第42話 神都、到着

 目の前で揺れる長い黒髪は、いつも一つに結ばれていた。彼が動く度に揺れる髪の束を見て、スズネは首を傾げて尋ねる。


「髪解かないの?」

「邪魔だし。ていうか、解いたら君と髪型被るじゃん」

「片割れなんだからそれでもいいと思うけど……」

「その呼び方嫌って何十回言えば分かるの。学習して」


 彼の返答はいつも釣れなかった。素っ気ない言葉に頬を膨らましても、スズネの態度や感情には全く興味がないらしい。彼は明後日の方向を見るばかりである。そんな態度も一貫されていれば慣れるものだ。スズネは肩を竦めて、素足で湖の水面を蹴り上げた。

 辺りに飛び散った水飛沫が冷たくて気持ちいい。行儀が悪い、と彼は顔を顰めたが、彼の足癖の方が余程悪いことを、スズネは知っている。


「兄妹みたいなものなんだからいいじゃんって、何十回も言ったのに」

「嫌って何十回言ったと思ってんの」


 心底嫌そうに顔を顰めた黒髪の少年は、不満を露わにそう呟いた。そんなに不愉快そうにされるのは大変心外である。スズネは内心に募った感情を発散させるように、続けて水面を蹴った。

 黒髪が陽射しを浴びて艶めいている。長さも髪質も、スズネの髪とよく似ている。髪を解いてしまえば、後ろ姿で二人を判別することは難しい。前に一度間違われたことがあるのだが、それが相当嫌だったのだろう。動きにくいから、と理由を付けた上で、彼はその髪を一つ結びにしていた。そうするだけで随分と大人びて見えるのが羨ましくて、スズネも真似をしようとしたのだが、当然の様に真似をするなと一蹴された。


「そんなに私とお揃い嫌?」

「嫌」

「なんで……」

「見分けがつかないのって不便でしょ。この髪、切ろうかな」

「そこまで嫌がられるなんて、私は悲しいよ……お兄ちゃんなのに……」

「その呼び方が一番鳥肌立つからやめて」


 ピシャリと言い放たれた冷水のような言葉に、スズネはとうとう口を閉ざす他なくなった。スズネが黙り込めば、当然の様に少年も次の言葉を口にしない。大抵二人の間でやりとりをする場合は、スズネが声を掛けねばならなかった。それが必要な質問であるとき、或いは彼の気が向いてさえいれば、返答してもらえる。

 会話をするのにも彼の気分で左右される。不平等な力関係を感じつつ、それには決して逆らえない。

 彼の実力は本物だった。そして、そんな彼の戦いぶりを見るのは嫌いではなかったし、何よりも、スズネは彼のことを尊敬していた。『多少』冷たい態度を取られようと、決して問題はない。


「ねえ」

「なあに?」

「このままの髪と短いの、あの子はどっちが好きだと思う?」


 それに、時折こんな質問を投げかけてくることもある。そのときの胸中に広がる感情の大きさは、決して計り知れないものだ。それと比べてしまえば、普段スズネが心に追う傷など些細なものである。

 スズネはその顔に満面の笑みを浮かべて、「そうだなぁ」と考える。少年の眉間に酷く皺が寄っていたけれど、それはあくまで照れ隠しであるということを、スズネは知っていた。

 あの子はどっちが好きだろう。きっとどっちも素敵だよ、なんて言うんだろうな。

 そんな思考が脳裏を掠めた。

 その時のスズネがどう答えたかは分からない。足の冷ややかな水の感触も、少年の不機嫌そうな顔立ちも、少しずつ靄がかかって遠くなっていく。

――少年は、スズネの返答を待っていた。答えなくてはと思うのに、声がうまく出ない。


「……ねえ」


 不審そうな少年の声が、脳内に響く。




「……ねえ、ちょっと」

「……んん……?」

「いい加減起きてってば。本当に寝起き最悪だね、君」


 低い声に鼓膜を揺らされて、スズネは小さく呻いた。無遠慮に揺さぶられた肩に重たい瞼を開けば、そこには眉間に皺を寄せたシンヤの顔があった。左耳にだけかけられた艶のある黒髪は、うなじの辺りで途切れている。夢とは違う光景に、スズネは寝惚け目を擦りながら、静かに尋ねた。


「……シンヤさん、髪切りました……?」

「はあ? 何言ってんの?」


 眼前の表情に不審そうな色が濃くなる。それに傷つくような理性は、まだ覚醒しきっていない。何度もゆっくりと瞬きを繰り返す内に、夢に再び囚われそうになっていたスズネの耳元で、くすくすと鼓膜を撫でるような優しい笑い声が聞こえてきた。


