第69話 懐疑の水面

 唐突に現れたその少女、メイは、溌剌とした笑みのまま、二人がいる湯船にゆっくりと歩み寄った。濡れた床をひたひたと歩く足音が、酷く焦燥感を煽る。先ほどまでの会話は、彼女に聞こえていなかっただろうか。そんなことを気にしてしまうのは、自分が口にしていた言葉が、決してメイにとっては良いことではない、という自覚があったからだろう。

 スズネは、慌てて目元を手で拭った。先ほどまで零れていた雫と湯が混じり、どちらのものか分からなくなる。不思議と彼女には、スズネが泣いていたということを悟られたくなかったのである。

 目元を拭ったおかげで、涙は誤魔化せたらしい。メイは全くそれに気が付く素振りもなく、スズネの隣に静かに腰を下ろした。


「二人共、さっさと温泉行っちゃうんだから。よっぽど綺麗好きなんだね」


 あはは、という無邪気な笑い声が浴室に響き渡る。メイの空色の瞳に映り込んだスズネは、僅かに硬い表情のまま、曖昧に頷いていた。

 彼女の乱入は、コハルにとっても予想外だったらしい。僅かな沈黙の後、コハルは静かにメイに問いかけた。


「ヨルは?」

「ヨルくんもお風呂。シンヤくんとオウに連れられてったから、私もこっちに来ちゃった。やっぱり乙女としては好きな人の前では綺麗でいたいしね。お風呂、気持ちいし」


 歌うように明るい声音が紡がれる。メイは己の長い髪の毛を後ろで一つにまとめていた。曝け出されたうなじが真白く、やけに目につく。幸せそうに微笑むその横顔は、元々整った顔立ちだということも相まって、とても美しく見える。

 この人がヨルの大事な人。彼に愛さるに相応しい人。そう言われて、全て納得してしまうほどの美貌である。

 無意識の内に痛んだ心臓を隠す様に、スズネは湯船の中で己の膝を抱いた。結ぶ暇もなかった長い黒髪髪が、水面に揺蕩って不安定に揺れる。それを見つめたメイは、ねえねえとスズネの肩を叩いた。


「髪の毛、結ばないと邪魔でしょ? 結んであげるね」

「え、いや、そんな」

「遠慮しない! ふふ、任せて。スズネちゃんが私のこと覚えてなくても、私はスズネちゃんのこと覚えてるんだから。仲良くしてもらってたんだよ」


 昔のことを持ちだされると、それ以上は抵抗ができない。スズネの両肩をしっかりと掴んだメイは、そのままその手に力を込めて、くるんとその体を回転させる。背後にいたコハルと見つめ合う形になって、スズネは小さく肩を竦める。コハルは驚いたように瞬きを繰り返していたが、スズネの後ろにいるメイを一瞥した後、静かに表情を硬くしていた。

 オウを怖いと称した彼女は、メイのことも同じように警戒しているらしい。笑顔が多い普段の彼女とは少し違った印象に、何処となく流れる空気がぴりついているのを感じる。無論、それは杞憂かもしれない。空気やコハルの表情には何の言及もないまま、メイのすらりとした白い指がスズネの髪の毛に無遠慮に触れた。


「相変わらず髪の毛さらさらだね」

「……有難う、ございます」

「覚えてるかなぁ。私が好きな人は髪が長いのが好きで、でも似合うか不安だって相談したときに、スズネちゃんが後押ししてくれたの。嬉しかった」

「精霊って、髪伸びるんですか?」

「ほんとは伸びないよ。神様や大精霊様に創られたときの姿で一生過ごすんだけど、私は持ってる奥義の関係で髪も伸ばせるの。ただ少し疲れちゃうから、あんまりやらないんだけどね」


 メイは小さな声で「振り向いてほしくて」と付け足す。そこから感じる熱を帯びた恋情は確かなもので、彼女が長い間『好きな人』を想っていたことを鮮明に物語る。うなじを掠める指先の感覚に肩を震わせながら、スズネは静かに目をを伏せた。

 昔のスズネは、どうやらヨルとメイのことを応援していたらしい。現在と過去の自分が食い違いを起こしていることを、否応なしに自覚させられる。

――記憶を取り戻すことができたなら、恐らく、こんな風に悩む必要はなくなるのだろう。

 スズネはオウの隣で。ヨルはメイの隣で、きっと幸せになれる。そんな光景を想像して胸が痛くなるようなスズネは、その時にはもう何処にもいないのだ。


「はい、できた」


 スズネが憂鬱とした気持ちに支配されている最中、それを知らないメイは明るい声でそう言った。言葉の通り、スズネの長い髪の毛は後頭部の上でしっかりと一つにまとめられている。丸められた髪から僅かにはみ出した毛先が首元に雫を落としている。それにくすぐられる感覚も、今は多少煩わしく感じられた。


「有難うございます。メイさん」

「どういたしまして。……あ、スズネちゃん背中にほくろ。えいっ」

「ひえっ!」


 脈略もなく背中を突かれて、スズネは咄嗟に前に飛び跳ねる。大きく波打った湯と同時に飛び跳ねて体を前に倒したスズネを、コハルの腕が慌てて抱き留めた。コハルは、スズネを抱きしめたままメイに咎めるような視線を送る。彼女はそんなものを受けても、決して気にしていないと言いたげに笑顔を浮かべていたが。


「ちょ、ちょっと、危ないよ、メイさん!」

「そんなに驚いた? ごめんごめん」

「スズネちゃんも私も、昔のこと覚えてないんだから……。もう少し、静かに距離を詰めてあげてほしいんだ。私達だって、きっと忘れたくて忘れたわけじゃないもん」

「ふふ、ごめんね。会えるのが随分と久しぶりだったから懐かしくて。そうだね、皆忘れたくて忘れたわけじゃないのに、ごめんね」


 謝罪という割には明るく、反省した様子のない声が反響する。コハルは彼女の言葉を疑うようにじとりと目を細めたが、メイは、それをかわすように艶やかな微笑みを唇で描いてみせた。


