第67話 記憶の中で
オウから放たれた閃光に視界が埋まる。スズネは咄嗟に閉ざした目を恐る恐ると開いて、それから周囲を見渡した。
眩さはもう存在していない。だというのにも関わらず、スズネの周囲は全てが純白で埋まっていた。
あの炎も、オウの背中も見えない。視界が白色で遮られているだけでなく、スズネの半身を沈めているはずの熱湯の熱や感触すら感じない。不思議な空間に突然放り出されてしまい、スズネは酷く困惑した。
「ここは……オウくん、何処ですか? オウくん!」
オウは無事なのだろうか。座り込んでいたスズネは、ゆっくりと立ち上がって周囲を見渡す。何処までも広がる、或いは、スズネが認識できないだけで狭い空間なのかもしれないが、その空間は沈黙だけをスズネに回答した。
自分の死を確信した後でこんな場所にいると、迷子よりも不安な気持ちになる。それを誤魔化す様に忙しなく自分の左右を確認するスズネの背後から、不意に宥めるような穏やかな声が上がった。
「大丈夫。僕はここだよ」
「……オウくん?」
振り向けば、数刻前と寸分違わぬ笑顔を浮かべたオウの姿があった。オウは静かにスズネの隣まで歩いてくると、挨拶をするように右手をひらりと振る。白手袋をつけていたはずの右手は、何故か白い肌色が晒されていた。
「巻き込んでごめん。ここは、僕の奥義の中だよ」
「奥義?」
「そう。使うつもりなかったんだけど、スズネが危ないと思ったらつい。使うのがギリギリすぎて右手袋持ってかれちゃった。少し変な恰好だけど、笑わないでね」
「わ、笑いません! 笑うなんて、そんなの……助けてくださったんですよね。有難うございます。手袋だけで済んでよかった」
「本当に。右腕持ってかれるより、多少変な恰好の方が全然いいよね」
オウはそう言って穏やかに笑うと、スズネの手を静かに右手で握った。手袋が無い分、素肌の温もりが直接伝わってくる。スズネの指先が驚いて一瞬跳ねたことを、彼は決して気にしていないらしい。澄んだ青の双眸は、既にスズネではない方向を見据えていた。それに合わせて、スズネもそちらに視線を向ける。
何も存在していなかった真白い空間に、先ほどまで対峙していた黒い炎が現れる。轟々と燃え盛る勢いはそのまま、しかし不思議と、空気を伝う熱を感じない。その空間があくまで沈黙に包まれていることから、炎が弾ける音すら何かに遮断されているようだった。
そんな、恐ろしいほど静まり返った空間に、背筋が伸びるほどに凛とした美しい声が響き渡る。
「ボクは貴方に謝らなければならない」
炎の目の前の空間が陽炎の様に揺らめいて、それから、静かにその声の主が姿を現す。
男女どちらともつかない中性的で、恐ろしいほどに神聖さを帯びた声。聞き覚えのあるその声の主……ミカは、黄金の瞳に悲痛な感情を携えて、その炎を見上げていた。
注意深く観察するまでもなく、そこに立っているミカは、神都で見た時よりも遥かにみすぼらしい恰好をしていた。汚れた白いボロ布を身に纏い、人形のように美しい顔立ちには無数の傷を負い、白い肌と対比を成す様に頭から鮮血が流れている。その赤で、彼の穢れのない純白の髪が赤く染まっていた。触れるのを躊躇うような神秘の雰囲気は、今の彼には存在しない。ただ、そんな状況でも、ミカは毅然とした態度であの恐ろしい炎と対峙している。
彼の足は、躊躇うことなく前へと踏み出す。少しでも身動きをすれば炎に触れて焼かれてしまいそうな距離感だった。そこまで近付くミカを見て、スズネは咄嗟に声を張り上げる。
「ミカさん、あぶな――」
「僕達の声は聞こえない。ここは、神様の炎の記憶を再現してる空間に過ぎないから」
スズネの声を遮って、オウが手短にそう言った。彼はそのままスズネの手を強く引いて、炎やミカとは反対の方向に歩みを進める。それ以上は見る必要がない、と言いたげに。
「僕についてきて。一旦、祠の外に出て体制を立て直そう。炎が動きを止めている間に。他の皆はメイがちゃんと連れ出してくれてるから」
「で、でも……今なら攻撃できるのでは?」
「言ったでしょ、あの炎は奥義じゃでないと消せないんだ。皆が奥義を取り戻すまで、あの炎に近付いちゃいけない」
死んでしまうから、と淀みなく言い切ったオウは、それっきり無言でスズネの手を引く。スズネは、有無を言わせぬ力強さに従って忙しなく足を動かした。何処までも続く空間の中には、二人分の足音とミカの声だけが響き渡っていた。
「ごめんなさい。許してください」
「…………」
「ボクはまた、貴方の側で、くだらない話をしたいのです」
「…………」
「ボクのせいで、貴方を傷つけて、苦しめて、ごめんなさい」
仲直りをしませんか、と、縋るような声が背後から聞こえてくる。
子供同士が喧嘩をした翌日に投げ合うような、そんな細やかな声だった。神に対して、或いはそれが放った悍ましいほどに熱量を持った怒りの炎に対して投げかけるような、そんな声ではない。
スズネは思わず、オウに導かれるまま、視線だけを背後に向けた。振り向いた先で、ミカがゆっくりと炎に腕を伸ばしている。誰かを抱きしめようとしているような仕草をしながら、ミカは静かにその頬を涙で濡らした。
