第21話 後悔を呼ぶ弓矢

 リンの言葉に、スズネは少しの間硬直していた。数拍の逡巡がその場に沈黙を齎すのが、無言の肯定をしているようで、スズネの冷や汗が止まらない。

 リンの右手首で仄かに光っている石は、スズネも一度見かけたことがある。盗賊の主導者も同じように手首につけていたものだ。精霊に反応して光る石――精霊石と呼ばれていたはずだ。

 この場には精霊が二人もいるのだから、精霊石が光るのは当然である。しかし、彼女は先ほどまでシンヤと共にいたのだ。その間もずっと精霊石は反応していたはずだから、それが光っているからなんて理由で戻ってくるはずがない。彼女自身も「マナの反応があったから戻ってきた」と発言した。つまり、あの精霊石というものはマナにも反応を示すのだろう。

 リンはスズネを無言で凝視していた。スズネの言葉を待っているかのように。

背筋に湧いたじっとりとした感触から逃れるように背筋を伸ばす。それから、スズネは小さく首を横に振った。


「いえ。私は今ここにきたばかりなので、御二人の会話は聞いていません」


 声の震えを必死に押し殺す。嘘を気取られぬように拳を握るのと、リンの瞳が細くなるのは、殆ど同時だった。

 精霊石は、恐らくずっと光っていただろう。けれども、それはシンヤという存在が隠してくれる。スズネの尾行は、精霊石の反応では暴かれないはずだ。


「では、何か御用でしたか?」

「御用、というか」

「何がご理由があるからここにいらしたのですよね。何なりとお申し付けください」


 とても穏やかな声音だったが、その問いかけはスズネの曖昧な答えを許さないと明言していた。リンの静かな眼差しを受けて、スズネが小さく息を呑む。次の言葉が白くなりかけたところで、思いがけない助け舟はやってきた。


「コハルだよ」


 シンヤの声である。スズネが目を見開いてそちらに視線を移せば、彼はいつも通りの面倒くさそうな顔をしていた。その視線は、決してスズネを向いていない。


「……コハル様?」

「そう。コハルに頼まれてきたところを俺が不審者と勘違いしてマナを使った。君の精霊石が感知したマナ反応はそれ」

「何故コハル様に頼まれてスズネ様がここにやってくるのですか?」

「それを聞いてたところ。まあ、大方予測はつくけどね」


 リンの訝しんだ声とシンヤの視線が同時に飛んでくる。スズネを一瞥したシンヤの眼差しを受けて、スズネが思い浮かべたものは、コハルの疑念に満ちた一言だった。


「――コハルさんが、リンさんとシンヤさんが仲良しで、何を話したのか聞いても教えてくれないから、浮気をしているんじゃないかと不安がっていて。帰りが少し遅かったのもあって、心配だから見てきてほしいとお願いされたんです。自分で行って、もし本当に『何か』あったらショックだし、ヨルさんだと殴りかかりそうになるだろうから、一番無難に済ませられる私に頼みたいと言われました」


 シンヤの意図は、恐らくこうだ。息をするように出てきた嘘は、思うよりずっと分かりやすく、そしてあり得そうな内容だった。

 それを聞いたリンは細めていた目を開く。それまで感情の突起を全く見せていなかった彼女は、初めて僅かに慌てたような顔をして、口元に左手を当てた。手の遮りが無くなって、精霊石の光がさらに強くなったように感じられる。


「どうしましょう」

「え?」

「コハル様にそのような不安を抱かせてしまうとは、一生の不覚です。ああ、どうしたら償えるでしょうか……シンヤ様、これからコハル様の元に共に向かいますか? 何もないと説明すれば、少しは不安を取り除くことができるかしら」

「嫌だし断固拒否。それこそ何かあるって言ってるようなものだし。ないでしょ、何も」

「そうですね。誓って何もありませんし、よく考えれば仰る通りです。ああでも、そしたら私はどうすればいいのでしょう」


 彼女の懺悔及び後悔の言葉はその後も滔々と流れ続けた。絶え間なく紡がれ続けるリンの声に、スズネは音を押し殺しながら息を吐く。どうやら咄嗟の嘘を信じてくれたらしい。否、事実コハルは疑いを持っていたので、全てが嘘な訳ではないけれど。

 リンは眉尻を僅かに下げる。図書館の方へ一歩踏み出したかと思えば、今度は逆方向に足を踏みだして、再び図書館の方へ。動揺しているのか、そんな挙動を繰り返すリンの瞳からは、既にスズネを試すような光が消えていた。

 スズネは胸を撫で下ろして、感謝の意を込めてシンヤに視線を送った。有難うございます、と口を動かして微笑むと、瞬時に目を逸らされた。それがリンに怪しまれないための行動だったのか、純粋に感謝を厭われたのか、どちらなのかによってスズネの心に大きな傷ができる。前者であることを祈りながら、スズネは未だに静かながらに取り乱しているリンに声をかけた。


