第70話 滞る

 入浴後、宿屋の大広間に、四人のために豪勢な食事が並べられた。試練で消費したマナを補うためである。

 里で生産される武器の種類が多い故に、狩猟がしやすいのかもしれない。食卓に並ぶ肉の種類が豊富で、樹の里では見ることができなかった魚料理も当然の様に用意されている。

 何れも食欲を刺激する素晴らしい料理だった。けれど、スズネはそれらをまともに口に運ぶことをしないまま、真っ新な自分の皿をぼんやりと眺めていた。決して料理に問題があるわけではない。微睡みの中のように、スズネの意識は清明さを失っていた。


「……ちょっと」

「…………」

「ねえ、ちょっと」

「…………」

「スズネ!」


 耳元で己の名を叫ばれ、スズネは大きく肩を揺らした。はい、という返事を出し損ね、唇だけが先行して動く。ぱくぱくと口だけが動く奇妙な光景を見つめるのは、スズネの名を叫んだ張本人のシンヤである。

 彼は酷く顔を顰めていた。それはいつものことだが、今はそこに僅かな心配が浮かんでいる。多少昔のことを思い出したスズネは、シンヤの些細な変化も感じ取れるようになっていた。


「食べなよ。ぼーっとしてないで」

「あ、ああ……少し考え事を」

「考え事してマナが回復するならいいけど、しないでしょ。今日は相応にマナを使ったんだから、ちゃんと補わないと。俺、意識半分ない君の口にわざわざ食べ物放り込むの嫌だからね」


 だからさっさと食べろ、という急かしの言葉に、スズネは肩を竦める。

 スズネの思考は、考え事をしているというには幾分か乱れていた。

 まず、自分たちを記憶喪失に陥れた人物やその目的についての予測。考えても仕方がないことだとは思いつつ、答えを求めずにはいられない。その傍らでヨルとメイに関する思考も巡らせるものだから、スズネの脳内は情報の洪水を起こし、全てが混じり合っていた。

 結果として有益な思考は何一つとして無く、これほど無意味な時間は他に存在しないだろう。その時間を食事に充てたほうが余程恩恵があるのだが、スズネの手は思ったように動かない。

 普段、食事をするときの並びなど気にしたことはなかった。今日に限って妙に意識がそちらに逸れてしまうのは、きっと、自分の向かい側の光景が気になるからだろう。


「ヨルくん、きのこ駄目なんだよね? 私食べるね!」

「有難う、メイ」

「どういたしまして。あ、こっちの料理美味しいよ。あーんする?」

「皆の前だから遠慮する。気持ちだけ有り難く受け取るね」


 穏やかな二人分の笑い声に鼓膜を撫でられて、スズネはますます肩を竦めた。顔が知らずのうちに俯いてしまう。メイとヨルは、会話の八割を互いで完結させていた。決して口を挟めない、挟もうとも思えない仲睦まじい空気感に、スズネの心臓が槍で突かれているような痛みを訴えている。

 その痛みに苛まれながらでは、食事を摂ろうという気は起きないのである。そして、そんな不思議な気分に振り回されて食事を摂れなくなってしまう自分が情けないという自己嫌悪も併発して起きており、スズネの心境は踏み荒らされた畑の如く無残な有様だ。

 この場にいるのは、スズネ、コハル、シンヤ、ヨル、メイ、オウ、ダンである。ダンは何やら今後の話があるから、といって、この場に残ったのだ。

 スズネは現在、コハルとシンヤに挟まれて椅子に座っている。隣に来たがっていたオウを容赦なく跳ね除ける二人の姿に安堵したのは束の間のことだった。そうなれば、自然とヨルとメイがスズネの向かい側に座ることとなる。前を向けば、自然と二人の様子が視界に入るのだ。それが何だか居た堪れない。コハルとシンヤの二人きりの世界を覗いているのとは、また少し違った感情だった。

