第19話 盗み聞きの井戸

 リンとシンヤは、何処かを目指しているようだった。しかし、その移動に大通りは使わない。大通りを外れた小道は当然人数が少なく、静かだ。呼吸音を一つ立てようものなら、即座に気配を気取られてしまいそうで――特にシンヤは戦闘の達人なので、尚更――スズネは必死に呼吸を押し殺した。

 石畳の小道を歩く二人は、道中決して何も話さなかった。二人分の足音と、時折通りかかる里の人間がたてる音や声以外はこの道に存在していない。異様に静かだ。

 この小道は屋敷とは違う方向に伸びていた。民家がちらほら存在しているが、大通り付近には家が連なっていたため、この辺りは閑散としているように感じる。建物が少ない分、代わりのように木が生えていたので、スズネはその幹に隠れながら二人を尾行していた。

 一体何処に向かうつもりなのだろう。わざわざ図書館からシンヤを呼び出した上に人目を避けることには、必ず何かの意味があるはずだ。

 脳裏を過る理由としては、リンがシンヤに恨みを抱いているかもしれない、という仮説だが――もしリンが恨みを晴らすために彼を呼びだしたのだとしたら、大変なことが起こってしまうかもしれない。

 もしそうなったら、どうしよう。

 スズネの視線が、片手に握った仕込み杖に落ちる。どうにかできるとは思わないが、いないよりはマシだと思いたい。杖を力強く握り直したスズネは、見つからないように細心の注意を払いながら、樹の幹から僅かに目を覗かせる。

 二人は、木製の井戸の前でその足取りを止めた。


「今朝、シンヤ様からマナを受け取り損ねましたので。回収しに参りました」

「ああ、そういえばそうだね。新人の面倒見てたから忘れてたよ」

「私が確認を怠ったせいでお手数をおかけしてすみません。ここからも繋がっていますので、今お願いしてもよろしいですか?」

「構わないよ。そういう約束だしね」


 リンとシンヤの会話は、酷く細やかな声で行われた。ここが人気のない場所だからこそ、辛うじてスズネの鼓膜にその言葉が届く。少しでも呼吸を押し殺すことを止めれば、どちらの声も自分の呼吸音に掻き消されてしまいそうだった。

 シンヤは軽く了承すると、その手を井戸の上に翳した。黒い手袋を装着した手の平から緩やかに光が漏れだし、彼のマナが発生する。シンヤによって生み出された巨大な渦は、直接井戸の中へと落とされた。

 水面に水が落ちる音がする。一瞬、滝のように激しい音が聞こえたが、それはすぐに止んだ。シンヤのマナが全て落ちたからだろう。


「ご協力、有難うございます」

「別に構わないけど。これでコハルの傷も良くなる?」

「はい。何もしないよりは、確実に」

「そう。ならよかった」


 シンヤの声は、通常よりも僅かながらに穏やかだった。彼は暫く井戸を覗き込んでいたが、リンに「落ちてしまいますよ」と諭されて姿勢を正す。子ども扱いしないで、と口にしたものの、ヨルにするような鋭い反論の口調ではなかった。


「時に、シンヤ様。何か変わったことは御座いませんか?」

「変わった事って?」

「スズネ様がいらっしゃったので、そのことで何か変化はありませんか? ヨル様やコハル様、勿論、貴方自身にも」


 元々落ち着いているリンの声が、少し低くなる。探りを入れるような言葉を投げかけられて、シンヤは訝し気な顔をしてリンと向き合った。


「それは体調面の話? それとも精神? 後は……何かな、記憶とか?」

「全てにおいての話です。精霊様をお守りすることが、私共の使命でございますので。何か変化があれば、それを把握した上で解決に全力を注ぐことが私の生き方です」

「熱心なことだね。俺は特に変化なし。コハルは新しい知り合いができて嬉しいみたいだよ」

「ヨル様は?」

「変にきょろきょろしてる。明らかに何かを警戒してる。ただ、それは新米に対して発揮されてるものじゃない。もっと別の何かを気にしてる」

「……スズネ様を警戒しているのではないのですか?」

「警戒してる奴に無防備に背中を向ける奴じゃない。新米を油断させるための罠だっていうなら俺に知らせてくる。でも、今回はそれがない。だから、ヨルはアレを警戒してない」


 シンヤは静かな口調で、しかし確信を滲ませて断言した。リンが「左様ですか」と静かに引き下がろうとするのを、今度はシンヤが止める。


「それとも、君はアレに対して思うことがあるの?」

「……いえ。とんでもございません。御三方にお変わりがないのでしたら、私からは言うことは御座いません。私の喜びは、大精霊様のお役に立つこと。その中には精霊様のお手伝いをさせていただくことも、当然含まれます。スズネ様がこの里で記憶を取り戻せる手伝いができるのなら、この上なく幸せです」

