第18話 歴史書とお話


 里の始まりは、湖の大精霊が管理する湖の側で、一本の樹が枯れかけていることだった。

 湖の大精霊はその樹に自らの水を与え、その命を吹き返させる。樹が生命力を取り戻しても、大精霊は毎日己の水を与え続けた。

 やがて、大精霊の水からマナを大量に摂取した樹は、精霊のように自我を持ち、湖の大精霊の友人となる。

 この樹こそが、後に樹の大精霊となる存在だ。

 樹の大精霊となるのは、二人が友人となって数年の月日を置いてからである。湖の大精霊から絶え間なくマナを摂取し続けた樹は、神以外に創造された唯一の大精霊となった。

 しかし、大精霊に創造できるのは精霊だけである。その域を超えた存在になってしまった樹を問題視した神によって、樹は排除されそうになる。それを庇ったのが湖の大精霊だった。

 湖の大精霊は、二人で一つの里を管理することを提案。

 何故そうまでして樹を庇うのかと神に問われた湖の大精霊は、愛故だと返答する。

 愛とは何ぞと神は問う。

 湖の大精霊は、次のように答えた。

 愛の形をこれから二人で示していく、と。

 どのように、と神は問う。

 湖の大精霊は、次のように答えた。

 永遠の時を二人で過ごすことで、愛を証明してみせる、と。






 樹の里の史実を語る書物は、そのような内容の文章を綴っていた。

 それを読んでいる間、スズネの心臓はずっと騒がしかった。区切りの良いところで一度本から目を離して、スズネが静かに深呼吸をする。

 他の三人は各々気になる本に目を通しているようだった。どうやら、三人共読書が好きなようで、文章の世界に真剣に浸っている。誰一人用意された椅子に座らずに、その場で黙々と本を読み進めていることから、そのことが容易に察せられた。

 紙とインクの匂いが漂う部屋の中で、頁の捲れる音が三カ所から聞こえてくる。何だか心地が良い。恐らく、スズネ自身も読書が好きなのだろう。

 自分のことを少しだけ理解して、スズネの視線は再び手元の本に向いた。その刹那。


「あああぁーっ!」


 神聖とすら称せる空気を無残に劈く悲鳴が響く。驚きのあまり、スズネの手の平から本が滑り落ちた。

 床に叩き付けられた本を拾おうと、スズネは手を伸ばす。しかしその前に、樹の里の歴史書は誰かの手によって勢いよく回収された。


「なっ、なななな、なんですか貴女は!」

「えっ」

「これは! 見てはいけないものです! これを見れるのは管理人である私と、里の人達だけなので、見かけない顔の貴女は見てはいけません! どこから入ってきたんですか、ど、泥棒ですか、今ここには精霊様がいらっしゃるのですよ。に、逃げられませんから!」


 スズネが落とした本を大事そうに胸に抱き抱えて、悲鳴の主は感情を露わにして叫ぶ。鼓膜が大いに揺さぶられた。

 僅かに頭痛を覚えたスズネが困惑して顔を上げると、そこには呼吸を乱れさせたマツが立っていた。

 彼女の顔は赤いようにも青い様にも見える。怒りとどうしようもない恐怖が混在しているような曖昧な表情に、スズネは小首を傾げる他ない。


「あ、あの……」

「答えなさいこの泥棒女! 何処から入ったのですか!」

「ど、泥棒じゃないです。それと、ちゃんと扉から入ってきました」

「わ、わわ、私が仕事を怠ったとでもいうのですか! だ、騙されませんっ! 今日図書館に来たのはコハル様とヨル様とシンヤ様だけで――」

「彼女もいたよ、マツさん」


 感情的なマツの大声は、ヨルの静かな一言で止まった。硬直した彼女は自身の記憶を探る様に目を伏せ、やがて、蚊の鳴くような声で呟く。


「……そういえば、今日は人数が一人多かったような……」

「いました」

「……そういえば、リン様が、昨日から新しい精霊様が来たと話していたような……」

「はい」

「……もしかして、もしかしてもしかすると、貴女は、その新しい精霊様なのでは?」

「多分、そうだと思います」


 スズネが小さく頷いて肯定すれば、今度こそ、マツの顔色は蒼一色になった。元々彼女の肌が白かったせいか、そうなると最早病的だと言える。マツは本を抱えたまま力なくその場に膝をつき、数秒後には手と頭を同時に地面に擦りつけた。


