第13話 錯乱の廊下

 風呂上がりのスズネは、木の香りが濃く漂う客室に案内された。中にはスズネが二人寝転べる程度には大きい寝具と一人用の机と椅子が一つずつ設置されており、大広間と同じように、光を放つ植物の蔓が天井に張っていた。

 何処か眠気を誘うような優しい光に包まれた部屋は、スズネが一人で使うにはやはり広すぎる。けれど、今回は異性の二人は当然として、コハルも別室なのだ。勿論、リンや使用人が客室を使うはずもない。先ほどまで会話が途切れない賑やかさを堪能していたので、突然静かな部屋で一人にされると、どうしようもなく孤独を感じる。スズネは心に浮いた妙な寂しさを誤魔化すべく、客室を細かく見て回ることにした。

 別段、変わったものは見当たらない。強いて気になることを挙げるなら、窓が開けっ放しになっていることくらいだろうか。しかし、使用人が折角「夜は暑いから」と気を利かせて開けていったのだし、里の中は無事が確保されているという話を聞いたばかりだ。恐らく、スズネが元々住んでいた場所との文化の違いなので、あまり気にする必要はないだろう。

 木製の窓から、涼しい風が流れ込んでくる。その風が窓辺の花瓶に生けられた青い花の甘い香りを運んできて、スズネの心を穏やかにした。客を持て成すための仕事で少しも手を抜かない辺りに、樹の民の律義さをひしひしと感じる。

 寝具は、スズネの知識の中にある形状とはやや異なった特別な形をしていた。植物の細い枝と枝を編み込んで作り上げた壁が楕円を描く寝具を囲むようにして壁を作っており、天井に這った蔓から吊るされている。その先端部分に向けて細くなっている様子が、まだ芽の出ていない巨大な球根に見えるのだ。

 スズネはゆっくりと寝具に火照った体を横たわらせる。冷やりとした布が心地よい。自身の黒髪を純白のシーツの上に散らばせながら、スズネは全身から力の抜けていく感覚を噛み締めていた。


「……少し、疲れたのかな」


 その声は、自覚できるほどに疲弊を溜めている声だった。

 森で目を覚ましたかと思えば盗賊に捕まりそうになり、ヨルとシンヤに救出され、そこから樹の里まで移動して、身に覚えのない壮大な説明を聞いて、マナの練習をした後に、食事と入浴を済ませた。

 前半はあまりにも突飛な出来事すぎて、こうして樹の里にいる今でも実感が沸かないのだ。

 なんだか落ち着かない。スズネは寝具の上で頻繁に寝返りを打った。風呂上りの身体から熱がすぐに伝わって、シーツがすぐに温くなってしまう。妙な居心地の悪さを感じるのだ。

 暫くそうして寝具の上で何度も転がっている内に、網目から漏れだす光が少しずつ弱まっていることに気が付いた。

 植物が蓄積した光が切れかかっているのだろう。樹の民はこの光が消えると同時に一日の全ての活動を終わらせる、とコハルが言っていた。ここにお世話になる以上は、スズネもその習慣に倣うべきだろう。

 蔦の光が消えれば、部屋には完全な闇が訪れる。そうすれば、次第に眠くなるはずだ。

 スズネのその予測は、すぐに裏切られた。

――明かりは消えた。しかし、部屋は穏やかな光に包まれているのだ。

 スズネが不思議に思って球根型の寝具から顔を出せば、開け放たれた窓から月光が差しこんでいた。蔦の光よりも遥かに静謐で柔らかく、何かを明確に照らしだすには弱弱しすぎる光だったが、スズネの視界はその僅かな明かりで十二分に確保される。

 窓の外で、短く切りそろえられた芝生と群を成した美しい花々が風に揺らされている。幻想的な風景に心を奪われかけた刹那、スズネの背筋を悪寒が這いあがった。

 息が跳ねる。スズネは勢いよく寝台から立ち上がって、周囲を見渡した。

 誰かが、スズネを見ている。庭で感じたものと同じ不穏な気配が舞い戻ってきたことで、先ほどまで体を支配していた熱がスッと引いていくのを感じた。

 人影はない。恐怖で僅かに乱れた自分の呼吸と、吊り下げられた寝具が中身の重みを失った反動で揺れる音以外には、スズネの鼓膜に届くものは何もない。

 それでも確かに、気配を感じるのだ。

 いる。庭の時よりもすぐ近くに、誰かが。その誰かはスズネを凝視していて、その視線には只ならぬ殺気が込められている。この場で一瞬でも気を抜こうものなら、スズネは即座に殺されるだろう。そんな嫌な想像が、脳裏を掠める。


