第62話 兄妹と友達


「星の里における試練はね、こっちで行われるんだよ」


 メイの溌剌とした声が弾む。それと同じように、彼女の足取りは舞う様に軽やかで、一歩進むごとにスカートの裾が大きく靡く。そんな楽し気な様子とは反対に、スズネの気分は地を這うようなものであった。

 メイは、その手でヨルの手を握って離さない。先ほどから無言を貫いているヨルは、振り払うでも握り返すでもなく、ただされるがまま、その手を引かれるがままに道を歩いていた。

 メイとヨルの数歩後ろを、スズネ達は歩いている。シンヤとコハルは気難しい顔でヨルとメイの後ろ姿を見守っており、スズネの隣を寄り添うように歩くオウは、只管に優しい微笑みを浮かべている。その眼差しに射貫かれていると、スズネは妙に落ち着かなくなって、直ぐに目を逸らしてしまった。


「スズネ、気分はどう?」

「……大丈夫です」

「嘘ばっかり。あれだけ派手に泣いておいて、大丈夫は通用しないよ。あれ、嬉し泣きって感じじゃなかったし。キミは昔から、何というか、意地っ張りだよね」


 変わっていないね、と言いたげな様子のオウに、スズネは無意識の内に肩を竦めていた。そんなことは覚えていない。昔の自分と今の自分の何処に共通点があって、何が変わっていないのか、スズネには全く以て理解ができない。

 目を伏せたスズネの前で、オウが苦笑する気配がする。スズネはそれを感じ取っても――否、それを感じ取ったからこそ、顔を見ることはできなかった。

 彼の顔を見るのが怖い。どれだけ優しく微笑まれても、その恐怖感だけは拭えない。


「ごめん、やっぱり記憶が無いのに馴れ馴れしくし過ぎた? キミ視点、僕は……ただの初めましての人だろうから、戸惑うよね」

「違います。ごめんなさい。……覚えてないのも、戸惑ってしまうのも、すみません」

「謝らないで、平気。また一から初めていけばいいだけなんだから」

「……すみません」


 先ほどから、スズネの思考はまともに稼働していなかった。考えようとすればするほど、頭の中が真っ白に染まっていく。

 初めて、水中で息ができないような感覚を知った。肺を満たす空気が重くて、今にも倒れてしまいたい気分だ。平生よりも遥かに小さくなった一歩が、前方を歩くメイとヨルとの距離をより大きいものにする。折角道案内をしてくれているメイには悪いが、スズネの歩みから察せる心情は、『そちらに行きたくない』だった。無論、そちらというのは試練の場所ではない。


「ヨルくん、ヨルくん、顔色悪いけど平気?」

「平気。なんか旅で色々疲れちゃって」

「そう? 試練より前に宿屋に行く? ゆっくり休まないと駄目だよ! 今のヨルくんは、大精霊が弱ってるのに伴って同じくらい弱ってるんだから。人間くらい繊細に扱わないと」

「そう……弱ってるのか、僕。でも大丈夫。結局試練を熟さないと解決にはならないしね」

「頑張るなぁ。分かった、じゃあ私、ヨルくんのお手伝い精一杯頑張るからね。無理しちゃ駄目だよ」


 スズネの目は、嫌でもヨルとメイが会話をする光景を捉えようとする。オウを見ることに躊躇いはある癖に、二人の会話だけは気になって仕方がなかった。

 約束ね、とにこやかに笑ったメイは、親しみを込めるようにその身体をヨルにぴたりとくっつける。先ほどから繋がれていた手がより一層密着する光景を見て、スズネはそのまま踵を返して何処かに走り出したい衝動に駆られた。

 もしそうしたら、ヨルがその手を払って追ってきてくれるかもしれない、だなんて、そんなことを期待している。そして、それが有り得ないことも理解している。その理解こそが、スズネに残された理性そのものであった。

 自覚できるほどに幼稚な衝動を押し殺すことでさえ、今のスズネには難しいことだ。何がそう思わせるのか、自分の内心の声に聞こえないフリを突き通しながら、スズネの一歩はまた小さくなる。そんな様子を隣で見守っていたオウは、泣きたくなるほど優しい声でスズネの鼓膜を撫でるのだ。


