第66話 少年の影
「それで、僕達は何をすればいい?」
「弓矢を撃ってほしいんです。コハルちゃんに戦いを教えたのはシンヤとヨルくんなんでしょう? なら、ヨルくんも弓矢を扱えると思ったんですが、どうですか?」
「勿論、多少は扱えるよ」
「よかった。樹のマナなら弓も弓矢も無限に創れる、と以前聞きました。その準備をお願いします」
「でもスズネちゃん、さっきの見たでしょ? 弓が簡単に燃やされちゃった。あいつに弓矢が利くとは思えないんだけど……」
「弓矢を撃つのは本体ではなく、あれです」
コハルの戸惑った声を聞いて、スズネは宙に浮く水の半球体を指差した。先ほど、シンヤに頼んで出現させたくらげである。透き通った水で体を形成したくらげは、スズネが指示した通り、一定の間隔を空けて宙に浮かべられていた。
身体の表面が炎の明かりで艶めいている。ぷっくりと膨らんだくらげ達は、通常よりも丸みを帯びた体系で呼び出されたようだ。くらげが上下する度にふるふると震える身体は、水がこの上なく凝縮されているということが分かる。スズネはそれを目視した後、先ほど三頭にまで減らされたイルカを呼びこむ。キュイ、と鳴いたイルカ達のくちばしを撫でて、スズネは小さく頷いた。
「さっき、イルカに火の粉が触れたとき、イルカが跡形もなく消滅しました」
「う、うん。見てたよ」
「でも、火の粉も同時に消えました。多分、湖のマナはあの炎に有効なんだと思います。炎と水ですから、考えれば当然なんですけど……。多少量は必要だと思いますが、頑張れば鎮火できると思います。これから、シンヤに頼んで水のくらげを沢山創ってもらいます。二人はそれを矢で射貫いてください。衝撃でくらげが破裂して、その水飛沫があの炎にかかりますから」
無論、直接マナをかけてしまったほうが攻撃手段として有効である。シンヤがジンに対して繰り出したように、逃げ場を失くすように祠内に水を満たしてしまえば、どれほどかかるかはともかくとして、炎は自ずと消えるはずだ。
しかし、極限まで熱された壁や床で、すぐに水が沸騰してしまうことが予測できる。高温のお湯に身を浸し続ければ、全身をやけどしてしまうだろう。
しかも、水中で有利に立ち回れるのはスズネとシンヤの二人のみであり、他の四人は呼吸をすることも素早く動くこともできなくなってしまう。相手は普通の炎ではない。鎮火にどれだけの時間を必要とするか分からない状況で、そんなことをするのは自殺に等しい手段であった。
現状で、最も安全に相手を倒すには、イルカに乗って攻撃や火の粉を避けつつ、どうにか水をかけるという作戦しかない。熱のせいか、焦燥感のせいか、スズネの脳に浮かんだ作戦はそれだけだった。
「私はイルカを動かすことに集中します。シンヤは水のくらげを創り続けることに集中。ヨルくんとコハルちゃんは、それを射抜くことだけに集中してほしいんです」
各々が回避と攻撃に意識を半分ずつ割くよりも、十割の力を攻撃と回避のどちらかに振った方が良い結果を出せるはずだ。この作戦なら、それを実行しても誰かが逃げ遅れることも攻撃し損ねる心配もない。絵面はともかく、上手くやれば最高の結果を残すことができるはずだ。
作戦の全容を聞いて、コハルとヨルは納得したように頷いた。その顔に浮かんだ緊張感に釣られて、スズネも背筋を伸ばす。
不規則に黒い炎から飛び出す火の粉にすら当たれない。イルカ達に動きを任せれば、先ほどのように火の粉に触れて消滅してしまうことは確実だ。そうならないために、スズネは三頭のイルカを同時に操る必要がある。とてつもない集中力を要求されるだろう。だが、やるしかない。この作戦は、イルカ達が全ての火の粉と攻撃をかわすことを前提に立てられているのだから。
「イルカはこれ以上増やせません。私の実力不足で、申し訳ないんですけど……残った三頭で作戦を実行しようと思います。メイさんとオウさんで一頭、コハルちゃんとシンヤで一頭、私とヨルくんで一頭です。問題ありますか?」
「ない。早速乗ろう、スズネ」
「はい! コハルちゃん、シンヤのことお願いします」
「任せて、スズネちゃん!」
「馬鹿、そこは俺にコハルのこと任せるところでしょ」
「そっか。コハルちゃんのことお願いね、シンヤ」
「当然のこと言わないで、馬鹿」
「どっちにしろ罵るなら文句言わないでよ……」
