第12話 追憶の浴室

 食事を終えた直後――あれだけあった料理は一欠けらも残さず完食した。勿論、きのこ料理も――、機会を窺っていたかのように颯爽と現れたリンは、四人を浴室へと案内した。

 浴室。身を清めるところ、という認識がスズネの中にある。リンの様子から察するに、精霊も身を清めるのが常であるのだろう。人間であるか否かという事実とその身を清潔に保つこととは、あまり関係がないらしかった。

 シンヤのマナであれば手軽に身を清められそうなものだが。そう思ったスズネはシンヤにそのままそっくり問いかけてみたが、彼は「身を清めるのに一々マナなんか使っていられない」と素っ気なく返答した。尚、語尾にくっついていた「馬鹿じゃないの」は聞かなかったことにする。その方がスズネの心に無駄な傷を作らないからだ。

 浴室は男女に別れており、脱衣所を覗いても自分達の他には誰もいなかった。やけに広い脱衣所の構造から察するに、風呂場も相当広いのだろう。そんな場所を自分達だけで使う贅沢にスズネは肩を震わせたのだが、今回もやはり、リンや使用人達は「我々は後で入りますので、ごゆっくりどうぞ」と言い残してさっさと去っていってしまった。

 二人きりになった脱衣所は、脱いだ衣服を纏める籠と、それを置いた棚がいくつも並んでいた。折角の広さも、二人という人数では活かせそうにない。スズネが扉近くの籠を上向かせれば、コハルは一つ間を空けた籠を上向かせた。こんなに広い脱衣所なのに、二人が使うのは出入り口付近のほんの少しの空間になりそうだ。

 衣服を脱ぐのを躊躇っていると、隣で同じように衣服に手を掛けたまま硬直しているコハルの姿が目についた。

彼女も羞恥を覚えているのだろうか。スズネとコハルは今日会ったばかりで、肌を見せることに躊躇いがあるのも当然である。自分だけ時間をずらそうか、と提案しかけたスズネより先に、コハルは憂鬱そうな声で言葉を切り出した。


「お風呂、苦手なんだぁ」

「……お風呂が、苦手?」

「そう」

「……樹なのに?」


 彼女は愛らしい顔立ちに少し不満そうな色を浮かべて首を横に振る。嫌々、というのが手付きから察せる程緩慢な動作で、彼女は裾が肘までしかない短い外套を脱ぎ去る。その下から現れたエプロン付きのワンピースは胸元がリボンに飾られていて、愛らしい彼女に良く似合っていた。

 思わずまじまじ見つめてしまったスズネに、コハルは憂いを込めた呟きを落とす。


「樹じゃなくて樹の精霊だもん。別物だもん」

「ご、ごめんなさい」

「いいけど……シンヤくんにも言われたことあるんだ、それ。樹が必要とするお水とお風呂は違うもん」


 明らかに拗ねた口調のコハルは、渋々といった態度を一貫させながら胸元のリボンを解く。彼女の衣服が少なくなって無防備になっていく様子をまじまじと見るのは失礼だし、スズネも恥ずかしい。慌てて顔を背けたスズネは、相槌を打ちながら、羞恥を噛み砕くようにして衣服を脱ぎ、籠の中に置いた。

 浴室の扉を開けると、真白い蒸気が漂っていた。肌に直接伝わる熱気に驚いて飛び退きかけたスズネは、危うく足を滑らせるところだった。それまでと同じく、足場もまた木製だったが、水を吸った木は存外滑りやすいのだ。浴室は想像通り広々としており、驚いたスズネの「わあ」という声も反響する。

 何だか気恥ずかしい気持ちになったが、コハルは特に気にする様子もなく、湯気をたてて二人を待っている水面へと近づいた。


「こっちこっち、おいで」

「……湯気がたってますけど、熱くないですか?」

「あったかいよ」


 先ほど憂鬱な様子を見せていた彼女の方が先に浴槽へと足をつけた。彼女の身動きと共に水面に波紋が大きく広がり、彼女の白い足が水に呑まれていく。すぐに肩まで水に浸かった彼女は、熱で赤くなった頬をスズネに向けて手招きをした。

 スズネは恐る恐る浴槽に近付く。指を水面につけると、思う以上の熱が指先を伝った。一瞬ひっこめた指を、今度は心の準備をしてからゆっくりと水に浸からせる。こういうものだ、と理解をすれば、全身を浸からせることもできそうだった。

