第65話 あの言葉をもう一度

 重量感のある鉄の扉が大きく開く。そこから内部へは不思議と光が入らず、祠の中は依然として暗黒に包まれていた。

 太陽が退けない闇が漂う空間が、スズネ達を待ち構えている。メイとオウに促されるまま、四人の先頭に立ったシンヤが、その闇の中へと歩みを進めた。

 外見の、自然のまま使用されているであろう険しい岩肌と違い、内部は丁寧に整えられているようだ。凹凸のない滑りやすい床の感触を靴底で感じて、スズネは息を呑む。歩みを進めるごとに、靴底と床が硬質な音を立て、祠の中で反響した。まるで、侵入者を告げるように。

 心臓が騒がしくなる。杖を胸の前で握りしめたスズネは、小さく息を吸って、それから杖の石突を床に勢いよく振り下ろした。それまでで一番大きな音が祠の内部で反響する。同時に現れた水のイルカ達の胴体は、淡い青の光で包まれていた。その光により、周囲の視界が最低限に確保される。

 イルカの群れは祠の内部を照らしだすように、半球を描く壁に沿って大きく旋回を始めた。

 床や壁は、水晶のように透明度のある鉱物で形成されている。想像通り、凹凸は全くなく、内部だけが美しく研磨された状態だ。円状の床には魔方陣のような不思議な模様が浮かび上がっており、円の中で線が複雑に絡まり合っているようだが、暗い中では目視が難しい。

 また、入り口に置いてあった篝火と同じものが、壁に沿うように一定の間隔で設置されている。炎は灯っておらず、それが内部に広がる暗黒の原因のようだ。


「……炎なんてどこにもないけど?」


 不可解そうなシンヤの声が、祠の中で反響する。訝しげな顔をしたのは彼だけではなかった。試練官であるはずのメイですら、不思議そうに小首を傾げている。


「私達も中に入るのは初めてなの。これは……」


 メイは周囲を見渡して、魔方陣を確認するように歩み寄った。イルカの光が届かない中央で、彼女は自分の手の平にマナの炎を灯す。藤色の鮮やかな炎に照らしだされた魔方陣の中央には、黒真珠のような宝石がはめ込まれていた。炎に照らしだされた宝石は、怪しげに艶めく。メイがそれを覗き込んだ、その刹那。魔方陣から、緋色の閃光が放たれた。


「メイ、来る!」


 オウの忠告の声が響く。先ほどまで淡い青の光に照らされていた空間は、瞬きの間に緋色へと染め上げられた。まるで鮮血を浴びたように、床や壁が赤く染まる。

 次の瞬間、スズネは突然息苦しさを感じた。肺が焼けるような熱気が、魔方陣の中央から吹き出す。咄嗟に飛び退いたメイは、その瞳を大きく見開いた。


「――神様の、お怒りの炎」


 その一言に呼び出されたように、『ソレ』は姿を現した。

 スズネの向かい側の壁がぐにゃりと曲がる。熱気によって歪んだ空気は左右に揺れ、容赦のない熱気がその場の全員を襲った。

 『ソレ』は、一言で表すなら、黒い炎だった。

 一目見て、スズネは悟った。その炎は、触れたものを全て焼き尽くす灼熱を身に纏っている。この炎に触れたら最後、メイの言葉通り、身体も、服も、それまで生きた痕跡すらも、焼き焦げて無くなってしまうだろう。

 その炎の黒は、夜空の色でも、全てを集約した色でもない。その灼熱によって己すら焼いてしまった、今も尚燃え続ける焼き痕の色だ。

 自分さえ焼き焦がす熱を帯びて、『ソレ』はスズネ達の目の前に姿を現す。祠の天井にまで届きそうな炎は、己の熱に歪められた空気さえ呑み込んだ。太陽ですら退けられなかった闇を、その炎は容易に照らし出す。闇の一片もなくなった祠の内部は、闇に包まれていたとき以上の恐怖と緊張感が漂っていた。

 『ソレ』に、眼はない。ただ轟々と燃え盛る熱量がそこにあるだけだ。だというのに、その炎を見ていると、目が合っているという感覚が込み上げて仕方がない。否、それよりももっと適切な言葉がある。自分はあの炎に『睨み付けられている』のだ。何処にも見当たらない眼に全てを視られている。心臓の内側まで見透かされているかのような圧倒的な存在感に、スズネは全身が震えあがっていることに気が付いた。