手短に応酬を済ませた後、シンヤ達は皆イルカの背に飛び乗った。イルカ達は力強く一鳴きすると、尾鰭で宙を叩き、滑りだすように祠の内部を泳ぎ出す。それを見届けて、スズネも早急にイルカの背に乗ろうとしたとき。既にその背に乗っていたヨルが、静かに手を差し出した。
眼前に伸びてきたその手に、スズネが大きく目を見開く。ヨルの表情は僅かに強張っていたが、一つ溜息を挟んだ後、彼は僅かに綻ぶような笑顔を見せた。
「乗るの手伝うよ」
「……有難う、ございます」
神都でも同じように手を差し伸べてくれた彼のことを思い出す。その時、スズネは記憶の断片を思い出していた。
今は、ヨルのことばかりを思い出す。胸を締め付けられるような感覚に苛まれ、笑みを絞り出したスズネは、控えめにその手を握りしめた。スズネをイルカの背に引き上げる力は強く、きつく握られた手から安堵が伝わってくる。
きっともう二度と、迷子防止だと言って手を繋いで歩くことはないだろう。そう思うと、途端に手を離すのが惜しくなった。
「スズネ」
「何ですか?」
「絶対生きて帰ろう」
それでも、彼は微笑みを携えるのを止めない。ただ、潔い約束を投げかけるだけだ。
「……はい」
その笑顔に見送られた気分になって、スズネは眉尻を下げて笑った。イルカの背に乗り上げたスズネは、静かにヨルから手を離す。イルカに乗ってしまった今、もう、彼の手を握る理由は何処にも残されていなかった。
スズネから手を離したヨルは、早急にマナで弓と矢を形成した。黒い炎を挟んだ向かい側には、弓を構えたコハルが既に狙いをくらげに定めている。
攻撃の対象が宙に浮かんだことに、炎はどのような感情を抱いたのだろう。そもそも、あれに意思や感情といった人間的な部分があるのかさえ分からない。ただ、存在しない眼には獣のような獰猛さが浮かんでいる、ということだけが確かだった。
心臓を抉る様な殺意が向けられる。負けじと黒い炎を睨み付けたスズネは、イルカの背を撫でて、それから声を張り上げた。
「いきます!」
炎が咆哮して揺らめくのと、イルカ達が動き出すのは、殆ど同時のことだった。
イルカを殴ろうとした炎が、その動きを捉えられずに壁を殴る。イルカ達は尾鰭を器用に動かすことによって、祠内に飛び散る火の粉を避けながら、自由自在に熱気の中を泳ぎ出した。
「コハル、いくよ!」
「うん、大丈夫!」
ヨルとコハルは、真っ直ぐに矢を放つ。鋭い音を立てて空気を斬り裂いた矢は、見事くらげの体を貫き、その丸々とした身体を破裂させた。
衝撃によって形を崩したくらげが、水飛沫となって黒い炎に襲い掛かる。水飛沫を受けた部分だけが明らかに炎の勢いが弱くなり、同時に祠内に獣のような呻き声が反響した。あの炎が苦しんでいる。そう確信するには、十分すぎる情報だ。
黒い炎は、苦痛を逃がすように大きく体を揺らす。そして、自分の周りを旋回するスズネ達を叩き落そうとして、炎の腕の動きはさらに激しくなった。壁を抉るような大きな動きで、炎の腕が祠内部を暴れ回る。それは、瞬きの瞬間すらも命取りになるような速度だった。
回避のために大きく身体を捻ったせいで、ヨルが放った弓矢がくらげから外れる。炎の中心を射抜いた矢は、当然のように跡形もなく燃え尽きてしまう。
「っ、ごめんなさい」
「ううん、回避してくれて有難う。当たったら即死だもん、避けるのが先だよ」
「はい」
ヨルは的から決して目を逸らさない。スズネは、瞬きの回数を減らす様に目を大きく開き、熱を帯びた空気の中を観測した。
炎の動きを落ち着いて観察すれば、知性や理性で動いているというよりかは、本能を剥き出しに行動しているような雰囲気があることが察せる。神の怒りというだけあって、怒りに任せた攻撃が多い様に感じるのだ。
炎は、攻撃が飛んできた方向に、子供が癇癪を起こすように腕を振り下ろす。その威力や速度が洒落にならないというだけで、攻撃事態は単純だ。落ち着いた上で油断をしなければ、必ず避けることができる。
大きく飛びあがったり、時に床と身体がぶつかる程低空を泳いだり、イルカ達は様々な動きで黒い炎を翻弄した。その間、ヨルとコハルの弓矢は正確にくらげを射抜き、順調に炎の勢いを弱くしていく。
腕を振り回すのと同時に、それに触れたくらげもまた爆発する。それに濡れた腕が威力を失うことに、炎は漸く気が付いたらしい。くらげ達を厭うようにその身を小さくした黒い炎からは、怨念と憎悪が籠ったような呻き声が聞こえてくる。その声に耳を傾けているだけで正気を失ってしまいそうな、悍ましい声だった。
