第49話 安堵の手


 精霊攫いのジン。

 その言葉を反芻したスズネは、白藍の瞳を大きく見開き、瞬かせた。

 ミカが口にした特徴から、彼――或いは彼女だろうか? 容姿も声も酷く中性的で分かりにくい――が探しているジンという人物が、スズネの知る『あの』ジンであることは間違いなさそうだ。しかし、脳内に浮かんだ本人の印象と、精霊攫いという言葉が結びつかない。

 その様子を見守っているミカは、ただ優しげに微笑むだけである。その空間に落ちた沈黙を振り払うように、スズネは小さく震えた声を喉から絞り出した。


「精霊、攫い、ですか」

「ご存じありませんか? 精霊を攫って自分のために利用する輩のことです」

「と、盗賊ってことですか?」

「精霊専門の盗賊といったところですね。彼らは食料品にも金品にも見向きもしません。ただ、精霊を捕らえ、尋問の末強引に自分と契約させたり、他者に売り渡されたり。最近、そういった被害報告が増えているのです」


 ミカは落ち着いた声でそう呟いた。長い黄金の睫毛が伏せられ、瞳に影を落とす。そこから垣間見える感情に底知れないものを感じて、スズネは思わず背筋を伸ばした。その場に漂う緊張感に背を撫でられているような気がしてならない。


「精霊たちにとって、契約は重要なこと。精霊を売り飛ばすことは当然として、契約の無理強いも当然赦されるべきことではありません」


 ミカの揺るがないそんな言葉に、スズネは肩を竦める。契約の重要性を、スズネは知らない。しかし、それを言及してしまえば、精霊にとって重要な知識が欠落していることが露見してしまう。

 質問を呑み込んだスズネは、それを口にする代わりに、脳内でとある一言を思い出していた。


『精霊にとって、契約って結構重要なことみたいで……例えるなら、人間の感覚でいう、結婚みたいな感じなんだって』


 コハルの声が脳内に響く。その言葉と同時に思い起こされるのは、スズネが真夜中に見ることになった悪夢のことだ。

 記憶の断片と似て、それは直ぐにスズネの脳内から薄れてしまう類のものだった。掠れた夢の内容を必死に思い起こしながら、スズネは眉間に皺を寄せる。

 夢の中には、今まで記憶の断片には確認できなかった、新たな人物がいた。――ような気がする。声の調子はまるで覚えていないが、あの口調は今まで思い起こしていた記憶のどこにも無かったはずだ。

 悪夢の中で、男性は契約者と呼ばれていた。そこから察するに、スズネには契約者がいたのだろう。そして、契約は、人間でいうところの結婚であるらしい。結婚に対する認識は、『好きな者同士が夫婦になること』である。夫婦になるにあたって、様々な責任が発生したり、二人の間に子供を授かったりするのだ。生涯に大きく関わる一大行事と言えるだろう。

 確かにいたはずの愛おしい人。その存在は、確かに記憶の断片の中にある。

――その契約者というのが、スズネが愛おしいと感じていた人なのだろうか?

 そこまで考えて、スズネは自分が不自然に黙り込んでいることに気が付いた。いつの間にか俯けていた顔を上げると、微笑みを継続しているミカと目が合った。怪訝な顔をするでも、不思議そうな顔をするでもなく、ただ全てを見通すような穏やかな笑顔に、スズネは思わず身じろぐ。透き通る宝石のように美しい金の瞳に、冷や汗を流すスズネの顔が映り込んでいた。