 スズネが恐る恐ると水――否、この場合、湯と言うべきである。湯に身体を浸ける様は、まるで水を毛嫌いするような猫が好奇心で水場に近付いた挙句に前脚で水面を殴るような、そんな奇妙な光景に酷似している。

 緊張した面持ちでその体を半身お湯に沈めたスズネは、自分の体が何ともなっていないことに安堵の息を零した。自分の両手を凝視していれば、コハルがくすくすと笑い声を零す。


「スズネちゃん、温泉は初めて?」

「温泉?」

「そう。これも樹の里だけの文化なのかなぁ。自然にあったあったかいお湯をそのまま使ってるんだよ」


 火を使っていないのに水が暖かくなるだなんて、不思議な話だ。

 スズネが湯を手の平で掬いながら「へえ」と零すと、コハルは何かを見守るように目を細めて笑う。彼女は良く笑うけれど、その笑顔は均一ではない。どれも輝く宝石のように煌めきがあって、彼女の温かく無邪気な人柄をよく表していた。


「スズネちゃん、ここに来たばかりのシンヤくんみたい」

「えっ」

「シンヤくんも最初は何も知らなかったから、私とヨルと、それからリンや里の皆で色んなこと教えたんだよ」


 コハルは当時のことを思い出したのか、何処か嬉しそうな声でシンヤのことを話してくれた。冷たく淡泊、それでいて口が『多少』悪いシンヤと自身が重ねられたことに、何処かで無愛想な態度をとっただろうか、と焦ったスズネは、彼女の言葉を聞いて納得する。性格や対応ではなく、状況の話をしているようだ。妙に安心してしまったことは、決してシンヤには伝えないでおこうと、スズネは密かに決意した。

 コハルの手が水面を撫でる。まるで、水を操る彼を思い出して愛おしむかのような、優しい手付きだった。

 それを見ていると、無粋だと分かっていても聞きたくなってしまう。スズネは己の胸の内で疼く衝動に負けて、控えめにコハルに問いかけた。


「コハルさんは、その、シンヤさんのことが、お好きなんですか?」

「うん、好き」


 即答だった。聞いたのは自分の癖に、スズネの頬が妙に熱くなる。それが湯のせいではないことを自覚しつつ、スズネは小さく何度も頷いた。


「……じゃあ、ヨルさんのことは?」

「え? ヨル? 勿論好きだよ」


 こちらも即答。彼女はどうしてそんなこと聞くの? と不思議そうな、当然でしょ、と言いたげな顔でスズネを見据えた。彼女の態度から察するに、その頬が赤いのは正真正銘湯のせいである。

 やはり三角関係か。しかも、コハルはどちらにも気がある。成程、複雑な関係だ。二人がああしていがみ合うのも分かる気がする。

 勝手に納得したスズネの横で、コハルは不思議そうに小首を傾げていた。彼女の頬を伝った雫がぽたりと水面に落ちる。彼女はそうして暫くスズネの態度を不思議がっていたが、やがて気にならなくなったのか、嬉々とした声で会話を切り出した。


「シンヤくんね、今はすごく優しいけど、ここに来たときはすごく尖ってたんだ」

「……コハルさんにも?」

「うん」

「ヨルさんはともかく、想像がつきませんね」

「あれでも、ヨルとはすごく仲良しだよ。シンヤくん」


 あれで? という声は流石に呑み込んだ。彼女は手で湯を掬ったり、かと思えば組んだ手の隙間から湯を飛ばしてみたり、自由に遊びながら話を続ける。


「記憶がなくて不安だったんじゃないかな。とりあえず触った人を全員斬る、みたいな……警戒心の強い猫ちゃんみたいな。シンヤくんが猫だったら黒猫ちゃんだね」

「警戒心の強い猫でも、精々がひっかくくらいで、触れた人を斬りはしないと思いますが」

「でもそっくりだったんだよ。ほら、シンヤくん可愛いし」


 コハルの声はさも同意を求めているようだったが、生憎と同意し難い。曖昧な表情をして肯定も否定もできなかったスズネの反応に怒ることもせず、コハルは言葉を継いだ。


「マナが使えるようになって自分が湖の精霊だって知ったら、シンヤくん、その日の夜に里を抜け出しちゃって。この村の結界、本当は出るだけなら自由だったんだよ。その脱走事件があってから出るのにも許可が必要って仕組みになったけど」

