第68話 聞かせて

 胸騒ぎ、或いは、違和感。そういった言葉で称することができる感覚に、スズネは支配されていた。

 案内された宿屋は、外壁が明るい水色で塗装された建築物だった。山に続く緩やかな傾斜な面と平らな地面の丁度境目に建造されており、周囲には里の特産品を扱った土産屋などが立ち並んでいた。住宅街とは少し違う、観光客、或いは商人向けの通りなのだろう。神都の祭りとはまた違う方面の、それでも確かな賑わいが存在している空気が、恐ろしい体験をした後のスズネを酷く落ち着かせる。……はずだったのだが、先ほどからスズネは、それを感じる余裕もなく、胸中に鈍い痛みを覚えていた。

 と、いうのも。突然メイの手を引いて歩いて行ってしまったヨルと、追いついてから一度も視線が交わらないのだ。否、それだけではない。彼は意図的にスズネを避けているようで、声を掛けようと近寄っても、わざとらしくメイの名前を呼んで、遠くに行ってしまう。

 決してメイと会話することも、触れ合うことも、問題はない。だって、漸く会いたかった愛しい人と再会することができたのだから。彼だって話したいことが山積みのはずである。

 しかし、祠に入る前と後とでは、明らかに彼の態度が違っている。それに、メイと再開したからといって、スズネのことを避ける必要など、どこにもないはずだ。

 ヨルの態度は、湖の水面を波立たせたような不安感をスズネに与えた。妙に胸の内がざわめく。

 成す術なく宿屋の前で立ち竦んでいたスズネを気遣ったのだろう。やけに明るい声を出したコハルが、スズネの手を強く握って笑った。


「スズネちゃん、お風呂! 行こう!」

「え……」


 コハルは風呂が苦手だと、樹の里で宣告していた気がするが。

 体が濡れる感覚が苦手だと語るコハルを、この旅の中でスズネは何度も目にしてきた。コハルも、そしてその双子であるヨルも、水に濡れることを好ましく思っていないらしい。

 だというのにそんな提案をするコハルが何だか不思議で、スズネは小首を傾げる。コハルは、今から自分が苦手な場所に行くなどとは微塵も思わせない、朗らかな微笑みを湛えていた。


「いいから、早く」


 有無を言わせぬ無邪気さは、コハルの武器だ。それとも、それは彼女が意図して選択している武器なのだろうか。

 ともかく、コハルに手を引かれて、スズネは強制的にその場を立ち去ることとなった。コハルは、農作物を収穫するが如き力でオウに手を握られていたスズネを引っこ抜く。そのまま軽やかな足取りで宿屋に入ったコハルに、スズネはただ手を引かれていた。

 決して抵抗はしなかった。否、風呂場という、決してヨルやオウとは顔を合わせることのない場所へ行けることに、妙な安堵まで抱く始末だ。

 胸騒ぎ、或いは、違和感。そういった言葉で称することができる感覚に、スズネは支配されていた。

 知ってか知らずか、コハルはそれらから離れることができる場所へとスズネを連れて行く。彼女の手の力は、寸分たりとも緩められることがなかった。



◆ ◆ ◆



 コハルが脱衣所にスズネの体を強引に押しこむ。そうして、まるで何かを遮断するように勢いよく扉を閉めた。

 何の変哲もない脱衣所である。木製の棚に茶色の深い籠が並べられており、それがいくつも設置されている。一般的な宿屋であるため、劇的な広さはない。一気に入浴できる人数は、恐らく十人程度だろう。まだ空が明るい時間帯であるためか、他に宿泊客がいないのか、脱衣所には人気も荷物も見当たらない。

 何やら険しい顔つきのコハルは、そのままスズネに視線を向ける。その瞳に浮かぶ複雑極まりない感情に触れて、スズネは肩を竦めた。


「コ、コハルちゃん?」

「お風呂、はいろ?」

「え、あ……はい。あの、どうしたんですか? お風呂、苦手なんじゃ」

「いいの、今日は入るの。はい、怪我ないか確認したいから脱いじゃって」

「えっ、あの」

「はやくはやく! ほらほら」


 妙に急かす言葉に、スズネの困惑はますます深まるばかりだ。入り口に棒立ちしたまま動けないでいるスズネを見て、コハルは「仕方ないなぁ」と小さく呟く。ゆっくりと近づいてきたコハルの指は、容易くスズネの服の釦に触れた。


「脱がしてあげるね」

「……えっ」


 待って、という制止の声が、届かない。

 コハルの腕は細いのに、何処にそんな力があるというのだろう。コハルの細腕に、スズネはいとも容易く服を全て取り上げられてしまった。抵抗など、する余地もなかった。スズネの情けない悲鳴ばかりが脱衣所に響き渡る。それも、コハルは大して気にしていないようだ。

 自分の服まで目を疑う速度で脱いだコハルは、スズネの腕を引いてずんずんと浴室へと向かう。羞恥で蹲る暇などまるでない。自然と丸くなった背は、今にも全身が溶けてしまいそうな羞恥に溺れるスズネの心境を、よく表していた。

 浴室には湯気が充満していた。水に濡れた黒い石の床はほどほどに温まっており、肌が焼けるような炎の温度との差を明確に伝えてくる。樹の里の浴室と違って、鼻を突くような独特な香りはしない。自然に沸いてくるという温泉とは、また違った原理の風呂なのだろう。

――などと、冷静に考察している余裕は、スズネにはない。コハルに導かれるまま湯船に浸かったスズネは、遠慮がちに彼女に視線を送った。


「あのぅ、コハルちゃん」

「なあに?」

「なんで急に、お風呂ですか?」

「どうせ入るだろうから、早い方がいいかなって。いくら苦手でも、ちゃんと入るよ?」


 決してそればかりではないだろう。そんな急かし方ではなかった。彼女は、意味もなく人を振り回したりはしない。必ずそこには何かしらの意図があるのだ。コハルは思うより、ずっと心の機微に敏いのである。