「何か考え事をなさっているようですね。大大丈夫ですか?」

「い、いえ。すみません、大丈夫です。ええと、私の――契約者について考えていて」

「契約者? 貴女に契約者はいないでしょう?」

「え?」

「――ああ、いや、いると言っても間違いではありませんね。ふふ、失礼いたしました」


 穏やかな声音で紡がれる言葉にスズネが首を傾げる。彼は何を言っているのだろう。スズネがその先を求めるように視線を投げても、ミカは決して言葉を継ぐことはなかった。

 ただ温和に微笑むミカに、待ちかねたスズネが口を開きかけたときである。催促の言葉が紡がれる前に、スズネから視線を外したミカが声を上げた。


「お迎えですよ、スズネさん」

「え?」

「スズネ!」


 鼓膜に飛び込んできた焦燥を浮かべる少年の声に、スズネが振り向く。細い路地の入口に、大きく息を切らしたヨルが立っていた。


「よ、ヨルくん」

「もう、心配したんだからね、スズネ。何処にもいないし、この人並みにやられて何処かで怪我したり倒れたりしてるんじゃないかって……すごく、もう、はあ……」


 普段から柔和な笑みを浮かべている印象が強い彼は、その時ばかりは笑っていなかった。壁に右手をつけて、言葉が途切れるほどに息を切らしている。スズネを見て心底安堵したような顔を浮かべたヨルは、スズネの後ろにミカの姿を確認すると、途端に表情を引き締めた。


「スズネ、この人は?」

「こんにちは。ボクはミカと言います。この神都の全てを守る者です」

「神都の全てを守る……?」


 怪訝そうな顔をしたヨルは、素早くスズネの前に移動した。スズネを庇うように腕を伸ばし、あからさまに警戒を露わにするヨルを目の前にしても、ミカは笑みを崩さなかった。機嫌を損ねるわけでも、慌てて弁明するわけでもない。何処までも冷静且つ穏やかな態度を一貫しているミカは、そのまま歌うように軽やかな声で言葉をなぞった。


「スズネさんが危うく非合法の植物を購入させられそうになっていたので、それを阻止させていただきました。この時期は人が多くなります。悲しいことに、それだけ悪人もこの地に集うのです。勿論、ボクも仕事を熟しますので、神都の御客人は守る所存ですが――大事な方なら、もう目を離さない方が良いですよ」

「……有難う、ございます。スズネ、大丈夫?」

「あ、はい、大丈夫です。お手間をかけさせてごめんなさい」


 ヨルの視線がスズネの頭部から爪先にかけてに向けられる。何処にも怪我や異常がないことを確認すると、ヨルはそこで初めてミカに頭を下げたのだった。ミカはそれを見通していたように頷く。


「精霊浚いにはお気をつけて。この神都に侵入を許してしまったようなので、いつ被害が出るとも限りません。――ボクは彼を追いますね。それでは、失礼致します。お二人はどうぞ、お祭りをお楽しみください」


 それでは、と丁重にお辞儀をしたミカは、ひらりと白い長衣を翻す。それと同時に彼の足元から青白い炎が燃え上がった。一瞬でミカの全身を包んだ炎が、周囲を強く照らし出す。熱気が空気を伝ってスズネの肌を撫でた。

 あまりの眩さに、スズネは思わず反射的に目を瞑る。数秒後、恐る恐ると瞳を開いた視界の先に、ミカの姿は無かった。

 忽然と消えた神秘的な少年は、決して人混みに紛れて消えたわけではなさそうだ。あの炎は、星のマナの一種だろうか?

 スズネがきょろきょろと周囲を見渡し始めた頃合いで、その隣に立っていたヨルが、大きく溜息を吐く。そこに込められているであろう疲労を、ヨルの顔色や息切れ、頬から首筋を伝っていく汗などで察したスズネは、次の瞬間、思考を放り投げて顔を真っ青にした。

 そうである。スズネはヨルの好意を断った末に迷子になったのだ。本来であればスズネが動いて合流するべきところだ。だというのに、ヨルはあの人波の中を移動してスズネを発見してくれた。移動することすら困難なあの環境で。

 その労力は彼の様子を見ていれば容易に汲み取ることができた。何せ、あの人波に流されたのは、スズネ本人なのだから。


「あ、あの、ヨルくん。その、ごめんなさい」

「はぐれたこと?」

「それも、そうです。あと、ヨルくんの……ご好意を、その、断ってしまって」


 申し訳なさのあまり声が震えた。小動物を連想させるような怯え方をするスズネを目の前に、ヨルは一瞬目を丸くする。それから、眉尻を下げて苦笑した。


「いいよ。見つかってよかった。怪我もないみたいだし。手は、まあ……僕とキミはシンヤとコハルみたいな関係ではないし、断られても当然かなって。嫌なこと提案しちゃってごめん」