「あの、私からちゃんと誤解だって説明します。御二人がそういう関係になるような人ではないのが、今のやりとりだけでも分かりますから」

「宜しいのですか? 有難うございます、スズネ様」


 スズネの申し出に、彼女の美麗な顔立ちに安堵が浮かぶ。彼女が心底精霊に誠実であることが、そんな些細な表情からも伝わってきた。

 嘘を吐いたことが多少心苦しいが、尾行のことを言うわけにもいかない。ヨルやコハルにすら内容を明かしていない話を、昨日この里に来たばかりのスズネが聞いたと知れば、彼女がそれをよく思わないのは明らかなことだ。誰かに狙われている今、里の代表であるリンの心象を損なうことは避けたかった。


「本当に、スズネ様。有難うござ――」


 リンが二度目の感謝の言葉を言いかけたその時だ。彼女の表情からは柔らかさが消え失せ、代わりに浮かんだ驚愕の色がスズネの目に焼き付く。


「スズネ様!」


 荒げられた声はスズネの鼓膜を劈いた。リンらしからぬ大声に肩を跳ねさせた直後、スズネの体は彼女の突進によってその場から大きく弾かれる。

 鈍い衝撃がした。突進によって重心を崩したスズネは、地面に転がる。訳も分からず顔を上げると、そこには、顔を歪めたリンの姿があった。その右腕には深々と矢が刺さっている。リンが立っているのは、丁度、先ほどまでスズネが立っていた位置だった。


「り、リンさ……」

「そこにいるのは誰!」


 呆然としたスズネの声を、リンの鋭い声が遮った。彼女は険しい表情で、矢が飛んできたであろう方向を睨んでいる。――そこには、黒い外套で全身を隠した誰かが、木の幹から半身を出して矢を構えているという光景が広がっていた。

 外套には頭巾が縫い付けられており、その人物はそれを深く被っていた。黒い布に遮られ、顔は確認することができない。

 リンの声に反応したのだろうか。三人の視線が向けられると同時に、外套を着こんだ人物はその身を翻してその場を去ろうとする。


「シンヤ様!」

「分かってる」


 険しい顔のシンヤが手を翳してマナを発動する体制に入った途端、外套の人物はその足を止め、再び弓を構えた。しかも、今度は二本同時に弓矢を飛ばす構えである。

 相当弓を扱い慣れている人物なのか、シンヤがマナで攻撃するよりも先に、弓矢が二本、彼の腕目掛けて飛んできた。放たれた地点からシンヤの眼前までの距離を、弓矢はあっという間に詰める。シンヤが横に飛び退いて避けると、今度こそ外套の人物はその場から立ち去っていった。

 向かう先は大通りである。決して人通りが少なくない場所だ。誰かに紛れるには丁度良い場所かもしれないが、あの衣服と武器はあまりにも目立ち過ぎる。


「俺が追う。新米はリンの手当てと双子を呼んで状況説明」

「は、はい!」

「余裕があればヨルをこっちによこして」


 シンヤは簡潔な指示を残してその場を走り出す。リンは矢を受けた痛みでか、その場にしゃがみ込んでいた。しかし、そんな反応とは裏腹に、彼女は自ら乱暴に矢を引き抜いて、腕を力強く抑えた。


「私は問題御座いません。ヨル様とコハル様を呼んで、それからあの外套の人物を追ってください」

「でも」

「この程度の怪我なら平気です。それより、里内に貴女を狙う者がいるということが問題です。スズネ様、どうぞヨル様とコハル様を呼んで、あの者を捕まえてください。図書館には応急手当ての道具もありますから、マツにも事情を話していただければ、こちらはそれで事足ります。場所は井戸の前と言えば通じますから」


 お願いします、と頭を下げられて、スズネは言葉を失う。自分を庇って矢を受けた彼女を放置することなどできない。しかし、あの外套の人物こそが、昨晩スズネを狙っていた犯人なのだろう。この機会を逃せば、スズネは再び犯人に狙われることになる。

 彼女の右腕はぴくりとも動かない。しかし、リンは「平気です」と主張を崩さなかった。

 このやりとりは不毛である。リンの主張が揺らがないことを悟って、スズネは断腸の思いでその場から立ち上がった。


「すぐに呼んできます!」

「お願い致します。どうかお気をつけて」


 リンに見送られて、スズネは地面を力強く蹴り上げた。

 突進で自分を庇った彼女の姿を思い浮かべながら、スズネは図書館までの道のりを急いで駆け抜ける。自分を狙う誰かの姿が脳裏にちらつく。顔は決して見えない誰かが明確な殺意をついに形にしたことが、とても恐ろしいことに感じられる。

 でも、スズネにとって一番怖いのは、それで傷ついたのが自分ではなく他者だったという点だ。

 リンの腕がもう二度と動かなくなったら、傷が消えなかったら、どうすればいいのだろう。スズネの心臓が激しく存在を主張することすら、今は煩わしい。

 勝手な好奇心で動かなければ良かった。ただの憶測に過ぎないのだから、大人しく図書館で待っていればよかった。

 後悔ばかりが渦巻く中で、図書館までの道のりを走る。今のスズネにとっては、それが酷く長い距離に感じられた。

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