「……湖の民に襲われたっていうの、もしかしてそこで? だから結界が厳重になったんですか?」

「うん、そう。記憶が無くても湖の里には自分の居場所があるはずだって、シンヤくんはきっと信じてたんだと思う。そこを襲われたから、それ以来シンヤくんは湖の里に行きたがらないし、湖の大精霊も湖の民も嫌ってるんだ」


 コハルは出していた両手を湯に戻しながら、少し悲しげに目を伏せた。彼が負った傷や痛みが、まるで自分のものであるかのような悲痛な表情だ。彼女の薄桃色の瞳が僅かに潤んだように見える。それが、下から舞い上がる湯気や、天井から落ちてくるぼんやりとした明かりのせいだとは、到底思えなかった。


「それからずっと、シンヤくんの居場所はここ。樹の里なんだ」

「襲われた後で、シンヤさんはその人達を返り討ちにして帰ってきたんですか?」

「ううん。私たちが助けに行ったの。シンヤくん、今でこそマナをあんなに扱えるけど、飛び出していった日は本当に少し水を浮かばせるくらいの些細なものしか使えなかったから。応戦するのが難しかったんじゃないかな」

「……そっか。だからシンヤさんは御二人に心を開いているんですね」

「うん。きっと、ずっとあの日のこと気にしてるんだ。もういいのに」


 コハルはそう言って笑ったが、何処か力がないように思えた。彼女が自身の太腿に手を這わせたので、スズネの視線がそちらに向く。揺らめく水面に目を凝らせば、透明な湯の中で、彼女の指は白い太腿――否、そこにつけられた傷跡を撫でているようだった。

 脱衣所では体を見ないように目を逸らしていたので気が付かなかった。最近できた傷という様子ではない。これからも消えそうにない細い傷口を、彼女の指は静かに撫でていた。


「これ、シンヤくんを助けた時についちゃった傷。あ、もう痛くないよ。全然。少し痕は残るだろうけど、シンヤくんを助けられた証だと思えば悲しくないし。……でも、シンヤ君はこの傷のこと、ずっと気にしてるの。だから私にあんなに優しいんだよ」


 コハルの言葉は、今までで一番静かに紡がれた。明るく無邪気な少女といった雰囲気だった彼女は、憂いを帯びた少女といった様子に様変わりしている。別人のような変化、とは、思わないが。

 シンヤが傷を気にしているという事実を憂う彼女も、十二分に気にしているように見えた。スズネは言葉に詰まらせた後、自分の軽薄さを恥じる。

 恐らく、三人を繋げているのは「好き」の一言では言い表せない複雑な感情だ。それを、初めて会っただけのスズネが、好奇心で掘り下げるべきではなかった。

 申し訳なくなって謝罪しようと口を開きかけたスズネより先に、コハルは「まあ!」と雰囲気を大きく変えて声を大きくした。


「シンヤくんが私達の大事な人だっていうのは変わらないからいいんだ。ヨルもシンヤくんも、素直じゃないけどお互いのことが好きなんだよ。じゃないとお風呂一緒に入らないもんね」


 悪戯っぽい笑みを浮かべた彼女の言葉に、スズネはハッとした。

 そういえば、喧嘩ばかりの彼等は現在隣の浴室で同時に入浴しているのだ。終始喧嘩をしているのか、それとも互いに干渉し合わないのか、案外、静かに会話なんかしているのだろうか――想像もつかないし、想像してはいけない。絵面的に。

 ちらりと浴室の壁を見たスズネの横で、コハルが立ち上がった。彼女の体を伝って無数の水滴が湯船に落ちる。それを見上げれば、太腿に剣の傷を負った少女は、それを感じさせない明るい笑顔で言った。


「そろそろ上がらないとのぼせちゃう。行こ、スズネちゃん!」

「あ、はい」

「あ、あとね、私とヨルは双子だよ。だから、ヨルを好きなのは当たり前」

「……えっ?」


 コハルの呼び掛けに応じて立ち上がったところで、さらりと衝撃の事実を告白された。予想外のことに目を見開いたスズネは、思わずコハルの顔をまじまじと見つめる。

 彼女は目を細めて口角を上げると、「ふふふ」と笑って足早に脱衣所へと向かっていった。

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