「い、嫌だった訳ではないんです!」


 ヨルの控えめな謝罪を聞いて、スズネは咄嗟にそれを強く否定した。思うよりずっと強く、大きな声が出る。それが周囲の高く聳えた壁に反響して、より一層大きな音となって二人の鼓膜に突き刺さった。

 スズネの大声に驚いたらしいヨルは、その穏やかに輝く緑色の瞳を瞬かせた。その瞳をずっと見つめているのは気恥ずかしい。けれども、この胸の内だけは伝えなければならない。意を決したスズネは、衝動に突き動かされるまま、慌しく口を開いた。


「手を繋いだら、ヨルくんが私と……その、恋人なんじゃないかと、勘違いされると思ったんです。それは、申し訳なくて」

「申し訳ない?」

「だって相手が私じゃヨルくんに釣り合いませんし、それに、ヨルくんにはもう大事な人がいるんだから、私と手を繋いでいただくのは申し訳ないというか。迷惑をお掛けしてしまうと思ったんです。……すみません。余計に迷惑をかけてしまいました」


 話せば話すほど自分の責任が目についてしまう。肩を落としたスズネの目の前で、ヨルは心底意外そうな顔をしていた。小首を傾げたまま瞬きを繰り返している彼を、スズネは静かに見つめる。普段、余裕の滲む笑みを浮かべている彼の様子と比べて、今は何処となく幼い印象が強い。

 絶対に守る、と約束してくれた時に瞳に宿っていた、あの強かな光。普段から穏やかに笑う顔。一つ一つの仕草。優しさ。ヨルの持ち得るそれらは、分かりやすいほどに魅力的だ。

 誰か愛おしい人がいる、と語っていたあの声の柔らかさが、頭から離れない。普段から優しい彼が一等優しくなる相手は、他にいる。その人物がいないところで優しくされるのは、スズネにとっては気の引けることだった。

 スズネにも過去の愛おしい人がいる。彼にも、きっと誰よりも守りたい大事な人がいる。

 記憶喪失でその人達がいないからといって、ただの旅仲間にしか過ぎないスズネが、彼の優しさを無遠慮に味わうのは何かが可笑しい。そう思って仕方がないのだ。それは、ヨルにも、ヨルの愛する誰かにも、申し訳無い。


「……嫌なわけじゃなかったの?」

「い、嫌じゃないです。嫌なわけがないです。だって、ヨルくん相手なのに」

「僕相手だと嫌じゃないの?」

「ヨルくんは素敵な人です。初めて会ったときも、今も、私のことを見つけてくれて……いつも守ってくれる、すごい人です。そんな人相手に嫌だなんて思う訳がありません。そして、そんな人だからこそ、何一つ迷惑を掛けたくないんです」


 スズネは、羞恥で早口になってしまいそうになるのを抑えながら、そんな言葉を落とした。

 彼にはもう、十二分と言っていいほどに迷惑をかけている。これ以上の迷惑は自分が許せない。そんな気持ちが、余計な迷惑を生んでしまったのだが。

 眉尻が下がるのと同時に、何故か頬が熱くなった。彼に対して好意的であるのは認めるけれど、それを真っ直ぐな言葉を伝えるとなると、少し気恥ずかしい。その好意はきっと、仲間だとか友達だとかに対する気持ちと一緒のはずなのだが――どうにも、上手く言葉が纏まらない。

 頬の熱を誤魔化すように、スズネは静かに深々と頭を下げた。


「ヨルくん、ご迷惑をお掛けしてごめんなさい。次は、気を付けます。本当にごめんなさい」


 数拍の沈黙が落ちた。ヨルからの返答は、無い。

 呆れて物も言えないのだろうか。スズネが唇を強く結んだ刹那、ヨルの手がスズネの肩に触れる。咄嗟に肩を跳ねさせて顔を上げたスズネの視界には、僅かに頬を赤らめたヨルが、僅かに口角を上げている様子が映り込んだ。


「嫌じゃなかったんだね」

「……え、あ、はい」

「僕と恋人だって思われるのが恥ずかしかっただけ?」

「は、恥ずかしいというか、それも勿論ありますけど、あの、申し訳なくて。私なんかがヨルくんと釣り合うはずもないのは承知の上なんですけど、周りにはきっと、その辺りが汲み取ってもらえないので」