「まあ、でもずっと眠ってたしね。仕方ないよ。あれだけ強力なマナを浴びたら」

「……何か私達のことについて、知ってるの?」

「これでも星の大精霊様補助だからね、ふふ。皆にかかったマナの断片を読み取ることはできるよ」

「マナ、って……私達の記憶喪失は、マナが原因なの?」


 コハルの声音に緊張感が走る。スズネもまた、瞬きすることを忘れて白藍の瞳を大きく見開いた。


「うん、そうだよ。皆の記憶は奪われた――というより、封じられてる。だから今は断片的にしか物事が思い出せない。その封印を解くことができれば、記憶はすっかり元通り」


 メイによって肯定された事実に、スズネは僅かに頭が痛くなるのを感じた。目の前にあったメイの微笑みが歪み、背景の浴室もぼやけていく。

 霧がかかったかのように一瞬ぼやけた視界は、次第に時間をかけて鮮明になっていく。瞬きをする事に脳内で切り替わる光景は、何かの場面を切り取った静止画のようだ。

 誰かに追われている四人――この四人というのは、スズネ、シンヤ、ヨル、コハルだ。

 その誰かから逃れるため、スズネはヨルを、シンヤはコハルを、湖のマナで遠くへと追いやった。

 ヨルとコハルは、その誰かから二人を守るために、樹の絶対防御を張った。

 でも、防御が発動しきる前に、その『誰か』はスズネとシンヤの首元に手を伸ばし、何かを奪っていく。それっきり、視界も思考もぼやけていく。

――その『誰か』を、スズネは知っていた。けれど、今となっては、それが誰かという明確な答えを出すことができない。

 記憶はそこで途切れている。次の記憶は、森で目を覚ました時――つまり、記憶喪失になった後に繋がってしまう。


「封印は、どうやって解くんですか? いや、そもそも、一体誰が何のために私達の記憶を封じたんですか? どうして私達なんですか?」

「さあ。きっと何らかの狙いがあったんだろうね」

「……何も、知りませんか? 私達の、記憶について」

「私が断言できるのは、皆が百年間眠りについてたってことだけだよ。久しぶりに会えたと思ったら記憶が吹き飛んでるんだから、寂しいことこの上ないね」


 オウも同じ気持ちだと思うよ、だなんて言葉が、冗談めかして付け足される。けれど、スズネの心は罪悪感を感じるより先に、明かされた真実を解き明かそうと動いていた。

 スズネ達は百年もの間眠っていた。――否、恐らく、マナによって眠らされたのだ。そうでなければ、そんなに長い間眠ることはできない。

 百年前と言えば、樹と湖の里が別離した時期である。だというのに、どうしてスズネ達は一緒にいたのだろう。


「……コハルちゃん、何か覚えてますか?」

「ううん、何も。……ただ、すごく……何かを届けなくちゃって必死になってたことだけは覚えてる。その途中で、誰かに襲われちゃった、みたい」

「その後の記憶は?」


 コハルは、僅かに眉間に皺を寄せながら無言で首を横に振った。彼女の記憶も、スズネと同じようにそこで途切れているらしい。恐らくは、それが眠りにつく直前の記憶なのだろう。二人が共通してその後の記憶がない、ということは、そういうことになるはずだ。

 百年間眠っていたのだとしたら、意識が途切れてから次の記憶が眠りから目覚めるところに着地するのは辻褄が合う。考え難いことではあるが、人間と精霊の体の造りは違うのだ。そこに誰かの強力なマナも関わっているともなれば、何一つとして可笑しなことはないのだろう。

 問題は、何のためにスズネ達を記憶喪失に陥れ、長い眠りにつかせたのかということ。誰が犯人なのかは全く見当がつかないが、この状況は、誰かに仕組まれて成立しているらしい。


「まあ、皆の記憶についてはゆっくりここで過ごしたら何か分かるかもね。なんていったって、ここは星の里。世界の観測者達が住まう場所。だから皆も何か掴めるよ、きっと」


 それ以上の会話は望まれていない様だ。ざばりと立ち上がったメイは、水面を激しく揺らしながら湯船を上がる。どうやら、もう彼女の入浴はすんだらしい。


「二人共、お風呂が済んだらご飯だよ。皆の分はちゃんと用意してあるから安心して、ゆっくりしておいで」


 彼女はそう言い残すと、ひらりと手を振ってみせた。その足取りは軽やかで、床で滑ってしまわないかという心配を抱かせる。それと同時に、彼女が酷くご機嫌だということをスズネ達に悟らせた。

 傷や汚れが何一つとしてないメイの白い背中が、浴室の扉の向こうへと消える。


「……嵐みたいな人だね」

「なんというか、はい、そうですね」

「ヨル、本当にあの人のこと好きなのかなぁ」


 コハルの懐疑的な言葉に、スズネは沈黙を返す。僅かに痛んだ胸は、愛おしい誰かのことを語るヨルの姿を連想させた。


「……きっと、好きなんですよ」


 メイのような明るさや元気が自分にはない事が、スズネの胸中に深い影を落とす。どうして、メイの様になれない自分が悲しいのか、その答えがスズネには分からない。

 スズネとコハル、二人きりになった浴室は、メイがいないというだけで、随分と静かに感じられた。それで安堵しているのか、寂しさを感じているのか、答えを出すことができない。

 そんな曖昧なスズネの心情を誤魔化すように、水面はいつまでも揺れることを止めなかった。

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