第50話 水のサメと予感
「スズネ、どうかしたの?」
人並みの中で振り向いたヨルは、スズネの手を力強く握りながら小首を傾げる。スズネが表情を曇らせているのを見た途端、彼は不思議そうな表情を一瞬で引き締めて警戒心を露わにする。
「やっぱりさっきの奴に何か言われた?」
「――何か、というか、私、ミカさんに名前を名乗ってないんです」
「……確かあの人、キミの名前呼んでたよね」
「だから不思議なんです。ミカさん、私のことを知っていたんでしょうか」
「まあ『神都の全てを守る』だなんて、明らかに胡散臭いし。ねえ、本当に何もされてない?」
距離を一歩分詰めて顔を覘きこんでくるヨルに、スズネは眉尻を下げながら頷いた。
彼には何もされていない。危うかったところを救ってもらい、世間話――というには少々危うい会話を繰り広げただけだ。
スズネはミカの一挙一動を、できるだけ鮮明に脳内に描いてみせた。その何処にも不自然な点はなく、彼の圧倒的な神秘的且つ美しい様子が色濃く反芻されるだけである。
ただ、所々で妙な発言を繰り返していた。彼は、マナに詳しくないと言ったスズネに対して『そうでしょうね』と発言したのである。単純だが、これはスズネの事情を知っているからこそ放たれた言葉である、と考えることができるだろう。
通行人は、道の真ん中で突然立ち止まった二人を邪魔そうに退けながら、最も露店が立ち並んでいる街の中心部へと進んでいく。すれ違いざまに投げかけられる鬱陶しいと言いたげな視線を一身に浴びて、スズネの思考は一度途切れた。無言の圧に押し出されるようにしながら、ヨルの手を引いて道の脇に逸れる。
「何もされていませんよ。……ヨルくん、気になることが沢山できてしまいました。シンヤさん達は今宿屋の前で待機してくださってるんですよね?」
「そうだね。僕がキミを見つけたらそこで合流することになってる。一応、シンヤもマナで捜索してくれてるらしいけど、僕のが見つけるのはやかったみたい」
「では、まず合流して、それから少し私の話を聞いてほしいんです。ミカさんから色々お話を聞いて……ジンさんのことも少し分かりました。彼に会う前に、皆に情報を共有しておきたいんです」
その提案に、ヨルは真剣な表情のまま頷いた。それじゃあ、と一歩を踏み出そうとしたそのとき、スズネの視界をきらりと光る何かが掠めた。
水のサメ。
それを視界に捉えた途端、スズネの口から「あ」という声が零れてしまう。水のサメといえば、シンヤと初めて出会った時にも見掛けたはずだ。全身を水で形成されているにも関わらず、その動きは本物そっくりで、水のサメは器用に尾鰭を揺らして空中を泳いでいく。水で透けた身体が日光を反射して、時折湖の水面の如く煌めいている。
恐らく、シンヤがスズネを探すために放ったものだ。スズネを探しているであろうサメは、移動手段として作りだされたサメよりも小さく、全長は腕一本分程度である。その小さなサメは、通行人の頭上を通り過ぎていく。
スズネは慌ててヨルと繋いでいないほうの腕を上に伸ばした。杖を握っており、それを掲げることは周囲に迷惑である、という認識はあったのだが、そうでもしなければサメがすぐにその場を通り過ぎてしまいそうだったのだ。周囲の通行人はスズネの挙動に一瞬迷惑そうに顔を顰めたが、その直後に空を泳ぐ水のサメを見て驚愕の表情を浮かべていた。通行人達は、スズネを責めるよりも水のサメに驚くことの方が重要のようだった。皆一様に驚愕する様に、良心が訴えた痛みが僅かに和らいだ。
サメは宙に掲げられた杖の存在で、漸くスズネとヨルに気が付いたようだった。身体を優雅に回転させると、そのまま真っ直ぐに二人の頭上まで迫ってくる。見つけた、と言わんばかりにスズネの頭上を一周して見せたサメを見て、スズネはほっと安堵の息を吐いた。
「わざわざマナを使わせてしまって、シンヤさんには謝らないといけませんね。怒られるでしょうか」
「表向きは。何だかんだ怒るより心配が先に来る奴だから、形だけだと思うけど」
「そうだといいんですけど。ヨルくんは本当にシンヤさんの理解者ですね」
「コハルほどじゃないよ」
「実はやっぱり仲良しなんじゃないですか?」
「馬鹿言わないの。ほら、早くシンヤのところに連れてってもらおう」
明らかに拗ねたフリをしたヨルが、頭上のサメに手を伸ばす。その手に頭をすり寄せたサメは、明らかに彼に懐いていた。
――シンヤが作りだしたものがヨルに懐いている、というのは、彼の深層心理を表しているのではないだろうか。樹の里でシンヤが出した水のクラゲも、ヨルに懐いていた。