「キミはなんかじゃないよ。良かった、スズネに嫌がられたのかと思ってた」


 安心した、という一言を添えて、ヨルは頬を緩める。今までで一番安堵したような表情である。

 どうしてそんな顔をするのだろう。分からない。分からないなりに、頬が熱い。

 頬を紅潮させたまま硬直したスズネは、目の前で安堵の息を吐くヨルを静かに見守った。スズネが黙り込んでいることも、今の彼は気にならないらしい。

ヨルはそのまま、控えめにその手を差し出した。


「また迷子になったら困るから。変な意味じゃなくて、迷子防止。お互い、あの人波にもう一回揉まれるのは嫌でしょ?」

「で、でも、ヨルくん、いいんですか?」

「眠る時に肩を貸す仲でしょ。今更だよ。――キミが嫌じゃなければ、お手をどうぞ」


 揶揄うような声音の後に添えられた言葉は、まるでお伽噺に出てくる王子のようだった。遠慮がちな仕草が、気品あふれるものに見える。それとも、彼自身の雰囲気がそう見せているのだろうか。

 スズネは小さく肩を跳ねさせて、それからおずおずと手を差し出した。

 これで断っては同じ末路を辿るだけである、という予測と、変な意味ではないのに断り続けていたら逆に変な意識をしてしまう、という感情が沸いていたのである。

 ヨルが問題ないというのなら、それで良いのだろう。だって、変な意味はない。そう、これは、迷子防止なのだから。

 指先で確かめるようにヨルの手に触れると、彼は存外素早くスズネの手を摑まえた。人並みの圧に晒されても離れることはないだろう、と安心できる程度の力を込められて、スズネは己の全身に熱が巡るのを自覚した。

 迷子防止、という言葉が、脳内で何十回と繰り返された。

 変な意味はない。これは十割彼の善意で、優しさだ。

――だから、『勘違い』しては、いけない。


「行こう。コハル達は宿屋の前で待機してるから、そこに向かえば合流できると思う」

「は、はい。行きます」

「今度ははぐれないでね」

「ヨルくんの手を離さないようにしますね」

「うん、ずっと握ってて」


 さらりと告げられた言葉に、頷く代わりに手に力を込めた。それに満足そうにヨルが笑うものだから、スズネはそれ以上見ていられなくなって、思わず顔を背けてしまう。

 勘違いしてはいけない。その勘違いとは、何だろう。ただ、脳内はそればかりを叫ぶのだ。

 これは、迷子防止。変な意味はない。これは十割彼の善意で、優しさから生まれる行為。……きっとそれに甘えるのは、悪いことじゃない。

 勘違いなんてしない。ちゃんと弁えている。これは、そう。ヨルの優しさを甘んじて受け入れているだけ。

 誰に向けているかもわからない言い訳を心の中で繰り返す。自分の手を引いてゆっくりと歩き始めたヨルに合わせて、スズネも慌てて一歩を踏み出した。

 先ほどよりも顔が熱い。何故か高鳴る心臓の音を聞かないフリをして、スズネは神都の喧騒の海へと向かう。

 通行人の波は、想像よりもずっと早くに二人のことを迎え入れた。空気を振動させるほどの熱気が辺り一帯を包んでいる。ヨルに手を引かれるままに人並みの中を歩き始めたスズネは、ふと視界を掠めた純白の布に目を惹かれた。

 なんてことはない、ただの通行人が纏っている衣類が純白だったというだけのことだ。

 けれど、そのなんてことはない一瞬で、スズネは、あの路地で出会った少年――ミカの言葉を思い出した。


『お迎えですよ、スズネさん』


 穏和に笑った彼が紡いだこの言葉。脳内で蘇ったその声に、スズネは思わず首を傾げてしまう。

 だって、スズネは彼の前では名乗っていない。この言葉は、ヨルがスズネのことを呼ぶ前に投げられたはずだ。

 どうして彼は、知らないはずのスズネの名を知っていたのだろう?

 気付いてはいけないことに気が付いてしまったような気がする。思わず手に力が籠った。

 不思議そうな顔をして振り向いたヨルが、スズネの名を呼ぶ。その声に酷く安心感を覚えたのは、脳内で繰り返されるミカの声が、不穏なものに思えて仕方がなかったからだろう。

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