第14話 信用の縁側

 スズネの肩に誰かの手が触れる。声を押し殺して泣いていたスズネは、それでようやく自分の背後に誰かが立っているということを自覚した。

 ハッと息を呑んで肩を震わせる。扉に落ちた自身の影は、背後の人影と重なって呑まれていた。それだけ距離が近いということだ。

 涙に濡れた瞳を見開きながら、緩慢な動作で振り向く。そこには、確かに人が居た。


「スズネ?」

「……ヨルさん」


 そこに立っているのはヨルだった。彼は不思議そうに首を傾げており、振り向いたスズネが涙を流しているのを見ると即座に目を丸くした。


「どうしたの? 何かあった?」


 そうやって慌てて吐き出された言葉が、先ほどまで感じていた緊張感をあっという間に解していく。呆然としたスズネはその問いかけに答えられずにいたが、彼は辛抱強く返答を待っていた。急かすことなく、一瞬細くした瞳で周囲を見渡す。

――殺気はもう感じない。纏わりつくような視線が消えて、急激に自身の肩から力が抜けていくのが分かった。

 周囲に誰もいないことを確認した上で、扉の前に座り込んだスズネを、ヨルの優しい瞳がもう一度見据えた。深い緑に青が入り混じったその色は、スズネの冷静さを呼びかけるような優しい色をしている。それを見ていると、乱れた呼吸が自然と落ち着いていった。


「……すみません。起こしましたか?」

「ううん、僕はまだ寝てなかっただけ。足音が聞こえた気がしたから来てみたら、キミがこんなところにいたから声をかけたんだけど……スズネも寝てなかったんだね」

「はい。眠れなくて、というか」


 その先の言葉を、スズネは詰まらせた。先ほどまで確かに感じていた殺気のことを伝えるか否か迷ったのである。

 里の中は安全だと、リンは言っていた。だから殺気なんて飛んでくる訳がないし、全てスズネの勘違い、或いは被害妄想かもしれない。記憶喪失の不安から来る幻の恐怖ではないのか、と問われれば、スズネにはそれを否定する術がないのだ。

 その先を言えずに黙り込むスズネを見て、ヨルは静かに瞬きを繰り返す。それから、黄金の樹の細工で飾られた扉を一瞥した。


「ここ、大精霊の部屋だよ」

「……ここが?」

「そう。僕達も出入りを禁じられてるから、できればここからは離れたほうが良いかもしれないね。動ける?」

「だい、じょうぶです」


 ヨルが気遣わしげに差し伸べてくれた手に控えめに捕まると、彼は難なくスズネを立ち上がらせてくれた。よろけた際にさり気無く腰に手を回して支えてくれる辺り、彼は本当に気遣いが上手い。素直にその好意に甘えてその場を離れる。

 ヨルがスズネを連れて行ったのは、壁が取り払われているおかげで隣接した庭が一望できる不可思議な構造をしている廊下だった。樹の里独自の建築らしく、これを縁側と呼ぶらしい。蒼褪めたスズネを気遣ったのか、ヨルはそんな豆知識を披露してくれた。移動中、彼は決して無理にスズネから何かを聞きだそうとはしなかった。

縁側に肩を並べて腰を掛けた二人は、暫く沈黙を貫きながら庭を眺めていた。マナの練習をしたときの賑わいは遠く、夜の庭は何処か情緒的だ。月光に濡れた芝生が青く見える。


「ごめんなさい、迷惑かけて」

「別に迷惑じゃないよ。……嫌じゃなければ、何があったのか聞いてもいい? 無理にとは言わないけど」


 ヨルはスズネの方を見ないまま、そう尋ねた。真っ直ぐ顔を見つめられたまま何か大事なことを訪ねられると、言葉が詰まってしまう。そんなスズネの性質を見抜いたのかもしれない。