「これ、炎なんて可愛いものじゃないでしょ。あのポンコツ商人のマナがおもちゃに見える」


 シンヤの表情が強張っている。彼ですら、剣を握るその手が僅かに震えていた。

 対峙しているだけで、自分が想像し得る最も残虐的な死に方が脳裏を過る。スズネは、上手く力の入らない手で、必死に杖を握りしめた。


「はは、すごい。想像以上だ。ねえ、メイ。昔の星の民は、大いに神様の怒りを買ったみたいだよ」

「私、あのままあそこに立ってたら、焼き死んでた。危ない危ない」

「本当だよ。気を付けて、試練官の僕達だって、安全なわけじゃないんだから」

「気を付ける。だから、オウも気を付けて。星の大精霊様の補助役って肩書きに恥じないよう、精一杯やらなきゃ」

「本当――彼に示しがつかないからね」


 メイとオウは、そんな会話を密かにしていた。手を伸ばせば届く距離に二人がいるにも関わらず、その声は耳を澄ませなければ聞こえない。全て炎が燃える音に掻き消されてしまうのだ。

 炎から散った火の粉が、祠内を泳ぐイルカに当たる。たったそれだけで、水のイルカが黒くなって消えた。黒煙を上げながら、悲鳴をあげる暇もなく。十体以上はいたイルカ達の群れは、火の粉だけで半分以下の三体にまで減らされてしまった。


「こんなのと、どう戦えっていうの……?」


 コハルが顔を蒼くして呟く。呆然とした彼女の手から、力なく短弓が滑り落ちた。木製の短弓は、鉱物の床とぶつかり、大きな音をたてた。そして『ソレ』は、その音を合図に、ありもしない口で咆哮してみせた。空気がビリビリと揺れる。鼓膜が破れそうな轟音に、スズネ達が僅かに怯んだ瞬間――『ソレ』は、大きく動いた。


「え……?」


 コハルの目の前に炎が振り下ろされる。先ほどまでただの巨大な炎だったはずの『ソレ』は、瞬時に腕を形成し、コハルに殴りかかったのだ。

 桃色の瞳が大きく見開かれる。現実を呑み込めていない彼女は、自分に振りかかりそうになっている炎から逃れることもせず、ただ呆然とその光景を見上げていた。そのまま立っていれば、自分が数秒後に死んでしまう。そんなことを、まるで理解していないように。


「コハル!」


 シンヤの叫び声が響く。強く床を蹴り上げたシンヤが、荒々しい動作でコハルの身体を突き飛ばす。勢いよく突き飛ばされたコハルは、漸くそれで正気に戻ったようだった。

 コハルが突き飛ばされた先でヨルに抱き留められるのと、彼女がそれまで立っていた場所に炎が振り下ろされるのは、殆ど同時のことだった。

 先ほどコハルが床に落とした短弓に黒い炎が纏わりつく。見届けるまでもなく、木製の短弓はあっという間に燃え尽きた。その燃え痕には、灰すら残っていない。

あのシンヤがコハルを突き飛ばすなど、普通は有り得ない。回避のときでさえ、彼はできる限りコハルを丁重に扱う。決して怪我をさせないように。そんな彼ができる最大限が、突き飛ばすという選択だったのだ。


「し、シンヤく……」

「ごめん、後で全部怪我の確認するから、今は耐えて、ごめん。君を失いたくない。後で、全部謝るから、今だけコイツに集中して。後で……生きて顔を合わせられたら」


 早口でそう告げたシンヤに、コハルが息を呑む。先ほどまで蒼かった顔は、炎の熱を浴びたせいで赤くなっていた。

 立っているだけで汗が噴き出してくる。圧倒的な存在を前に、スズネは静かに息を吐いた。

 リンやジンの時とは、比べ物にならない殺意だった。どちらも相応の理由があったはずだ。だというのに、肌に突き刺さる敵意や殺意の量がまるで違う。

 神の怒りと称される所以がよく分かった。対峙しているだけで、伝わってくるのである。

 全てを燃やし尽くすほどの怒り。全てを終焉に導こうとする心。

――深い、悲しみと絶望の感情が。

 何処からともなく聞こえてくる咆哮は、この世界の全てを恨んでいるような呪詛に聞こえる。悍ましい気配が錯覚させるものだとしても、スズネにとって、その声は聞き流すことのできないものだった。


