第15話 浸水の寝室


「スズネは本当に仕方ないんだから。落ち着きがないというか、何というか……」


 笑い混じりの声がした。呆れたフリを装う言葉の割に、楽しそうな声が隠しきれていない。スズネはそんな彼の声に、頬を膨らませる。


「そんなこと言うけど、私の方が年上なんだよ。分かってる?」

「分かってるよ、センパイ」

「……その先輩は皮肉でしょ……?」

「良く分かったね。賢い賢い」

「もう、子ども扱いしないでよ!」


 スズネが叫べば、彼はもっと楽しくなったようで、最早それを隠そうともしなかった。揶揄うような言葉を投げかけられると同時に髪を撫でられる。その手に反抗しないまま、しかし、スズネは拗ねて顔を背けてやった。

 ごめんってば、と謝る声がする。謝罪というにはあまりにも軽い声だった。彼が本気で悪いと思っていないことが良く分かる。

 それでも、スズネはその声が好きだからもっと聞いていたくなるのだ。だからわざと拗ねたフリを続けて、彼を困らせる。暫くそれを続けていると、彼は少し不安そうに訪ねてくる。


「……本気で怒った?」

「どうだと思う?」

「ごめん」


 やりすぎてしまったのか、彼の声は楽しそうな気配を消して分かりやすく落ち込んだ。その落差を聞いて、スズネは慌ててそちらを振り向く。彼は肩を落としていた。


「ご、ごめん。怒ってないよ、冗談」

「ほんと? 有難う、先輩」


 謝罪に対して返ってくる言葉は、変わり身の早い楽しそうな声。ああ、また騙された。そんなことを思うのに、スズネはどうにも彼に甘くて、最早怒ることをしない。彼の一挙一動が可愛くて愛おしくて仕方がないのだ。最終的に結局いつもこうなる。彼はそれをよく知っているようだった。

 にこりと微笑んだ彼に、スズネは困ったように笑う。それから彼の頭を撫でて、仕方ないなと笑うのだ。


「本当に、全く」

「ふふ」


 穏やかな笑い声が二人分、周囲に響く。――そこでふと、スズネは自分が水辺にいることに気が付いた。

 清らかな水から立派な樹が生えている。彼とスズネはよくそれを見ていた。

 ここは、何処だったっけ。否、それ以前に。

 『彼』とは、誰だったっけ。



 そう思った瞬間、スズネは覚醒した。急速に夢の世界から現実に引き戻される感覚がする。衣類が遠慮なく肌に張り付く感覚がして心地悪く、また、やけに全身が冷たい。

 訳も分からず瞬きをしていると、球根型寝具の穴を覗き込む人影があった。……コハルである。コハルは寝起きのスズネの姿を捉えた途端、大きく目を見開いて「えっ」と動揺したような声を上げた。


「よ、ヨルじゃない!」

「はぁ?」

「し、シンヤく、ここ、ヨルの部屋? だよね?」

「そうだよ。君、何年ここにいるの」

「一年だよ! そうじゃなくて、ヨルの部屋のヨルのベッドでスズネちゃんが寝てる! ヨルじゃない!」


 コハルの声は終始動揺していた。その横から、姿は確認できないがシンヤの声もする。どうしよう、と声をあげるコハルの背景は明るく、朝の訪れを知らせていた。寝具についた網目の隙間から差し込む朝日を浴びて、スズネは自らの上半身を起こした。

――何故か全身びしょぬれだった。スズネは自分の格好を見て、寝起きの猛烈な眠気が吹き飛ぶのを自覚した。


「えっ、な、なんで私、濡れて」


 髪や頬から水滴が容赦なく落ちる。スズネだけではなく、寝具も端から端まで濡れていた。まるで部屋の中で土砂降りになったかのような有様だったが、そんなことはあり得ない。

 スズネの顔が蒼褪めた。ここはヨルの部屋である。ヨルに折角部屋を貸してもらったのに、原因は分からないが寝具をこんなにしてしまうなどあってはならないことだ。

 スズネが硬直した頃合いで、寝具を覗き込む影が一つ増えた。シンヤである。訝し気な顔をした彼は、眉間に皺を寄せて、この不可解な状況にも動じずに呟く。


「ほんとだ。何でこんなところにいるの」

「な、なんでって、あの、ヨルさんにお部屋を貸していただいて」

「だからそれを何でって聞いて――」

「見ちゃ駄目ーっ!」

「うっ」


 会話を遮り、コハルが大声を出す。同時にシンヤの目許にコハルの手の平が勢いよく叩き付けられた。シンヤの呻きは、恐らく勢いで生じた痛みのせいである。

 コハルはその手をシンヤの目許に押し付けたまま、何故か赤面してスズネを見やる。


「ちょっと、何、コハル、見えない」

「だから見ちゃ駄目だってば!」

「何で」

「スズネちゃんの服が体に張り付いてるから! シンヤくんは見ちゃ駄目!」


 コハルは赤面したままそう叫ぶ。それを聞いたスズネは、改めて自分の体を見下ろした。

 確かに、ぐっしょりと濡れた衣服はスズネの体に張り付いている。リンに渡された寝間着は休みやすいように薄手だったので、成程、確かに『見ちゃ駄目』かもしれない。体系が良く分かる。決して誇れるようなものではない。