「まだ眠いみたいだし、先に二人で見て回ってきたら? 僕ここにいるし」

「駄目。寝かすならせめて宿とってから。今は叩き起こさないと」

「可哀想じゃない?」

「可哀想じゃない」


 耳元の優し気な声と厳しい声のやりとりを聞いているうちに、スズネの意識は僅かに覚醒していく。ぼやけていた視界は徐々に定まっていき、周囲が喧騒に包まれていることに気が付いた。

 白藍の瞳が周囲を見渡す。いつの間にかスズネ荷台の中に乗っていた。隣には当然の様にヨルがいて、またもや彼の肩に凭れかかって眠っている。正面には顔を顰めているシンヤ、その隣には「おはよう」と微笑むコハルがいる。馬車の出入り口から覗ける景色に、既に草原の緑は見当たらない。

 煉瓦造りの大通りと、そこを忙しなく行き交っている数多の通行人。幾千も飛び交う会話の声と馬の嘶きに、スズネは寝起きの瞳を大きく見開いた。


「あの、ここは……」

「神都。到着したんだよ」

「……私……焚火を見てたはずじゃ……」

「君が炎見てるうちに寝たってポンコツ商人が言ってたけど?」


 何処か呆れた色を帯びたシンヤの言葉に、スズネは靄が掛かった昨晩の記憶を少しずつ掘り出していく。難しい顔をしたまま黙り込んだスズネの顔を見て、コハルは眉尻を下げながら呟いた。


「朝起きたらスズネちゃんが商人さんに抱き抱えられたまま寝てたから、びっくりしたんだよ。そんなに疲れてた?」

「……ジンさんに?」

「そう。条件破りだってヨルとシンヤくんに追い出されかけてたんだけど、商人さんはスズネちゃんが寄りかかって寝てきたから不可抗力だーって言ってた」


 反省したように肩を落としたコハルが、「やっぱり私が炎の番をするべきだったね」と言葉を付け足した。ごめんね、と告げられた謝罪に瞬きをしたスズネは、咄嗟に姿勢を正して叫んだ。


「ジンさんは!?」

「うわっ、何急に」

「ジンさんの姿が見当たりませんけど、彼は今どこに?」

「あの人は、神都につくなりお金だけ置いて何処かに行っちゃったよ。どうかしたの?」


 怪訝そうな顔をしたシンヤと、小首を傾げたヨルの姿を見比べて、スズネは唇をきつく結んだ。

 スズネの脳裏には、昨晩の記憶が鮮明に蘇っていた。ジンは不敵な笑みと謎めいた言葉をスズネに向けて、何かのマナを発動した。それが何であるかは分からないが、花の香りに包まれた途端、スズネは眠ってしまった。

 対象を眠らせるマナでも持っているのだろうか。あの騒ぎでこの三人が起きなかったことを考えると、ジンは予め三人全員に眠りのマナをかけていたのだろう。

 顔を蒼くしたスズネを見て、三人は一律して不思議そうな表情を浮かべている。神都の喧騒が酷く遠くの、別の世界から流れてくる雑音のように聞こえた。


「ジンさん、私が記憶喪失だってこと知ってたんです」

「……何?」

「神都についたら、神様か神官に記憶や使命のことを聞くといいって。情報収集しなかったら、最後の機会を失うとか、なんとか。……多分、ジンさんのマナだと思うんですけど、私、眠らされて……」


 有耶無耶になったのは、記憶が未だにぼんやりとしているからだった。しかし、大筋は間違っていないはずだ。スズネの言葉を聞いて表情を硬くしたシンヤが、その視線を馬車の外に向ける。

 川の流れのように絶え間なく移動し続ける人混みの中で、既に姿を消したジンを探すのは至難の業だろう。シンヤは鬱陶しそうに眉間に皺を寄せて、それから低い声で呟いた。


「とりあえず、宿をとる。そこで色々聞かせてもらうから話すこと纏めといて」

「あの商人、探す?」

「新米から情報聞いたらね。宿とったら君は治療に専念すること。あの商人探すのも食料確保も全部俺達の方でやるから」

「了解」


 手短なやりとりで、今後の方針が端的に決まっている。あくまで冷静なシンヤとヨルのやりとりを聞きながら、スズネは震える手を胸元で抱きしめた。

 体の何処にも異常はない。他の三人も同様、体の調子は何処も悪くなさそうだ。

 ただ情報収集をしろと忠告した上で、眠らせただけ。しかし、その行動はどうにも不審である。

 何故そんなことをする必要があったのかは、全く以て理解ができない。何かを掴む前に忽然と姿を消してしまったジンの笑い声が脳裏に響いて、スズネは僅かに顔を歪める。

 自分をそれ以上後悔させるな、と、彼は言った。その言葉を思い出す度、心臓が嫌に速くなる。彼は、スズネ本人も知らない『何か』を知っている。そんな予感がしてならなかった。

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