 湯船の中で腕をのびのびと伸ばしたコハルは、気の抜けるような長い溜息を吐いた。風呂場に反響する彼女の息を聞きながら、スズネは唇を閉ざす。縛る暇もなかった長い黒髪が湯船に浮いて、水面と一緒に揺れている。その不安定さは、何処となく現在のスズネの忙しない心境によく似ている気がした。


「……分かりましたか?」

「何が?」

「私が、その、ヨルくんに避けられてるの」

「まあ、双子だから。ヨルが変なのは分かるよ、流石に。分かりやすいもん」

「気を遣ってくれたのかなって。私のこと、あの場から遠ざけてくれたんですか?」

「まあ、そんなところ。ヨルだけじゃなくって、あのオウって人からも遠ざけたかったかな。スズネちゃんには悪いけど、何だか信じ切れなくて」


 怪しいんだもん、と、コハルの唇が動く。その動きが妙にゆっくりに見えた。

 透明な湯船の中、傷痕の残るコハルの太腿がゆっくりと動く。戦闘で硬くなった気分を緩めているようだ。緩やかに動く彼女の足を何気なく見つめながら、スズネは、静かに目を伏せる。先ほどまでオウに握られていた手の感覚は、揺らめく水中の感触に掻き消されていく。


「女の子が戸惑ってるときにあんなに無理やり手を繋ごうとするの、怖いよ。私達、記憶がないんだもん」

「……でも、昔はきっと、あれくらい普通に……」

「今のスズネちゃんは昔とは違うよ。本当に好きで大事なら、その辺り考えてあげないと」

「でも、でも、私もちゃんと覚えてるんです。記憶の断片だけど、すごく愛おしくて、触れられる度に心が弾んでた感覚。すごく好きで、何よりも好きで、大切で……そんな人を、記憶がないからって突き放したら、きっと後で後悔すると思うんです」


 一度動き出した口は、中々止まることをしなかった。ここ数時間で胸中に溜まっていた言葉の羅列が氾濫を起こしたようだ。俯きがちになったスズネの顔が、揺らめく水面に歪んで映り込む。きっと水面が制止していても、そこに映る顔は晴れやかなものでは無かっただろう。


「……怖いんです。ちゃんと大事だったことを覚えてるのに、今は全然、そう感じないの。あんなに大好きだったのに。手を握られたり、名前を呼ばれたり、抱きしめられたり。全部、嬉しくて、幸せだったはずなのに。私はもう、昔の私に戻れないような気がして」


 怖いんです、と、同じ言葉がスズネの唇から零れ落ちた。同時に、頬を伝った雫が水面を揺らした。水面に現れた波紋は、そこに映ったスズネの影を大きく歪める。次々と水面を叩き付けるようにして落下していく涙の雨は、暫く止む気配がなかった。

 浴室は良く音が響く。反響する自分の嗚咽が情けなく感じて、スズネは自分の気配を消すように、湯船の中に顔を半分まで沈める。嗚咽を零して肩が上下する度、鼻先を水面が掠めた。


「スズネちゃん、今どうして泣いてるの?」

「……怖いからです。怖いことがいっぱいあるんです」

「オウさんを好きになれないこと? それが怖い? それだけ?」


 コハルの問いかけに、スズネは静かに言葉を詰まらせる。

 昔の自分になれないこと。記憶だけではなく、彼を愛する感覚を取り戻せない事。

 無論それも恐ろしい。それらは、この先に抱く不安を爆発的に増加させる。

 けれど、今スズネが一番胸を痛めていることは、きっと、もっと他にあるのだ。

 スズネは瞳を緩やかに細める。睫毛によって影を落とされた白藍の瞳は、ある人を思い浮かべてから、一層涙で潤んだ。


「……ヨルくんに」

「ヨルに?」

「ヨルくんに嫌われてしまうことが、怖い」


 吐露した言葉は、存外簡単だった。子供の駄々のような一言に、自分で呆れてしまう。けれど、それが本音だった。


「ヨルくんが会いたい人に会えて、嬉しいんです。喜ばしいことのはずなんです。でも、それよりもずっと辛くて、苦しい。メイさんと幸せになった先で、ヨルくんとはもう、お話できないんでしょうか」

「スズネちゃんは、ヨルとメイさんが仲良くなるの、嫌?」

「……そんなの……」

「いいよ、私しか聞いてないもん。聞かせて」


 コハルの声が、優しく返答を促す。この場合、返答を躊躇ってしまったこと自体が返答のようなものだ。

 けれど彼女は、その先をスズネの意思で紡がせようとしている。きっとそのことに大きな意味があるのだろう。コハルは決して、無意味に人を振り回さない。特に、こうして本当に人が悩んでいるときには、真摯に応えてくれる。その信頼は確かだ。彼女は、シンヤが選んで愛した人なのだから。

 涙に濡れた睫毛を上向かせて、スズネは小さく口を開く。しかし、その先の言葉が空気に投げ出される前に、その大きな音は鳴り響いた。


「二人共、お疲れ様ー!」


 浴室に無遠慮なほど明るい声が反響する。壁や床にぶつかって大きく弾むその声に鼓膜を劈かれ、スズネは寸でのところで口にしかけていた言葉を呑み込んだ。


「今何のお話? 私も混ぜて混ぜて!」


 大きく手を振って浴室に入ってきたのは、端麗な顔立ちににこやかな笑みを浮かべた、メイだった。

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