「二人が気になる?」

「……ごめんなさい」

「なんで謝るのさ、全く。大丈夫だよ。仲間に突然ああしてくっつく子がいたら驚くのは当然だし。でも許してやって。メイはずっと、ずーっとヨルのこと待ってたんだ。……勿論僕だって、キミのこと待ってたんだからね」


 会えて嬉しいよ、と繰り返されて、スズネは眉尻を下げる。微動だにしない心の声を聞く度に、罪悪感だけが募っていく。

 ついに沈黙を選び始めたスズネを、オウは苦笑を向けながら見守っていた。


「……断片的な記憶は、稀に見るんです。すぐにどんな声か忘れてしまうけれど、どんな会話をしたかは分かる。でも、顔も声も分からないから、いまいち……オウさんだっていう実感が湧かなくて」

「まあ、信じられないのも、分かるよ。そうだな、それを証明したら、また『オウくん』って呼んでくれる?」


 遠まわしな不信の申告を、オウは穏やかな声で率直に言葉に示した。スズネの内心はそれ以上ないほどに罪悪感で痛んだが、彼自身はそれを大した傷だとは思っていないらしい。

 次の瞬間、オウは一人分の距離が空いていたスズネとの距離を、足を踏み出して簡単に埋めてしまった。自分の手首を掴んだオウの手に、スズネの身体は容易く引き寄せられる。反射的に抵抗しそうになったのを、スズネは慌てて抑えた。これ以上失礼なことをして、オウのことを傷つけたくなかったのである。

 口から零れてしまった小さな悲鳴が聞こえたらしい。ふと前方の二人が振り向いた様子が、視界の隅で見える。

 それに全身の血が凍るような感覚がしたのは、何故だろう。そちらを見ているわけではないので、ヨルの顔がよく見えない。彼が今、どんな顔をしているのかが何よりも気になった。それでも、眼前のオウの顔から目を逸らしてしまったら、それが彼を傷つけてしまいそうで、恐ろしい。

 結果として、スズネができることは体を硬直させることだけであった。固まったスズネの耳元に、オウが潜めた声を落とす。恐らくは、スズネ以外には誰にも聞きとれない声量で、彼はこう囁いた。


「星、ちゃんと見に行こうね」

「えっ」

「二人きりで」


 空色の瞳が、愛おしそうに細くなる。その約束は、ここ最近ずっと夢に見ていた、細やかで確かな記憶だった。

 その約束は、他の誰も知らない。だって、二人きりで行こうと、彼が言いだしたのだ。


「……なんて。これは、スズネが覚えてないと何の証明にもならないんだけどさ」


 どうかな、と視線を投げられて、スズネは肩を揺らした。またすぐにでも涙が溢れてしまいそうな感覚を、必死に押し殺す。

 目の前で笑顔を浮かべる少年は、ただ、真っ直ぐにスズネを見つめるのだ。それだけは、記憶の中にいる彼と違わないと断言できる。


「……その約束は、覚えています。最近、よく、夢に見るので」

「ほんと? よかった。星のマナの影響かもしれないね。大精霊様に近付くことで、キミの記憶にも何らかの影響が出たのかもしれない」

「そう、ですね。ごめんなさい、今すぐに昔のままは、難しいんです。敬語も中々外せなくて、色々戸惑うことばかりで」


 でも、と声に出してから、後には戻れないことを悟った。言葉は、絞り出してしまったら最後、喉の奥には戻らない。


「……オウくんって呼べるように、努力しようと思います」

「そっか。ふふ、有難う。スズネ。嬉しいよ」


 有難う、と無邪気に笑うオウに、スズネは曖昧に頷く。会話の合間を縫ってちらりと前方に視線を向けたときには、既にヨルとメイは前を向いていた。

 メイとオウが加わってから、一度もヨルと目が合っていない。そんなことをいつも気にしていた訳ではないのに、どうして今日に限っては気になるのだろう。


「ねえスズネ、手繋いでもいい?」

「手、ですか?」

「そう。昔はよく繋いだから」


 どう? だなんて手を差し出されると、拒絶はしにくい。嫌悪感はない。ただひたすらに躊躇いがある。彼の顔に浮かんだ悪気のなさそうな笑顔が、余計にその感覚を加速させた。