「誠に申し訳ございませぇんっ!」

「えっ」

「精霊様にとんだ御無礼を! お許しください、お許しください! ま、マナだけは、マナだけはご容赦ください!」

「ま、まってくださ、怒ってません! 怒ってませんから! お願いだから頭を上げてくださ、やめてください!」


 床の上で丸くなって頭を下げる、所謂土下座をされて、スズネは全力で飛び退いた。その謝罪の勢いは留まることを知らない滝の如しである。恐ろしい。

 スズネが反射的に頭を下げれば、マツはその瞳を涙に潤ませながら静かに謝罪を止めた。どうやらスズネが怒っていないことが漸く伝わったらしい。彼女はその顔に満面の笑みを浮かべると、「神様、大精霊様、精霊様、感謝します」と手を握りしめた。切実すぎる様子に、スズネは肩を竦める。

 マツはその場に静かに立ち上がると、スカートを手で簡単に払ってから、一度だけ咳ばらいをした。彼女は、先ほどの懇願――というより、あの様子は命乞いである――とは違う、落ち着きの払った動作で一礼して見せた。


「申し訳ございません。こちらの書物は観覧制限がございまして、お見せすることができないのです」

「そ、そうなんですね。ごめんなさい、勝手に見て」

「いいえ、私の注意不足でした。申し訳ございません。樹の里の歴史書以外は、どうぞご自由にご覧ください」


 彼女はそう言うと、その本を棚に戻して静かに息を吐いた。その時の感情が噴出するのだろうか。既に三人の人間と出会ったような気分である。眩暈を覚えるスズネの後ろから、全く動じていなさそうなコハルの声がした。


「マツさん、この子スズネちゃんっていうの」

「スズネ様でございますね。本当に、御無礼をお許しください」

「い、いえ、大丈夫です。怒ってませんし、それに私、マナも上手く扱えないので」

「あら……そうでしたか」


 彼女の表情には露骨な安堵を浮かんでいた。人間にとって、マナというのは全力の命乞いを厭わないほどの脅威らしい。

 彼女が肩の力を抜いたとき、図書館の扉が軋みながら開く。それに気付いたマツは、ハッとして振り向いた。


「いらっしゃいま」


 その後に続くはずだった「せ」はいつまでも発音されなかった。彼女は振り向いたままの姿勢で、まるで精緻な技術によって造られた石像のように硬直している。

 恐る恐る隣に移動してマツの顔を覘きこめば、漸く色を取り戻しつつあった彼女の顔は、それまで以上に蒼くなっていた。今にも倒れてしまいそうな血の気の引き方である。

 恐らくその原因は、図書館の入り口に立っている一人の女性だ。


「失礼致します。シンヤ様はこちらにいらっしゃいますでしょうか?」


 長い三つ編みを垂らした女性――リンの澄んだ声が図書館の空気を揺らす。揺蕩う水のような、過ぎ去っていく風のような、美しく透明な声だったが、マツにとってはそれが地獄の讃美歌にでも聞こえるのだろうか。

 彼女の唇から「リン様」と掠れた声が落ちる。リンは静かにマツを一瞥した後、シンヤを見つけて深々と頭を下げた。


「お話が御座います」

「俺に?」

「はい。申し訳ありませんが、お時間をいただけますか?」

「分かった。コハル、少し待っててね」


 二つ返事で了承したシンヤは、素早く本を棚に戻す。リンと共に図書館を出たシンヤに手を振りながら見送ったコハルは、扉が閉まった数秒後に、僅かに不満そうな声で呟く。


「リン、シンヤくんに何のお話かなぁ。ヨル、知ってる?」

「さあ、何か真剣な話みたいだったね」

「シンヤくん、他の女の子には興味ありませんって顔してるくせに、リンとはたまに一緒にいるんだよね。何話してるのか聞いても全然教えてくれないし。……浮気……?」

「シンヤに限ってそれはないと思うけど。あの真っ黒助はキミ一筋だと思うよ、認めるのは癪だけど」


 コハルとヨルの間で交わされる会話を聞いて、スズネは先ほど立てた仮説を思い出した。

 半年前、二人が危険に曝される原因を作ったシンヤのことを、リンが恨んでいたとしたら。

 スズネは、固まったままのマツの隣を静かに通り過ぎる。大人しくしてはいられない。もしかしたら、何かが起きるかもしれないのだ。


「すみません、ちょっと」


 そうして、リンとシンヤを追うように扉に手を掛ける。


「どうしたの?」


 無論、スズネがこの場を離れるのはあまりにも不自然な行為だ。不思議そうな双子の顔に、誤魔化す様に曖昧に笑って手を振った。控えめに手を振り返してもらったのを合図に、スズネは図書館を後にした。

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