床はくらげ達の水飛沫により既に踝が浸かる程度には沈水している。水は確実に根元に触れているはずだが、炎は鎮火する様子を中々見せなかった。床の水は沸々と湧き上がっており、白い湯気が出ている。床を沈めている水が相当な高温であることは、近づくだけでも理解することができた。
「随分弱ってるはずだけど……中々消えないね。何が足りないんだろう」
「弱まってるのは確かです。このまま重ねれば、多分、いつかは……」
「皆、そろそろ止めをささないと、次がくる!」
スズネ達の頭上で、イルカの背から顔を覗かせたメイがそう叫ぶ。彼女の表情には確かな焦りが浮かんでおり、声音から察せる余裕は微塵として残されていなかった。
「止めって、どうやって……」
「奥義! はやく!」
「奥義ってなんですか!?」
「特別なマナのこと! 持ってるでしょ、それじゃないと止めがさせないの!」
はやく、と急かされて、スズネは思考が一瞬にして白く染められるのを自覚した。そんな情報は初耳である。奥義も特別なマナも、スズネは何一つとして知らない。
スズネが動きを止めたのを見て、メイがその表情を絶望で凍らせた。一瞬にして蒼褪めた彼女の顔が見える。そして次の瞬間、スズネの視界は大きく揺らいだ。
「スズネ!」
ヨルの叫び声が虚しく反響する。スズネがハッとした頃には、既に、スズネとヨルの身体は宙に投げ出されている頃だった。
よく見れば、二人が乗っていたイルカの尾鰭の根元が、大きな手のようなものに掴まれている。ようなもの、と称したのは、その巨大な手が透明で、形を一瞬では認識できなかったためである。
巨大な水の塊は拳を作り、その下にはそれを支えるように太い水柱が立っている。その柱の根元は、くらげの水飛沫によって床に溜められた煮え切った湯であった。
――神の色は黒。全てのマナを集めた色。
そんな言葉が、スズネの脳裏を過る。
この炎が神の遺した一部なのだとしたら、この炎もまた、全てのマナを扱えても可笑しくはないのかもしれない。そう悟るには、少し遅すぎた。
スズネの体は、煮えたぎった湯の中に叩き付けられる。硬い床に肩を強打した痛みや全身を覆う熱に飛び上がる暇もなく、スズネは慌しく顔を上げた。
「ヨルくん!」
勢いよく吹き飛ばされたヨルは、その体を壁にぶつけていた。痛みにその顔を歪めていたが、辛うじて立っている。目立った外傷はない。そのことに、安堵する時間などなかった。
「スズネ、上!」
ヨルの声が空気を斬り裂く。鋭い声に弾かれるようにして、スズネは咄嗟に上を向いた。
イルカは壁に叩き付けられ、水飛沫を上げて消滅している。しかし、スズネの視線を集めたのはそんな光景ではない。
スズネの眼前には、既に炎が迫っていた。煮えたぎった湯以上の熱量がスズネの頭上から降り注ぐ。
轟々と燃える漆黒の炎は、もうすぐそこまで近付いてきていた。それが何を意味するかは知っている。知っているから動けなかった。
この炎に焼かれたら、どうなるといっていたっけ。
既に知っているはずの知識が脳内で警報を鳴らす。それが走馬燈なのか、或いは現実逃避なのか、スズネには判断がつかなかった。
この炎に焼かれたら、身体も、衣服も、自分が生きた証すらも、全て焼失するのだ。
スズネの白藍の瞳が、炎の色を映して黒く染まる。その瞬間、スズネの世界は突然無音に包まれた。
ああ、私死ぬんだ。
そう悟ったら、恐怖は突然無くなった。自分が死ぬという妙な確信を得た瞬間、スズネの肩から力が抜ける。炎が燃える音も、誰かが自分の名前を叫ぶ声も、何一つとして聞こえない。
このまま死ぬ。心の声に従って目を閉じかけた瞬間、その影は突然現れた。
黒い視界を遮った白い影に、スズネは目を見開く。呆然と顔を持ち上げた先にあった双眸は、美しい、青だった。
「大丈夫、キミは僕が守るから」
未だ聞き慣れない声が、何処かで聞いたような言葉を紡ぐ。こんな状況でも不敵な笑顔を浮かべた少年の姿に、スズネは夢を見ているような感覚に陥った。
「……オウ、く……」
その少年――オウが炎に手を伸ばす。
黒い炎にその指先が触れた瞬間に、スズネの視界は、真白い閃光で埋め尽くされた。
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