「シンヤ、お願いあるんだけどいい!?」

「手短に」

「クラゲつくってほしいの、いっぱい!」

「はあ? あれ、攻撃性のないただの浮遊物なんだけど。戦闘において出す価値皆無なんだけど? 何考えてんの」

「お願い! いっぱい、間隔をあけて不規則に浮かべて! 少し大きめに!」


 説明をしている暇はない。スズネが声を張り上げて頼むと、眉を潜めたシンヤが静かにマナを発動する。

 声に反応したのだろうか。神の炎は次にスズネ目掛けて炎の腕を振り下ろす。瞬きすら凌ぐ速度の攻撃を、スズネがかわせるはずもない。

 眼前に迫る炎に足が竦む。停止しかける思考を必死に巡らせて、スズネは、恐怖で強張った口をどうにか動かした。


「ヨルくん! 手!」


 突然名を呼ばれた少年は、弾かれるように顔を上げた。その表情に驚愕が刻まれるのが、遠目からでも分かる。スズネは必死に手を差し伸べる。

 たったそれだけの単語でも、彼はすぐにその意図に気が付いたらしい。コハルを片腕に抱いたまま、ヨルはスズネと同じように手を伸ばす。二人の距離は遠く、とても腕が伸びる範囲ではない。

 しかし、彼はスズネやシンヤでは扱えないマナを使いこなすことができる。

 スズネの手首に何かが絡まる。それは、炎の腕がスズネに触れる直前に、その身体を強引に引っ張り上げた。

 引っ張られた力によって、スズネの身体は容易く宙に浮く。勢いに任せてきつく目を閉じたスズネは、次の瞬間、勢いよく何かに顔を押し付けることとなった。


「わぷっ」

「っ、大丈夫?」


 背後にまわった手が、気遣わしげにスズネの背を何度か叩く。その優しい手付きには覚えがあった。顔を上げたスズネの視界には、青と緑が混じった、美しい色が広がっている。自分の体を支えるように回された腕が彼のものである、と認識したスズネは、ほっと安堵の息を吐いて、目の前の人物に笑いかけた。


「有難うございます、ヨルくん。蔦、助かりました」


 スズネの手首に巻き付いたのは、ヨルがマナで創り出した蔦である。コハルが神都でやっていたように、樹のマナは柔軟性に富んだ蔦まで発生させることができるのだ。マナを上手く使いこなせる人物であれば、その蔦は意思を持つ縄のように扱うことができる。スズネが走って逃げるよりも、その蔦で引っ張られた方が速く移動することが可能なのである。

 スズネは、ヨルの腕の中で体制を整える。今はくよくよと迷っている場合ではない。そんなことをしていれば、全員あの黒い炎に焼かれて死んでしまう。

スズネは背筋を伸ばして、同じように隣で抱きかかえられているコハルに視線を向けた。


「コハルちゃん、お願いがあります」

「な、何?」

「あの炎を鎮火します。ヨルくんも協力してください」

「僕も?」

「はい」


 ヨルは曖昧に頷いて見せた後、僅かに目を伏せた。まだ本調子ではないらしい彼の瞳に、躊躇うような色が浮かんでいる。

 ヨルは静かに俯いた後、コハルとスズネの両方を腕から解放した。そして、炎の音で掻き消えてしまいそうなほどに小さい声で呟く。


「……君が危ない時、真っ先に声をかけるのは僕なんだね。少し驚いたよ」

「はい、信頼してます。ヨルくん。ヨルくんは、今までに何度も私を守ってくれているので」

「でも、僕は」

「いいんです。貴方が守りたいのが私じゃなくても。ヨルくん、前に一度言ってくれましたよね。その言葉、今だけもう一度お借りしたいんです。今だけ……この作戦を実行している間だけ」

「……言葉……?」


 瞬きを繰り返すヨルに、スズネは確かに頷く。

 彼は真に守りたい人と出会えた。もう、『誰か』の影を探して他人を守る必要などどこにもない。

 だからこれで最後である。こんな我が儘を言うのは。

 スズネは、ヨルと目を合わせて、少しも視線を逸らさないまま、言った。


「今だけでいい。他の誰でもない私を、守ってください。……お願いできますか?」


 ヨルの瞳が大きく見開かれる。普段のスズネであれば情けなく悲鳴を上げて飛び退く距離だった。その距離から告げられた言葉は、確かに、彼がかつて投げかけてくれた言葉を引用している。

 驚愕一色に染まっていたヨルの顔は、やがて、小さな微笑みを宿した。今が危機的状況であることに変わりはないのに、彼の笑顔は、いつでもスズネの心を安心させる。

 スズネは、返答を聞く前に安堵した。その表情で、彼が口にする答えは大凡予測がついたからだ。


「分かった。他の誰でもない君を――スズネを、守るよ」


 その言葉に、自然と笑みが零れた。漸く交わった視線を絡ませて、スズネは小さく頷く。

 手の震えは、いつの間にか止まっていた。

 彼がいれば大丈夫。その信頼感は、どんな時でもスズネの心を強くしてくれた。

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