 ダンとヨルに挟まれながら座っているメイは、一際ご機嫌に見える。満面の笑みが絶えない彼女を見て、シンヤの隣に座っているオウは酷く不満気な声を発した。


「あーあ、僕もスズネの隣にいきたかったな。メイはいいよね、好きな人と隣同士になれてさ」

「早いもの順。オウが遅いのが悪いよ。ねえ、ヨルくん? 私だったら好きな人の隣とるのに絶対手抜かないもん」

「そういうものかな」

「そういうものだよ」


 ヨルの相槌に、メイは唇の端を満足そうに持ち上げて答えた。

本来、精霊に食事は必要ないが――スズネ達だけが例外らしい――彼女は娯楽として食事を楽しんでいるようだ。気付かぬ間に、彼女は相当な量を食べ勧めているようである。


「メイ、この食事は皆さんが試練で消費したマナを回復するためにあるものなのですよ。楽しむにしても、もう少し控えめにしなくては」

「そう? ダンも食べればいいのに。お姉さんがあーんしてあげようか?」

「お気遣いありがとうございます。ふふ、でも大丈夫ですよ。僕、こう見えても貴女より年上ですから。それに、僕の食事はサイが家で準備してくれていますので、そちらで楽しむことにします!」

「そっか、じゃあ手短に説明済ませて速く行ってあげないと。サイちゃんきっと寂しがってるね」

「そうさせてもらいます」


 椅子にその小さな身体で行儀よく座っていたダンは、その顔に人懐こい笑みを浮かべて見せた。両手を膝に乗せたまま、彼はぴしりと背筋を伸ばして、それから口を開く。


「皆さん、本日は神の試練お疲れ様でした。僕達に課せられた罰を目の当たりにされて、驚かれたことかと思います」

「ダンくん、私達試練を熟しきれなかったけど、もう試練に挑戦する権利は剥奪されちゃうの?」

「そんなことはありませんよ、コハルさん。神の試練は、皆さんの態度や意欲、そして『問題を乗り越える力』を見極めるためにあるのです。剥奪されるか否かは今後の皆さんの行動によって決まるでしょう」

「……私達、本当に責任重大な役目を担ってるんだね」


 コハルの表情は、あまり明るくはなかった。愛らしい顔立ちに浮かぶ確かな不安がスズネにも伝わってくる。そんな不安を解くように、ダンは優しい声で言葉を継ぐ。


「そうですね。でも、皆さんならきっと大丈夫です。皆さんが記憶と共に奥義を失っている、ということは、僕も聞きました。あの炎を鎮めるには、奥義の復活が求められます」

「その奥義って、どうやったら復活するわけ? 特別なマナってことは、普通に使ってるのとは違うんでしょ?」

「はい。まず、皆さんは記憶を奪われ、約百年もの間眠っていました。お話を伺う限り、記憶だけではなく、精霊に関する知識も封印されていたようですね。知識の剥奪と長い眠りによって、皆さんの体内で、多少マナの乖離が起きているように感じられます。それを正すことで、奥義の感覚も次第に戻ってくるのではないかと」

「つまり?」

「明日から、皆さんには僕と戦闘訓練をしていただきます」


 ダンはそこまで言うと、静かにその顔に微笑みを浮かべた。温かいだけではない、計り知れない何かを感じさせる表情である。十歳に満たない少年の容姿とは裏腹に、彼は九百年を生きた精霊だ。そこに伴う実力も、きっと確かなのだろう。

 ふとダンと目が合う。その瞬間に全身を走った緊張感に、スズネは弾かれるようにして背筋を伸ばした。


「戦闘訓練でどうにかなるもの?」

「ええ。マナは使えば使うほど身体に馴染むものです。皆さんの乖離を正せる程度に、僕がお相手をさせていただきます。セイ様よりそういったご命令を承りましたので」

「ふぅん……なんでこっちの二人じゃないの? 君、もう大精霊の補助はやめたんでしょ?」

「メイとオウは精霊の役割が補助なので、本来、戦闘向けのではないのですよ。皆さんのお相手をするのなら、戦闘型の僕の方が適任でしょうし。大精霊様の補助でなくなっても、大精霊様にお仕えする身分だということには変わりありませんから」


 ダンは、そう言って「よろしくお願い致します」と丁重に頭を下げた。やりにくいと言いたげに眉間に皺を寄せるシンヤの隣で、何処か面白そうに笑ったオウが口を開く。


「そんなに心配そうな顔しなくても、きっと直ぐ本気を出すことになると思うよ。シンヤ」

「……どういうこと?」

「ダンってすごく強いから。僕達の先輩なだけあるけどさ」

「そんなに褒めても何も出せませんよ、オウ? 僕は僕のするべき任務を果たしているだけですし。それに、僕はもう貴方達の先輩では」

「そういうところがとっても尊敬できるんだよ、センパイ」

「そんなことは……もう、ふふ、有難うございます」


 オウは、その空色の瞳を三日月形に細めた。そこから感じられるのは、ダンに対する絶対的な尊敬や多大な好意である。褒め言葉が嬉しかったのか、ダンは明確に喜びながら椅子の下で足を大きく前後に動かす。その度に僅かに上下する頭を、隣のメイが我が子を可愛がるように撫でる。

