を呼び止めることはしなかった。
大広間には長い沈黙が落ちる。それを破ったのは、数秒前まで言葉を失っていたスズネだった。
「……二人共、率直に聞きます」
「なぁに?」
「何」
「……ヨルくん、は、私のことを嫌いになったのでしょうか。お話するだけで不愉快にさせてしまうと思いますか?」
震えた声に内在するのは、計り知れない恐怖である。肩まで震えてしまわないように、と拳に力を込めながら、スズネは小声で二人にそう尋ねた。
ヨルのことなら、コハルやシンヤの方が遥かに詳しいだろう。仲間といえど、共に過ごした時間は二人の方が格段に多い。スズネにはまだ、彼を理解しきれないことばかりだ。だから今、こうして迷子の子供のような気持ちを味わっているのだから。
その表情に明確な心配を浮かべたコハルは、その指を顎に当てて「うーん」と考える。彼女が考え込む数拍の間、スズネは処刑宣告を待つ大罪人のような気持ちでいた。
「あれは、嫌いっていうか……そういうのじゃ、ないと思う」
「私、ヨルくんのこと全然知らないんです。だから、今ヨルくんが何を考えてるのかよく分からなくて」
「……ヨルも多分、困惑したり、戸惑ったりしてるんだと思うけど」
コハルはその先を躊躇うように言葉を呑み込んだ。言いにくそうに口を閉ざすコハルは、静かに目を伏せる。そんな彼女の言葉を代行するように、僅かに顔を顰めたシンヤが呟いた。
「気になるなら部屋に行ってみれば?」
「え」
「ヨルと話したいのに俺達と話してても仕方ないし。今ならあのうざったい台風みたいな奴らがいないから気軽に話せるんじゃないの」
「……な、何を話すの?」
「それは君が決めてよ。君が話したいことを話さないと意味ないでしょ。何、天気の話でもするの?」
皮肉めいたシンヤの言葉に、スズネは僅かに肩を揺らす。彼の言葉は正論である。ヨルと話したいのは他でもないスズネだ。
しかし、そこで彼の部屋に立ち入ることができれば、とっくにスズネはヨルに声を掛けている。メイとの間に割って入ってでも、彼に必要な言葉を投げかけている。
何か不愉快にさせるような言動をしたのか、だなんて確認は、とうに終わっているはずだ。
逡巡の末、スズネは緩やかに首を横に振った。長い髪の毛がその動きに伴い、ゆっくりと左右に動く。その長い髪が視界に入る度、メイの姿が脳裏にちらつく。
自分の要素のはずなのに、どうして彼女を連想してしまうのだろう。自分の髪でさえ煩わしくなってしまうのは、心に余裕がない証拠だ。
――そんな状況でヨルとまともな会話ができるとは、到底思わない。
「……私も部屋に戻ります。少し頭を冷やして、それから考えることにします」
漸く絞り出した返答は、意外にも否定されなかった。シンヤもコハルも、静かにスズネを見送る。
せめて不要な心配だけは掛けないように、二人にぎこちなく笑顔を送ったスズネは、控えめに「おやすみなさい」と挨拶をして、その場を後にした。
大広間に残された二人は、そんなスズネの姿を見送る。階段が軋む音が止み、彼女が完全にその場から離れたことを確認して、コハルは静かに声を紡いだ。
「……ねえシンヤくん」
「なに?」
「もしもシンヤくんの前に、スズネちゃんとヨルみたいに……昔の愛しい人、が現れたら、シンヤくん、どうする?」
桃色の瞳は、僅かに左右に揺れていた。そこに納まるのは、決して軽い感情ではない。目の前で崩壊していく人間関係を見せつけられれば、彼女が不安に思うことはそう予想外のことでもない。寧ろ、通りにかなっているだろう。
記憶喪失である、という条件は、シンヤとコハルも抱えている。自分たちがこの状況に陥った時、スズネやヨルのように互いを避けるようになるのだろうか。そんな悩み、或いは疑問を解消するには、『もしも』の空想話に縋る他に方法はない。
シンヤは、己の瞳を伏せた。深い湖の底を思わせるその瞳は、その色に似合わぬ熱を帯びた感情を巡らせる。
「――どうもしない」
「どうもしない?」
「俺が愛してるのは君だから。君しかいないから。俺は揺るがない」
そう断言できるのは、二人の関係性があってのことだろう。淡々とそう述べたシンヤの横顔を見て、コハルは安堵したように小さく息を吐く。桜桃の唇から零れ落ちた「そっか」という声は、先ほどよりかは幾分か緊張感を解いているように聞こえた。
「君も少し疲れたんじゃない? 部屋まで送ろうか。あの煩いのが帰ってくる前に」
「うん、そうしようかな。……折角皆の分用意してもらった個室だけど、せめて、寝るまでは一緒にいてくれる?」
少し怖くて、と付け足された言葉に、シンヤは無言で頷いた。何を恐怖しているのかは言わずとも分かる。椅子から立ち上がりつつシンヤが差し伸べた手に、コハルは微笑を浮かべて自らの手を重ねた。
「シンヤくんは強いね」
「君のために強くなったから」
「……あの二人、仲直りできるといいんだけど。スズネちゃんもヨルも、随分辛そう」
まるで自分のことのように悲しい顔をするコハルを見て、シンヤは僅かに眉尻を下げた。
彼女の辛い顔は、なるべく見たくはない。しかし今回に限っては、彼女を慰めれば良いという話ではない。彼女以上に慰めを必要としている人間が多数いる。
何より気に食わないのは、メイとオウの二人だ。――決して、ヨルやスズネに付き纏っているからではない。その辺りはそれぞれの事情があるのだろうから、決して否定するつもりはないのだ。そうではなく。
「笑顔が胡散臭いんだよね、あの星の精霊達」
ぽつりと呟いたシンヤの言葉に、コハルは同調するように頷いた。
普段からコハルの感情の機微に神経を尖らせているせいだろうか。それとも、あの精霊達が隠し事が下手なのか、見せつけているのか。どちらにせよ、メイとオウの表情や態度の全てが信用に値しない。少なからず、シンヤとコハルの中では。
普段であれば他者の心に鋭いヨルも、深く考えて答えを導き出すのが得意なスズネも、そのことに気付くはずだ。しかし、現在はその武器を環境の変化によって奪われている。
非常に胡散臭い。精霊達の表情も、態度も、この状況も。
そう思ってしまうのは、どうしても先入観が捨てきれないからなのだろうか。
シンヤは、感情のままに顔を顰める。ふと脳裏を横切るのは、旅の途中、背後の荷台から聞こえてくるヨルとスズネの賑やかな会話である。それらに無意味に「うるさい」と釘を刺すのがシンヤの趣味だったのだが――無論、二人はそれを本気にしないし、数分後にはまた新たな会話を始めている――こんなことになるなら、釘は打たなくともよかったかもしれない。
「……さ、行こうコハル。送る。抱っこしようか?」
「ふふ、シンヤくんたら。私一人で歩けるよ」
「そう? 残念」
何処か懐かしい賑わいを思い出しながら、シンヤはそれを振り切るように言葉を継いだ。冗談交じりに呟いた言葉に、僅かな憔悴が見え隠れするコハルが力なく笑う。それに釣られるようにして笑ったシンヤは、彼女の手を優しく引いた。
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