「ふうん。相変わらず熱狂的だよね。少し親近感を覚えるよ。相手は違うけど」

「ええ、本当に」


 淡々とした声で行われたやりとりは、そこで終止符が打たれた。仕事がありますので、というリンの一言によって会話が切り上げられた。屋敷へと向かって淀みない足取りで去っていくリンの背中を見つめて、スズネはホッと息を吐く。

 恨みを晴らすどころか、シンヤとの会話ということを考慮すると、随分と穏やかな会話だった。言い合いに発展せず、かといって一方的に罵倒されるでもなく、対等に話し合ってみせた。それが如何にすごいことかは、彼の性格の一端を昨日と今日で知ったスズネに良く伝わってくる。

 リンとシンヤの間で築かれた信頼関係のようなものを垣間見た気がした。一瞬脳裏を過ったのは、コハルの「浮気……?」という疑念に満ちた声だったが、シンヤのコハルへの愛情は疑いようがない。

 リンとシンヤの間に築かれているのは恋愛とは程遠い、しかし他者とは近いところに居る――何処となく、仕事仲間という言葉が似合うような、そんな関係に思えた。

 シンヤは暫く井戸の前に立ち尽くしていた。会話は終わったのに、彼はどうして図書館に戻らないのだろう。不思議に思って樹の影から凝視していると、シンヤが盛大に溜息を吐く。面倒くさそうに髪を耳にかけながら、シンヤは先ほどよりも大きな声をその場に落とした。


「尾行っていうのは、本来目的の場面を見届けたらすぐ退避するものなんだよ。この場合は特にそうするべき。何でか分かる? そうしないと帰る機会を見失って、君の尾行がすぐバレるからだよ」


 まるで誰かに話しかけているかのような言葉だった。スズネはぱちくりと瞬きをして周囲を見渡すも、シンヤ以外の人影は特に見当たらない。リンはとっくに屋敷に続く道に入り、その場から姿を消している。

 彼が話しているのは誰だろう。その場を風が吹き抜けていく一瞬、彼は酷く呆れたように、もう一度わざとらしく溜息をついて、それから確かにスズネの方を見た。スズネは慌てて頭を引っ込める。

 目が合った気がするが、一瞬だけなら大丈夫――などと自分に言い聞かせた瞬間に、シンヤは追い打ちの言葉を投げかけた。


「君だよ、君。そこの木の陰に隠れてる黒髪長髪の仕込み杖持った盗み聞き精霊の君」


 木の陰に隠れていて、黒い髪が長くて、仕込み杖を持った、盗み聞きをしている精霊。

 そんなに条件を限定されては、誰を指しているかが明確すぎる。名前を呼んだ方が早いのに決してそうしようとはしないところが、彼の拘りなのかもしれない。

 スズネが観念して木の幹から顔を出せば、シンヤは三度目の溜め息を吐いた。その顔には「面倒くさい」とハッキリ書かれている。先ほどリンと対峙していた彼とは随分と印象が違う。


「い、いつから、気付いてましたか?」

「最初から」

「な、何で……」

「自覚ないの? 下手くそ」


 何を、とは問わずとも分かる。スズネの尾行は最初からシンヤに見抜かれていた。原因は、その尾行がど素人の下手くそだったからである。

 シンヤの辛辣な言葉と冷たい視線がスズネの体を容赦なく突き刺す。やはりスズネでは対等に話し合うことができない。リンの凄さを改めて実感したスズネは、僅かに肩を竦める。


「折角戻る時間あげたのに全然動かないからどうしてやろうかと思った」

「す、すみません。察しが悪くて」

「で、何? わざわざ尾行してどういうつもり? こうなった以上徹底的に吐かせるからね」


 シンヤは太々しく腕を組みながら、深くて暗い青の瞳を細めた。どうやら、これから始まるのは尋問らしい。スズネの肩が無意識の内に小刻みに震えたが、逃げる機会を逃したのは自分の失態である。

 腹を括ろう。杖を握りしめたスズネは、緩慢にシンヤの近くへと歩いていく。これから処刑をされるかのような絶望感がスズネの内心を占めており、それは見ている側にもよく伝わったらしい。


「馬鹿じゃないの。君を傷つけたらコハルが泣くだろうから、痛いことはしないよ。質問するから君は答えるだけでいい」


 シンヤは心底呆れたような声でそう言った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る