「聞こえていますか、 」
彼の唇は、二文字分の何かを呟いた。恐らくは、その炎――否、神の名前だろう。しかし、その名を聞きとる前に、スズネの視界は再び白く染まる。霧が掛かるようにぼやけていくミカの姿から目が離せない。
霧に阻まれて、ミカの姿はもう鮮明には見えなかった。霧に阻まれたミカの姿は、人影となってそこに立ち尽くす。それでも最後まで視線を注ぎ続けていれば、炎の大きな影は小さくなり、やがて、ミカと同じ人影になった。
その人影が、ミカの影を抱きしめる。スズネの瞳がそれを見届けたのを最後に、閃光が、再びその視界の全てを真白く染め上げた。
◆ ◆ ◆
「スズネちゃん!」
明瞭な発音で名を呼ばれ、ハッとした。
いつの間にか閉ざしていた瞼を持ち上げる。白藍の瞳は驚きを露わに、目の前で不安げな顔をしている少女、コハルの姿をぼんやりと見つめた。
「……コハル、ちゃん?」
「そうだよ、コハルだよ。大丈夫? 意識、はっきりしてる?」
心配したんだから、と涙目になる少女に、スズネは瞬きを繰り返す。周囲を見渡せば、既に真白い空間からは抜け出していた。白一色だった背景には色がつき、険しく黒っぽい岩肌と、篝火の青い炎の揺らめきが見えた。どうやら、オウの言う通り、祠の前まで脱出してきたらしい。生命の息吹を感じない不思議な場所だという感想は、あの激闘の後だからか、非常に安堵のできる場所という印象に差し替えられていた。
スズネが曖昧に頷けば、コハルは安心したと声を上げ、その場に力なく座り込んでしまう。すぐさまシンヤが彼女の頭を撫でて宥めるが、その視線は珍しくスズネの方を向いていた。
「体に異常は?」
「……ない」
「そう。ソイツの変な光浴びてから反応が一切なかったけど。本当にないんだね?」
疑念に満ちたシンヤの視線が、スズネの隣を突き刺す。スズネはそれで初めて、自分があの空間と同じようにオウと手を繋いでいることに気が付いた。オウはスズネの隣で分かりやすく苦笑を零す。
「人聞きの悪いこと言わないでよ。僕の奥義に巻き込んだのは謝るけど、それで助かったんだから……スズネ、大丈夫だよね?」
「だ、大丈夫、です。オウくんの方こそ、本当に手袋だけで済みましたか?」
「わ、あの空間でのこと覚えてるの? 流石大精霊の補助。奥義の効き目が薄いんだね。うん、平気。心配しないで」
オウは驚いたように目を丸くした後、落ち着きのある微笑みを携えた。三日月形に細くなった青い双眸は、嘘偽りを映していない。ほ、と息を吐いたスズネも、釣られるように静かに口端を持ち上げた。
「よかった。有難うございます、助けてくれて」
「どういたしまして。いいんだ、スズネを守るのは昔から僕の役目だったから。守れて嬉しいよ。それに、漸くオウくんって呼んでくれるようになったし」
よかった、と呟いたオウは、その表情に喜びと幸福を滲ませる。そこに浮かんだ感情のままに手を握りしめられて、スズネは一瞬肩を跳ねさせた。
しかし、目の前でそこまで嬉しそうな顔をされると、抵抗はしにくい。――否、そもそも、抵抗の必要などない。昔はよくしていたのだろうし、スズネがそれを覚えていないだけなのである。記憶の中で、自分がどれほど愛おしさを感じていたかは知っていた。意味もなく拒絶をして、そんなに想っていた人を傷つけるのは避けたい。
スズネが手から力を抜くと、オウはさらに嬉しそうに笑い声を零す。スズネの笑顔は曖昧になってしまったが、それでも、無表情でいるよりかはずっといいような気がしていた。
「皆無事でよかった。ね、ヨルくん」
「……そうだね」
「皆の宿、ちゃんととってるから、一旦そこに戻ろうね。お風呂とか済ませて……あと、皆は食事が必要だから、それも済ませて、それから今後の方針について話し合おう。オウ、それでもいい?」
「うん。食事については僕の方から宿の人に説明しておく」
「了解! そうと決まれば出発出発!」
メイの手はここに到着するまでと同じようにヨルの手を握る。行こう、と満面の笑みでその歩みを急かしていたメイは、次の瞬間、その表情を驚き一色に変えた。
「来た道を戻るんだよね」
「ん? うん、そうだよ。どうしたの、ヨルくん」
「何でもない。行こう、メイ」
淡々としたヨルの声が早口でそれだけ言って、メイの体を追い抜く。その手を掴んだまま、ヨルは帰路を足早に進み始めた。
手を引かれるまま、されるがままだったヨルが、自主的にメイの手を引いている。その姿に衝撃を受けたのは、スズネだけではないらしい。
「ヨル、どうしちゃったんだろう。あんな、突然」
コハルのぼやきに、くすりとオウが笑った。影が一寸も見当たらない清々しいまでの笑顔で、オウは小さく呟く。
「思い出したんじゃないかな、自分が本当に守りたかった人のこと」
ねえ、と添えられた、誰かに同意を求める声に、スズネは静かに瞬きを繰り返す。ヨルは一度も後ろを振り向くことなく、迷いのない足取りで宿屋までの道のりを急いだ。
道中、メイの手を離すことは一度たりとも無かった。
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