 彼の声から察せる心情は、単純で純粋な心配だけだった。スズネはおずおずと口を開く。


「誰かに、見られている気がして」

「見られてる?」

「……勘違いかもしれないけれど、殺気を感じて、慌てて部屋から逃げてきたんです」


 か細い声で報告すれば、庭を見ていたヨルは顔色を変えた。スズネの顔を勢いよく覗き込むなり、真剣な表情を浮かべながら質問を投げかけた。


「いつから?」

「に、庭でマナの練習をしていたときと、部屋で休んでいたときに」

「部屋はともかく、庭の時にどうして教えてくれなかったのさ」

「勘違いかと、思って」


 迷惑を掛けてはいけないと思って、と言葉を付け足せば、ヨルは僅かに息を吐いた。その表情は盗賊と対峙していた彼の鋭い面影があり、スズネの心臓が僅かに跳ねる。怒らせてしまったかも、呆れさせてしまったかも、と内心でいくつも不安事が浮かぶ間、ヨルは前髪を片手で掻き上げながら眉を潜めた。


「里の中に盗賊は入れないはずなんだ。だから、キミを狙っている人は、里の内部にいる人ってことになる」

「……信じるんですか?」

「何を?」

「私のこと。勘違いかもしれないし、それに、嘘吐いてるかもしれないのに」

「嘘吐いてるの?」

「つ、吐いてません。吐いてないけど、ヨルさん視点ではそう見えても可笑しくないかなって」


 スズネの言葉に、ヨルは幾度か瞬きを繰り返した。彼は数拍の沈黙の後、微笑を浮かべてスズネを見つめる。


「キミのこと守るって言ったでしょ。だから疑うような真似は絶対にしないよ」

「えっ」

「……なんて、格好いいこと言えたらいいんだけどね。ちゃんと理由はあるよ。僕が声を掛ける前からキミの様子は可笑しかったし、足音から走ってることもちゃんと分かった。キミの証言と一致する。大精霊の部屋に近付くことが目的だっていうのなら、足音は消して動くでしょ? 誰かに気付かせる利点は皆無だからね。庭でもキミの様子は可笑しかったから、キミが嘘を吐いてる部分が見当たらない。だからキミを信じる」


 何か間違ってることある? と尋ねられて、スズネは「いえ」と首を横に振った。

 この数秒の間で、彼は即座に信じるべきか否かを判断したらしい。

 無条件に信じられるよりも、根拠のある信頼の方が安心できる。自分も相手も。

 ホッと息を吐いたスズネを見て、ヨルは「打算的でごめんね」と苦笑した。とんでもない。首と両手を同時に振ったスズネは、ヨルに対して小さく笑ってみせた。


「いえ、そうであるべきだと思います。有難うございます。公平に見てくれて、その上で信じてくださって」

「どういたしまして、でいいのかな。……それで、キミを狙ってる奴についてなんだけど、今も殺気は感じる?」

「今は感じません。ヨルさんが声をかけてくださったときから、視線の気配もなくなりました」

「そっか。あくまで狙いはキミって訳だ。僕とは戦いたくないのかな」


 ヨルはそう呟くと肩を竦める。その表情は憂いを秘めていたが、決して思考を止めていない。そこに彼の芯の強さが現れている。

スズネは目を伏せて考えた。

 樹の里の誰かに狙われるような原因に心当たりはない。そもそも、スズネは樹の里に訪れたのは今日が初めてなのだ。記憶がないのに言い切れる理由は、樹の里独自の文化に全く覚えがないことだ。記憶はなくとも精霊に関すること以外の知識は備わっているスズネが、樹の里のことだけを覚えていないのは不自然である。故に、記憶を失う前から、スズネは樹の里について知らなかったということが予測できる。

 初めて立ち入った区域で命を狙われるなんてことがあるとすれば、それは「里の誰かが以前からスズネに恨みを抱いていた」か「スズネが里にやってきた僅かな期間で殺さなければならないような行動をした、或いはそうする理由ができた」かである。