「……だ、誰……?」


 スズネの声は震えた。返答はない。

 目線は自然と開け放たれた窓へと向いた。部屋の扉は締まり切っており、部屋に穴らしい穴はない。スズネの姿を捉えることができるのは、あの窓の存在があるからだ。窓を閉めてしまえば、誰かがスズネの姿を凝視することができなくなるだろう。

 しかし。

 スズネの一歩は、窓側ではなく廊下側に向いた。急いでここから離れなければならない。窓に近付いたら最後、殺されてしまう。そんな気がしてならなかった。

 スズネの心臓が激しく騒ぎ立てている。スズネは勢いよく客室を飛び出して、誰の影も見当たらない巨大な廊下を遠慮なく走り抜けていった。

 声を出そうとして、躊躇った。大声を出したら向こうはスズネを見つけて、すぐにでも殺しに来ると思ったから。

 それに、誰かが――否、ヨルやシンヤ、もしかしたらコハルも、スズネが大声を上げたらすぐに起きて助けにきてしまうかもしれない。

 確証なんてない。相手が本当にいるかも分からない。ただの記憶喪失の不安から来る幻の殺気かもしれない。けれど、もし本当にこの殺気が本物だったとしたら……その時は、助けに来た誰かすら殺されてしまう気がして、恐ろしかった。

 よく知りもしない屋敷の中を走って、走って、走って。先ほどまで感じていた熱が嘘のように、空気は嫌に冷たかった。

 心臓が五月蠅くて、その鼓動が酷く煩わしく思える。その音が空気を伝って、スズネを殺そうとしている誰かに居場所を悟らせている気がして恐ろしい。足音も、呼吸も、或いは髪の毛が風に靡く些細な音でさえも、スズネの精神をすり減らしていった。

 足元を弱弱しい月明かりが照らしている。その光に縋るように、導かれるように廊下を走り続けたスズネは、或るものを見てふと足を止めた。


「――大きい」


 この屋敷のものは、なんでも大きい。屋敷自体もそうだが、浴室も客室も、何処にいても贅沢だと感じるような、荘厳且つ立派な造りとなっている。

 その中でも、その扉は一際大きく、また、何よりも荘厳で立派な造りをしていた。

 扉の表面を、一本の樹を模した精緻を極めた細工が飾っていた。細い枝は勿論、生茂った葉や果実、幹の皺といった細かい部分までが再現されている。月明かりを反射して輝くのは、その扉の樹が黄金で作られていたからだ。

 こんなに素晴らしい扉は見たことが無い。けれど、スズネはこの樹を知っている。

 心臓が、先ほどとは違う意味で大きく跳ねた。走ったせいで荒くなっていた呼吸が、もっと荒くなる。四肢からは意思とは関係なく力が抜け、スズネはその場に座り込んだ。

 誰かが見ている。誰かがスズネを殺したがっている。しかし、そんな恐怖も上塗りされるような強烈な感情が、スズネの体の底から湧いて出ていた。


「……何、何で……嫌」


 スズネの口からは、恐怖とも動揺ともいえる感情が滲んだ短い言葉だけが零れ落ちていく。それを止める方法を、スズネは知らない。

 誰かの殺意が強くなるのを感じた。しかし、スズネが肩を震わせたのは、それが原因ではない。『そんな理由』なんかじゃ、ない。


「なんで、どうして――どうして」


 強い感情。根深い絶望。溢れ出る悲しみ。

 その樹を、スズネは知っている。知っているものを見るのがどうしてそんなに悲しいのか、スズネには分からない。分からないことが、また酷く虚しかった。

 瞬きをすることすら忘れたスズネの瞳から、感情任せの涙が溢れ出た。生温い涙が頬を伝う。

 黄金の樹で飾られた扉の前で、スズネは声を押し殺して泣く。月明かりは、隠し事を許さないと言いたげに彼女の小さくなった影すらも浮かび上がらせていた。しかし、存外それはすぐに消える。

 決して月が彼女の隠し事を赦したからではない。

 では何故、と問われれば、こう答える他ないだろう。

――背後から現れた一つの人影が、座り込んだスズネの影を呑み込んだ故である、と。

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