第41話 花の香りに包まれて


 確信を持った一言だった。

 スズネはその言葉に己の呼吸が止まるのを自覚する。一気に跳ね上がった鼓動の速度に伴うように、僅かに手が震える。ジンの黒い瞳が真っ直ぐに自分を見据えて、細められる。たったそれだけの動作で妙な緊迫感を背負うことになったスズネは、知らずのうちに背筋を伸ばしながら杖を強く握りしめた。


「なんですか、急に。記憶喪失?」

「ええ」

「冗談、ですか?」

「まさか! 貴女が記憶喪失なのは見てれば分かります。神都の知識がない精霊なんて可笑しいですから」


 ジンの顔には相変わらず普段と変わらぬ快活な笑みが浮かんでいる。今はそれが、酷く恐ろしい。

 決して明かされないはずのスズネの秘密を、ジンが握っている。これは知られてはいけない情報だ。盗賊、或いは樹の里に情報を渡されてしまえば、スズネだけではなく他の三人にも危険が及ぶことになる。


「神都の知識がないなんて、そんな……」

「貴女のあの反応は明らかに可笑しい。シンヤさんも小さく動揺してましたし。ああ、ヨルさんの助け舟は上手かったですよ。嘘の中に真実を混ぜるっていうの、効くんですよね。スズネさんが人が死ぬところを見て衝撃を受けたっていう確かな事実と、神都を知ってるって嘘、混ぜると境界線が分からなくなりますから」

「……何のお話ですか」

「僕、一応商人なので、人の感情には結構敏いんですよね」


 驚きました? と、些細な悪戯を仕掛けた子供のように無邪気な声音でジンは尋ねてきた。それに微笑みを返せるほどの余裕は、既にスズネの中には残っていない。

 焚火がパチンと音を立てた。風で消えかけていた炎は、ジンのマナを得て先ほどよりも激しく燃え盛っている。肌の表面を撫でる熱量が増したせいだろうか。スズネは、直ぐにでもここから立ち去りたい衝動に駆られていた。


「別に、心配しなくてもどこかに情報を漏らそうだなんて考えてませんよ。そんなに怯えた顔をしないで。追われているんでしょう? 弱みを握ろうとしてるわけじゃありません」

「……なんでそんなこと」

「余計な詮索はするなって、詮索されちゃ困ることがあるから出す条件じゃないですか。それに、誰にも情報を漏らさないことを約束させたり、マナの反応を気にしたり、これらはどう見ても追われている側の動きだ。僕は好奇心が旺盛でして、こういうのは気になる質なんですよ。でも、シンヤさんもヨルさんも口が堅そうだし、何より僕のことを馬車から追い出しかねない。そこで、比較的優しそうなコハルさんやスズネさんに接触を試みたという訳です。これで貴女の聞きたいことは答えられたかな?」


 にこやかな表情を見ていられない。スズネは拳を握りしめて、人当たりの良さそうな笑顔を浮かべ続けるジンから静かに目を逸らした。焚火の明かりに退けられた暗闇が遠くに見える。荷台から起きてくる誰かの気配はない。

――今の言葉を、端的に噛み砕くなら。シンヤやヨルと比べて、コハルとスズネが舐められているということだ。

 スズネは思わず数歩後退する。思うよりずっと完璧なジンの観察眼に晒され続けていると、心の中を全て見通されてしまうような気がして恐ろしかった。ジンはその数歩を生めようとはせず、焚火の前で静かに立ち尽くしている。


「そんなこと聞いて、明らかにして、どうしたいんですか」

「好奇心を満たしたいだけですよ」

「好奇心は猫を殺すって言葉があるって、シンヤさんが言ってました」

「そうですか。僕は猫じゃないものであまり関係のなさそうな言葉ですね」


 スズネの言葉をひらりとかわしたジンは、炎の先の揺らめきを見つめているようだった。今、彼がその胸の内でどんな感情を浮かべているのか、全く以て分からない。煙のように掴み所のないジンは、そのまま何でもないことのように言葉を継いだ。


「いや、少し助言してあげようと思っただけなのに、そんなに怯えられるとは心外です」

「……助言?」

「そう。神都はこの大陸の中心部に当たる都なので、色んな情報が集まるんですよ。記憶喪失なら、自分達のことについて色々調べるといいですよ」

「調べるって……私達の記憶が何処かに記録されてるわけでもないのに」

「全てを知る全知全能の存在なら、知っているかもしれませんよ?」


 何処か挑発的な色を含んだジンの声音に、スズネが顔を上げる。彼はニンマリと口角を上げて、確かめるような言葉を紡いだ。


「貴女に、自分の過去と課された使命、さらに、乗り越えなければならない壁を知る勇気があればの話ですけどね」

「全知全能の存在って何ですか?」

「この世の理と現象を全て熟知した存在。個人の記憶すらも把握している存在――そんなの、『神』に決まってるじゃないですか!」


 ジンはその両腕を広げて、高らかに宣言した。その表情は愉悦の混じった笑みである。

 わざとらしい声音は演技かかっているようにも聞こえた。彼が何処まで本心で語っているのかは、スズネには推し量ることのできない領域だ。

 また一歩後退したスズネを見て、ジンは堪え切れなくなったように笑い声を零す。彼の足元で轟々と燃える焚火は、その勢いを殺すことがない。あの炎は、まるで今のジンの態度そのものだ。