 先輩、と呼称されているが、やはりどう見ても可愛がられているのはダンの方である。微笑ましい光景を見つめていたスズネは、ふと小首を傾げることとなった。


「あの……オウくんとメイさんって、すごく仲が良さそうですけど、兄妹ですか?」

「うーん……兄妹というか、双子っていう方が近いかも。ふふ、なあにスズネちゃん、嫉妬した? 私とオウが仲良いから?」

「ち、違います! 気になっただけです!」

「あーあ、嫉妬じゃないってよオウ。残念だね」

「そうだね。嫉妬してくれるスズネ、可愛いから久しぶりに見たかったんだけど」


 自分のあらゆる一言が『過去の自分』に繋がってしまう。蔓延する居心地の悪さに思わず硬く口を閉ざしたスズネの隣で、顔を顰めたシンヤが小さく息を吐く。彼にしてはあからさまではない溜息に顔を上げれば、シンヤはスズネの心を読んだかのように、その後に続くはずだった言葉を引き継いで口にした。


「君らがダンのこと先輩って呼ぶから、同期じゃないのか確認したかっただけだと思うけど。何が何でも過去に繋げるの、会話が成り立たなくなるから止めてくれない?」

「なぁんだ、そういうこと? ダンは私達の先輩。一時だけ一緒に大精霊の補助を務めてたけどね」

「大精霊の補助、二人なんじゃないの?」

「うん、二人までだよ」

「なんで三人一緒に務めてんの」

「二人だから、としか言いようがないね」

「はあ?」


 意味深な答えに、シンヤが明確に訝し気な表情を浮かべる。誤魔化すように笑ったメイは、自分の手前にあった皿から黒パンをひょいと掴み、そのまま大口を開けて齧り付いた。

 それ以上詮索するな、という壁を感じる。花が咲き誇ったような笑みでパンを食べ勧めるメイの姿に、スズネは肩を竦めて、今度は比較的清明な意識のまま思考を巡らせ始めた。

 何故三人で務めているのか? という問いに対して、「二人だから」という答えはあまりにも可笑しい。さらに言えば、双子と言う方が近い『かも』という曖昧な答え方が気掛かりである。双子だ、と断言しなかった理由が何かあるのかもしれない。

 メイとオウが双子だということは、二人で一つと言えるほどに仲が良いということだろうか。

――それとも。


「スズネちゃん、また考え込んでるね。よぉし、私が食べさせてあげる。あーん!」


 隣から飛んできた無邪気な声に、スズネは瞬時に思考の海から現実へと帰ってきた。コハルは、その手に握ったフォークで鶏肉を突き刺し、それをスズネの口元に近付けた。こんがりと焼けた鳥肉から、香辛料のピリリと引き締まった香りが漂ってくる。非常に食欲を誘う香りだったが、人目があるところで誰かに食べさせてもらう、という行為が、食欲以上に羞恥を誘った。


「あ、えっ、コハルちゃん大丈夫です、私、一人で食べられます!」

「駄目駄目。はい、あーん!」

「こ、コハルちゃ……!」

「コハルの好意を踏みにじるような真似しないよね?」

「し、シンヤまで」


 前から飛んでくる好意。背後から飛んでくる脅し。それらに挟まれたスズネは、数秒の沈黙の末、大人しく眼前の鶏肉をぱくつく。それをしっかり噛み締め、嚥下した際に、初めて自分が空腹だったことに気が付いた。

 思考をしている場合ではない。既に卓上に並んでいる料理は皿から殆どが姿を消していた。それに気がついたスズネが慌てて料理を口に運び始めたのを、コハルとシンヤが静かに見守る。


「スズネちゃん、いい食べっぷりだね」

「……そうだね」


 無論、向かい側にいるヨルも例外ではない。彼の眼差しは、確かにスズネに向けられていた。

 けれどスズネの意識は、既に目の前の料理と先ほどのメイの発言に向いていた。無意識の内に胸の痛みを抑えようとして、彼に視線を向けなかったということもある。

 結果として、二人の視線は食事中、一度も絡まることがなかった。

 ヨルも、スズネも、言葉と視線をかわさないままの半日が過ぎようとしている。既に外は夜の闇が蔓延し、月が黙々と仄かに光り輝いている頃合いだった。

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