やっぱり仲良しだ。声には出さなかったが、スズネはそう確信した。それを感じ取っているのか、居心地悪そうにしたヨルが、眉間に皺を寄せたままサメの頭を軽く撫でてやる。その優しい手付きを見守っていれば、何も言っていないのに「この子に罪はないから」と言い訳染みた言葉が飛んできた。
それから数秒も立たない内に、四方から六匹のサメが集まってきた。スズネ達を見つけたことで、何か特殊な信号でも放たれたのだろうか。或いは、シンヤの元に情報が瞬時に届き、二人の元に捜索用のサメを一気に集めたのかもしれない。
ヨルに撫でられていたサメは、それに気が付くと瞬時に彼から距離を取った。水のサメ達は、二人から離れた空中で一列に並んで輪を作る。やがてその輪は小さくなっていき、間隔が狭まり――やがて、七匹のサメの身体は一つになった。
移動用に作られるサメと同じ大きさになって、水のサメは再びヨルとスズネの頭上まで泳いでくる。その圧倒的な存在力は、いよいよ周囲の目を丸くすることとなった。あれだけ密集していた通行人は、水のサメを恐れるように立ち止まり、スズネとヨルから距離をとるように退く。二人の周辺には、丁度円を描いたような空間ができあがっていた。
「よし、これに乗ってコハル達のところに行こう」
「め、目立ちませんか?」
「まあそれなりに。でもほら、あれ」
ヨルが視線を飛ばした先には、腕と一体になった大きな翼を持つ精霊達が楽しげに宙を舞っている光景が広がっていた。遠くの空で鳥と同じように羽ばたく彼等は、ミカが言っていた、里を持たない精霊達の一種なのだろう。鳥のマナというのか、翼のマナと呼ぶのか。ともかく、宙を移動するのは水のサメだけではない。神都の空にはマナを使って移動する精霊たちが多々存在していた。また、露店の宣伝のためにマナを放っている精霊達も少なくはない。雑多と溢れかえっているマナの中では、この水のサメの存在感も霞む、と言いたいようだ。
スズネが「成程」と頷いたのを見届けて、ヨルは慣れた様子でサメの背に飛び乗った。その軽やかな動きは、怪我の存在を忘れさせるほど華麗である。動くのに問題はない程度には回復した、という朝の言葉は、どうやら偽りのないものだったらしい。
「今回は一匹しかいないから相乗りになっちゃうけど大丈夫?」
「あ、それは問題ないです。……でも、その、乗るときにヨルくんを蹴っちゃわないか心配で」
素直に心配を吐露すれば、ヨルはきょとんと目を丸くした後、吹き出す様にして笑った。その無邪気な笑い声に居た堪れなくなって、スズネは肩を竦める。スズネにとっては真剣な心配事だったというのに、ヨルはそれが可笑しくて堪らないらしい。
「笑わないでください、真剣なんですよ」
「ふふ、ごめん。変なこと気にするんだなと思って。平気だよ、僕」
「怪我させちゃったら大変じゃないですか!」
「分かった分かった。ほら、手伝ってあげる」
揶揄うような声にムッとしたスズネが一歩も譲らないでいると、心底可笑しいと言いたげに笑ったヨルが、静かに手を差し伸べた。自分に差し伸べられた手を取ることは、何ら躊躇うことではない。先ほどまで繋いでいた手である。
しかし、スズネはその手を見て身体の動きを止めた。
『大丈夫だよ。ほら、手伝ってあげるから』
鼓膜を撫でるような優しい声が脳内で再生された。これを聞くのは初めてではない。スズネが森で目覚めた日、草原で馬を見かけた際に思い出した記憶の断片だ。
優しい声であるということは分かる。しかし、思い出した直後に、その声がどんなものであったかはスズネの中から消えていくのだ。
確かなことは、スズネはこの言葉を投げかけられる直後も、先ほどのような心配事をしていたことと、この人物が酷く愛おしかったこと。
それから、この言葉を口にした人物が笑っていたこと。――今のヨルのように。
突然黙り込んだ上に硬直したスズネを見て、ヨルは瞬きを繰り返していた。差し出していた手を伸ばしたまま、彼は不思議そうに小首を傾げる。
「スズネ?」
「…………」
「スズネ。……スズネってば」
「……えっ、あっ、はい!」
「ねえ、大丈夫? ごめんね、不快にさせた?」
幾度か名前を呼ばれて、スズネは漸く記憶の断片から現実に帰ってきた。その頃にはヨルの表情から笑顔が消え失せており、代わりに心配するような表情が描かれていた。
下がった眉尻に申し訳なさを覚えたスズネは、慌ててヨルの手を握る。それから、急いで首を横に振った。