「神都に向かったら、神か、或いはその契約者である神官に尋ねるといいですよ。自分達が今後記憶を取り戻すためにどうすればいいか」

「……どうして貴方がそんなことを気にするんですか?」

「好奇心旺盛な質でして」

「私、シンヤさんに怒られるのは嫌なので、ジンさんにこうして色々探られたことも、なんだかちょっと怪しくて信用できないってことも、コハルちゃんに手を出そうとしてたってことも、全部話しますよ」

「おや、存外お優しくない。特に最後の密告をされたら僕は殺されてしまうのですが。もしかして、手を下すのが自分でなければそれでもいいという考えをお持ちですか?」

「仲間の中で情報を共有することは何も間違ってない、と思いますけど」

「その辺りの認識はしっかりしてるんですね。結構なことだと思います」


 警戒を滲ませたスズネの声を聞いても尚、ジンは愉快そうな声音を潜めることはなかった。唇をきつく結んだスズネを見て、ジンは静かに口元に微笑みを携える。

 背筋を這いあがる緊張感は、未だ解れない。確かに人の形をしているはずなのに、自分と対峙しているのは人ならざる何者かであるような気がしてならなかった。

 ジンはその黒い瞳を三日月形にして、まるであやすような囁き声を零した。


「困ります。僕はどうしても神都に行かねばならないので」

「――なんで神都に行くのが危うくなるような発言しかしないんですか」

「我慢できない質なんですよ。さて、貴女の唇を塞がねばなりませんね」

「ち、近づいてこないでください。一歩でも近づいたら今からでも大声を出して皆のことを起こします」

「おや、随分と嫌われたものですね? なんだかちょっと傷つきますが――いいでしょう。大声を出したければ出してもいいですよ、明日の朝まで、皆さん絶対に起きませんから」


 妙に自信に満ちた言葉で鼓膜を撫でられる。スズネが目を見開くのと同時に、ジンは愉快そうに笑い声を落とした。炎の弾ける音と風の音以外何も聞こえない静寂な夜に馴染まないその笑い声は、異音であるように感じる。

 スズネが慌てて荷台を確認する。毛布に包まれたままの三人は、未だに穏やかに眠っているようだった。

 ジンのマナは昼を呼んだのかと思うほどに周囲を明るく照らし出した。草原狼を追い払うというには派手すぎるマナである。ジンが目を覚ますだけで釣られて目覚めるシンヤ達が、あの騒がしさの中で眠り続けているというのは、よく考えれば酷い違和感を持ち合わせていた。


「シンヤさん、ヨルくん! コハルちゃん!」


 スズネの呼び声に、誰も反応を示さない。ひやりとしたものが胸に流れてくるのと同時に、スズネは咄嗟にジンを睨み付けた。


「三人に何をしたんですか!?」

「変なことは何も」

「嘘。マナですか? それとも、無光石に何か仕込んであったんですか? 答えてください!」

「おお、スズネさんに凄まれるとは。無光石に関しては本当に僕の善意の代物なので疑わないでほしいですね。ちょーっとマナで眠らせただけです。何、お疲れのようなので少し休息の手助けをしたまでのこと。心配せずとも、朝がくれば自然に目を覚ましますから」


 まるで無知な子供に大事な教えをする大人のような声音であった。この状況下で、その態度は酷く神経を逆撫でする。スズネが仕込み杖の刃を抜こうとしたところで、その動きを制するように、ジンがパチンと指を鳴らしてみせた。


「これ以上貴女に睨まれていると僕の心が傷つきます。そろそろお休みいただきましょうか。伝えたいことは伝えましたし」

「何を……」

「おやすみなさい、スズネさん。貴女が目を覚ます頃には神都についている頃合いでしょう。自分の記憶と使命を取り戻したいのなら、情報を集めることをお忘れなく。それを放棄した場合、与えた『最後の機会』を捨てる選択をしたと受け取ります」


 一方的な言葉を投げかけて、それっきりジンは口を噤んでしまった。

 聞きたいことはまだ山ほどある。スズネが開きかけていた唇を閉ざしたのは、ジンが翳した手の平からマナの閃光が溢れた故だった。

 突然の光に目を刺されて咄嗟に瞼を下ろしたスズネは、次の瞬間、自分の鼻孔を甘い花の香りが掠めたことに気が付く。その匂いを嗅いだ瞬間に、体内から抗いがたい睡魔が襲い掛かってきた。


「自分をそれ以上後悔させないほうがいい」


 ジンの言葉が鼓膜を撫でる。それを聞いた直後、スズネの全身からは急激に力が抜けていった。前に倒れこんだスズネの体を、誰かが静かに抱き留める。

 甘い香りが漂っている。嫌な匂いではないのに、眠りに落ちる最後の瞬間まで、スズネの胸の内に広がっているのは、多大な恐怖と不安感であった。

 スズネは、花に香りに包まれながら、静かに意識を手放した。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る