 前者なら記憶のないスズネに警戒の仕様はなく、後者にも心当たりは一切ない。

 参った。犯人がどう動くか予測すら立たない上、対処法もない。

 スズネが眉尻を下げると、それに気付いたヨルが安心させるような笑みで「大丈夫」と呟いた。


「少なくとも、僕が一緒にいればソイツはキミに手が出せない。護衛するよ」

「ヨルさんの負担が……」

「僕は平気。戦うのは僕の担当だし。一応、戦う担当はもう一人いるけど……アイツとキミを二人きりにさせておくのはキミが可哀想だから、僕がつくよ」


 もう一人というのは、恐らくシンヤのことだろう。スズネの脳裏に浮かんだシンヤは顔を顰めて「コハルのためじゃないと本気出さない」と断言して姿を消した。スズネの彼への印象は大凡こんな感じなのだろう。スズネは、絶対にそれをシンヤに伝えないことを決意した。

――そういえば、コハルといえば。


「ヨルさんとコハルさんが双子って本当ですか? お風呂でコハルさんから聞いたんですけど」

「あれ、言ってなかったっけ。そうだよ、僕達は双子の精霊なんだ」


 スズネの質問に、ヨルは簡単に頷いた。成程、コハルとヨルが親しげなのは双子だからというのが理由らしい。決して三角関係などではないことを知って、スズネは自分の的外れな推理を恥じた。

 銀灰色のふわりとした髪を風に撫でられたヨルを見て、スズネはふと目を見開く。


「……でも、ヨルさんとコハルさんって、目の色も髪の色も違いますよね?」


 言われてみれば顔立ちは愛らしいという意味で似ている気もするが、同じマナを扱うこと、雰囲気が似ている衣類を着ていること以外に、二人の共通点を見出せない。ヨルはそれを聞くと「ああ」と笑って説明してくれた。


「精霊の双子と人間の双子は違うんだよ。精霊はマナの塊だって話したでしょ? 精霊の双子は、一つの塊が二つに割れたときに生まれるんだ」

「じゃあ、ヨルさんとコハルさんは元々一つのマナの塊ってことですか?」

「そういうこと。見た目は違うけど、確かに同じマナから生まれたんだって。リンが言ってた。僕には当時の記憶がないから分からないけど、何となくそうだろうなと思うから、嘘じゃないと思うよ。だから僕達は髪や目の色が違くても立派な双子」


 精霊か人間かを直感で見分けるように、双子か否かもまた自身の直感に任せて判断するらしい。

 成程と呟いたスズネの横で、ヨルが静かに頷く。ヨルがコハルの面倒を見る理由も、コハルがヨルを当然の様に好きだと言う理由もよく分かった。三角関係ではないのだとしたら、ヨルとシンヤは元々相性が悪いのだろう。スズネはそう結論付けた。

 勝手にうんうんと頷いていれば、ヨルは「さて」と立ち上がる。


「スズネ、そろそろ寝ないと明日に響くよ。念のために、僕の部屋とキミの部屋を交換しよう」

「え、でも」

「僕なら何かあっても太刀打ちできるから。僕の部屋の側にはコハルもシンヤもいるし、そっちで何かあればシンヤが何とかする。口は悪いけど腕は確かだから安心していいよ」

「でも……」

「寝ないわけにはいかないしね。明日は一応、里の中を見て回ろうか。犯人探しと、後はキミの記憶探しも兼ねて。勿論僕も同行する」


 ね? と小首を傾げられれば、スズネは首を横に振ることはできなかった。リンにも「里には珍しいものがあるから」と勧められたのだ。もしかしたら、いい刺激になるかもしれない。

 こっくりと頷いたスズネに「よし」と呟いて、ヨルは長い廊下を静かに歩き出す。彼に送り届けられた部屋は客室と殆ど同じ構造で、私物らしきものがあまり無いように見えた。

 人の部屋を漁る趣味はない。スズネが寝具に横たわると、僅かに懐かしい匂いがした気がした。

 この香りはなんだっけ。そう考えている内に、客間での落ち着きのなさが嘘のように睡魔が押し寄せてくる。

 スズネは静かに目を閉じて、眠りの世界に呑み込まれていく。誰かの視線は、眠りに落ちる最後の瞬間まで感じなかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る