 水で冷やされた身体が一瞬で火照った。水が温くなった気がして、これがまた居心地が悪い。

スズネが赤くなると同時に、目を塞がれたシンヤは面倒くさそうな声音で呟いた。


「別に君以外に興味ないよ。そんなことより、何でここにいるのか聞かないと――」

「駄目! シンヤくんの浮気者!」

「浮気じゃないってば、俺は君一筋だって、ねえ、聞いてる? コハル、痛い、痛いって」


 容赦なく腕を伸ばして手の平を押し付けるコハルと、体を仰け反らせるシンヤ。暫くそうやって攻防していた――というよりかは、コハルの独壇場だったけれども――二人は、そのまま床に倒れこんでスズネの視界から姿を消す。床を背中に打ち付けたのだろう。またもやシンヤの呻き声が聞こえてきた。

 二人は朝から元気が良い。床に倒れても尚、「浮気者!」と「君一筋だってば!」というやりとりが聞こえてくる。置いて行かれたままのスズネは、完全に状況把握の機会を逃してしまった。

 どうしよう。

 スズネが困惑していると、扉が開く音がした。入り口から「何やってるの、二人共」と呆れた声が飛んでくる。


「ヨルさん?」

「おはようスズネ。よく眠れた? ごめんね、なんか二人が五月蠅くて。睡眠の邪魔してな――」

「あっ」


 滔々と紡がれていたヨルの言葉は途中で止まった。入室してきた彼は床に転がる二人を完璧に無視してスズネの元にやってきたのだが、それがよくなかった。

 寝具を覗き込んだヨルとびしょ濡れのスズネの視線が交わる。確かに絡みあったそれは、一拍の間を空けて、ヨルによって勢いよく逸らされた。首が折れたのでは、と心配になるような勢いで顔を背けた彼は、真っ赤に染まった頬と耳をそのままに、足元を睨んで声を荒げる。


「っあのさぁ! シンヤ! キミもしかしていつものスズネにやったの!?」

「君が寝坊したときのお約束じゃん。まさか君じゃないとは思わなかった」

「ばっかじゃないの! 最低! 変態!」

「君までそういうこというわけ? 故意じゃないってば。強いて言えばそこにいなかった君か、寝坊したソレが悪い」

「どう考えても悪いのはキミ! 最低、この変態!」

「シンヤくんの浮気者ーっ!」

「変態じゃないし浮気者じゃないし」

「あ、あの……どういう状況か、説明いただいても、いいですか……」


 激しく口論が始まった三人に、おずおずとスズネが申し出る。それを聞いたヨルはハッとしてスズネに視線を向けかけて、途中で止まった。振り向きかけた顔を勢いよく後ろに背けながら、動揺した声が説明をくれる。


「ええと、ごめんね。僕が寝坊したときはマナを使って叩き起こすっていうシンヤの悪癖があるんだけど、それが間違ってキミに使われたみたい」

「あ、ああ……これ、シンヤさんのマナだったんですね」

「本当にごめんね。ちょっとシンヤ、早くどうにかして」

「ならまずコハルを退けて」


 申し訳なさそうな声とシンヤに辛辣な低い声の差異がすごい。事情を把握して苦笑を零したスズネの視線の先で、背中を向けたヨルは足元の何かを蹴っている。十中八九シンヤである。

 その後、立ち上がることを許されたシンヤは、コハルに目隠しをされたままスズネの身体を濡らした水滴をマナで全部回収した。数秒前まで濡れていたのが嘘のように湿り気がなくなった衣服を撫でて、スズネが「ほう」と息を吐く。

 シンヤのマナは便利だ。水を出して自在に操るだけでなく、回収までできるのか。即座に乾かすことができるなら、確かに、目覚ましとしてマナをぶつけるのは有効な手段だろう。どんなに寝起きが悪くても、それをされて目が覚めないわけがないから。


「ごめんね、スズネちゃん」

「ごめん、スズネ。……ほら、キミも謝って」

「なんで」

「キミが主犯だからだよ! ほら!」

「はぁ……悪かったよ」


 三人から謝罪を受け取って――約一名は大分不服そうだったが――、スズネは「いえ」と首を横に振る。

 賑やかな朝は嫌いじゃないらしい。寝具から這い出たスズネを、申し訳なさそうな双子と不満そうな精霊が出迎えた。

 スズネが見ていた夢は、騒がしい朝の情景に薄らと融けて消えていく。あれが何処だったのか、誰だったのかは、姿も声もぼやけてしまった今では、到底理解できるはずもなかった。

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