「ごめんなさい。今なんというか、記憶が蘇ってて、ぼーっとしちゃいました」
「今?」
「はい。昔、こうして手を引いてもらったことがあって。そのとき乗ったのは水のサメじゃなくて馬だったんですけど」
「そっか。びっくりした。引っ張るね」
「はい」
スズネが気分を害したわけではない、と知って、ヨルはその不安そうな表情を和らげる。そのまま、彼の細腕は見掛けよりずっと強い力でスズネを引き上げた。
サメの尾鰭とヨルに挟まれたスズネは、先ほどの声に縋るように必死に思考を巡らせる。しかし、記憶の断片は『彼』が口にした台詞以外の情報を持って完全に消えてしまった。それ以上の情報は望めそうにない。
「あの!」
その時、サメを慄くように退いた人混みの最前列に立っていた女性が、不意に右腕を上げた。緊張した面持ちで、彼女は言葉を継ぐ。
「湖の精霊の方ですか?」
「え? は、はい。そうです」
「やっぱり。頑張ってくださいね」
女性は、何を、とは語らなかった。しかし、彼女は胸の前で拳を作り、何かを応援する素振りを見せる。
スズネが小首を傾げながらも曖昧に頷けば、それっきり女性は口を閉ざしてしまった。スズネが何の応援かを尋ねようとした瞬間に、水のサメがゆっくりと宙を泳ぎ出す。草原の時ほどの速度は出ていなかったが、女性に質問をする暇などはなかった。スズネとヨルを乗せたサメは、あっという間にその場を離れてしまう。
――あの様子では、スズネの知り合いという訳ではなさそうだ。しかし、何かを知っているらしい。一体何を頑張れば良いのだろう。
頬に打ち付けられる風を感じながら、スズネは眉尻を下げる。その背後で、ヨルも不思議そうな声で言葉を紡いだ。
「何の応援だろうね」
「さあ……」
「湖の精霊に何かあるのかな。それも探ってみてもいいかもね。シンヤは嫌がるかもしれないけど」
「そうですね。情報を収集するに越したことはありません」
何の妨げもない空中を移動するのは、人並みに揉まれながら歩くよりも明らかに効率が良かった。通行人は空中を移動する水のサメに一律して驚愕の顔を見せていたが、瞬きをしている間に、それもすぐ遠くなっていく。全速力ではなくても、サメの移動性は非常に優れている。
スズネの長い黒髪が向かい風に煽られる。それを右手で押さえつけたスズネは、先ほどの記憶の断片に想いを馳せて、やがて呟いた。
「ヨルくん」
「何?」
「私、契約者がいたみたいなんです。今日夢で見ました。契約って、人間でいうところの結婚なんでしょう? 私の大事な人って、契約者だったんでしょうか」
「……どうだろう。その可能性は、否定しきれないと思うけど」
ヨルの声が僅かに低い。それに意味を見出せる程、スズネは彼のことを理解できていなかった。
スズネは目を伏せる。自分の足元で濁流のように過ぎていく人並みを眺めながら、小さく肩を丸めた。
「リンさんが長生きだったのは、大精霊と契約したから。……私は大精霊じゃ、ないでしょう? 私は、少なくても百年という時を生きている。人間はそんなに長生きしません。だから、もしかしたら、私の大事な人はもう」
死んでいるかもしれない。
その一言を口にできなかったのは、未だ希望を持っていたかったからだろう。
数秒の間、ヨルは沈黙を守っていた。気遣い故か、或いは掛ける言葉が見つからなかったのかもしれない。もしくは、彼自身の大事な人にもその可能性があると気付き、絶望した結果だったのかもしれない。
ともかく黙り込んだヨルは、無言でスズネの背中を擦った。それから、消え失せるような声で呟く。
「まだ決まったわけじゃないよ。そういう感覚ってだけで、契約と結婚は繋がってないし。もしかしたらキミの大事な人は人間じゃなくて――精霊だったかもしれない」
分からないけど、と付け足された言葉は、決して確信があるわけではないらしい。けれどヨルは、スズネが何かを言う前に、静かに言葉を付け足した。
「そうだったらいいなと思ってるよ。僕は」
「……そうですね」
誰にも正しい答えは分からない。
スズネは俯けた顔を上げて、口を閉ざした。それ以上、『彼』についての言及はするつもりはない。それ以上の会話を、ヨルが望んでいるようには思えなかったからである。
水のサメが一等力強く尾鰭を動かす。シンヤとコハルが待っている宿屋は、もうすぐそこまで迫っていた。
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