 スズネが無言でその手の平を見つめていると、助け舟は意外なところからやってきた。襟首を唐突に掴まれ、後ろに思いきり引かれる。グッと締まった首が息苦しかったのはほんの一瞬のことで、オウとスズネの距離が離れた途端、その首元はすぐに開放された。

 手の主は、先ほどからずっと黙り込んでいたシンヤであった。顔を顰めたままのシンヤはスズネを一瞥することもなく、何処か苛々を募らせたような声を発する。


「あんまり困らせないで。コイツ、自己主張苦手なんだから」

「……シンヤ……」

「困ってた? 昔みたいにしたら記憶も早く戻るかと思ったんだけど」

「昔、昔って、馬鹿の一つ覚えじゃないんだから。セイとかいう奴もお前達も同じこと言うけど、俺達にはその昔が無いんだよ。無いものをああだったねこうだったねとか言われても知らないし、鬱陶しいだけ。コレが君をどう思うかなんて知らないけど、少なからず俺にとっては苛々することこの上ない光景だから早急に止めてほしい」


 元々鋭いシンヤの瞳は、一層鋭さと冷たさを増してオウを見据えていた。明らかな敵意を目の前に、オウは呆然とした様子で瞬きを繰り返す。

 身動きをとらないままのスズネの手を、コハルが静かに握った。まるでオウの手からスズネの手を隠すかのように。未だにコハルの顔は強張っていたが、彼女はスズネに対してぎこちなく笑顔を浮かべる。彼女とて、この状況に不安を感じずにはいられないだろう。それでもそうやって笑うのは、強がりでも何でもなく、慰めである。そのことは、スズネにも容易に察することができた。


「大丈夫だよ、スズネちゃん」

「……コハルちゃん」

「今は少し、混乱することがいっぱい起きてるだけ。少し深呼吸して、それから考えよう。一緒に」


 そんな優しい声が耳を撫でる。記憶の中をどれだけ漁っても聞こえてこないオウの声ではなく、目覚めた日からずっと聞きつづけていた少女の声だ。スズネにとっては彼女の声の方が余程聞き馴染みがあって、安心感を覚える。

 ヨルに似た垂れがちな瞳を細くして、コハルは笑う。彼女の手に力強く手を握られて、スズネは初めて落ち着いて息を吐くことができた。


「あり、がとう。コハルちゃん」

「一緒に歩こう。シンヤくんの後ろ! 何かあっても、きっとシンヤくんが守ってくれるよ。シンヤくん、スズネちゃんのお兄ちゃんだもん!」

「兄ではないけどどうしてもって頭を下げるなら、多少の護衛くらいはしてあげなくもない。兄ではないけど。どうしてもっていうなら」


 どうすんの、とシンヤの目が真っ直ぐにスズネを見据える。シンヤ、という人物の像から少しも離れない厳しい眼差しは、今回の場合、スズネの胸の内にとてつもない心強さを与えてくれた。

 シンヤの真っ直ぐで素直なところが好ましい。そう語ったセイの心情が、よく理解できる。スズネは、少し間を置いてから静かに口を開いた。


「少し疲れたの。お願い、シンヤ」

「どうしても?」

「どうしても」

「仕方ないな。コハルの次ぐらいに守ったげる」

「有難う。……お兄ちゃん」

「次その呼び方したら殴る。鳥肌立つんだよ、それ」


 辛辣な言葉でさえ、今のスズネにとっては心を落ち着ける要素であった。漸く硬くなっていた表情が解けて笑いが込み上げてくる。零れた笑い声を聞いて、安堵したように笑顔を零したコハルが、その手を強く握ってくれた。

 一人ではない、と思うことが、どれだけスズネを安心させてくれることか。

 シンヤの背中に隠れると、前方を歩く二人の姿も、オウの表情も見なくて済む。背中を丸めたスズネは、できるだけシンヤとコハルの側から離れないようにして、静かに歩みを進め始める。

 そこでは、スズネの一歩は決して小さくならなかった。

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