第10話 過る記憶と不穏な気配

「じゃあもう一度、改めてマナを使ってみよう」

「はい」


 少しの間沈黙を貫いていたヨルは、日が暮れると同時に口を開いた。先ほどまで頑なに顔を背けていた姿から一変して、彼は堂々とスズネの瞳を見つめている。

 スズネは、胸元の前で両手を合わせて握った。目を伏せて、静かに自分の手元を見つめ続ける。


「手の平に力を込めてみて。何か、感じない?」


 スズネの集中力を乱さないようにだろうか。潜められたヨルの声が鼓膜を撫でて、擽ったい。スズネを盗賊達から守るときに、彼女に届いた唯一の音。今になって思えば、スズネはヨルの声が好きなのだろう。低すぎない、何処か安心感のある声だ。耳馴染みが良くて、彼の声で紡がれた言葉は頭にすんなりと入ってくる。

――手の平に込める。自分の体温と、手が触れあう感覚がする。そしてもう一つ。スズネは、自分の手の平で水面が波打つような、微かで穏やかな不思議な感覚を覚えた。

 スズネが握った手から仄かな光が溢れだす。夕陽のなくなった薄暗い庭で、その光はよく目立つ。それはまるで月明かりのような優しさを帯びて、静かにスズネの周辺を照らしだした。


「……それがマナが発動したときの光。もう少しそのまま。そうしたら、自然とマナが形になって現れるから」


 ヨルの声に小さく頷いたスズネは、その光を凝視する。白く、気高いような光。けれどそれは決して遠いところにはなくて、いつも自分の中に巡っている。

 スズネはそれを知っていた。


「私、これ知ってる」


 その呟きに、ヨルが僅かに目を見開く気配がした。スズネは手元の光をずっと見つめていたため、本当のところは分からない。彼の反応よりも、自分の手中から漏れだす光に目がいったのだ。

 スズネの脳裏に、微かに人影が思い浮かんだ。顔は見えない。声も分からない。けれどその人影は確かに笑って、この光を見る度、いつも優しい言葉を投げかけてくれたのだ。


『綺麗なマナだね』


 彼にそう声をかけて貰うのが好きだった。くすぐったくはあったし、どうにも顔が熱くなることの方が多かったけれど、それでも彼の褒め言葉が好きだった。

 私は何と答えていたんだっけ。

 愛しい彼に、大好きだったその言葉に、素直な言葉を返せなかった気がするのだ。

 彼の一言を思い出す度に、嬉しいと同時に深い悲しみが湧いた。

 スズネは幾度も彼の言葉をその胸に思い出して、彼が確かにそこに居た証に胸を撫で下ろすと共に、涙を流したのだ。


 どうして。


――どうして、××××?


「いっ」


 その雑音が重なった一言を思い浮かべた瞬間、光が弾けた。閃光が庭中を強く照らし出した瞬間、乾いた破裂音が周囲に響き渡った。それと同時に、スズネは自身の両手に何かに弾かれたような大きい衝撃と鋭い痛みが走るのを自覚した。

 全身を見えない力で押されたようだ。成す術もなく数歩後退したスズネは、そのまま力なくその場にへたり込んでしまう。

 呆然として両手を見るも、決して見掛けに変わった様子は見当たらない。しかし、その手は指先までが強い痺れに覆われていた。


「……何、いまの」


 手が小刻みに震えている。光が消え失せたことが酷く恐ろしいことに思えて、スズネは縋るような気持ちでヨルを見上げた。彼は困惑したような顔をしていたが、視線が交わった瞬間にハッとしてスズネの前まで駆け寄ると、丁寧にしゃがみ込んだ。


「大丈夫? 今、何したの?」

「わ、分かりません。ええと、言われた通りマナを出すことに集中していたと、思うんですけど」

「それにしたって今の様子は只事じゃないね。……手が震えてる」


 ヨルが気遣うように、控えめにスズネの手に触れた。自分のものより僅かに高い体温が、スズネに安心感を齎すようだ。胸中の不安を融かすようにヨルの手に触れていると、すぐに震えは収まった。けれども、ヨルがその手を離す気配はない。


「スズネちゃん!」

「何事?」


 庭の隅に当たる巨木の根元に座り込んでいたはずのコハルと、先ほどそちらに向かったばかりのシンヤが駆け寄ってきた。そのどちらの顔にも、嘲笑や余裕の気配が見当たらない。先ほど、スズネの手の平から漏れた光と破裂音が庭中に、それも派手に散った。コハルは酷く心配そうな顔をしていたし、シンヤは、心配というよりかは警戒をするような表情を浮かべている。けれど、敵意は感じない。

 暫くそれを見ていると、スズネの疑問に溢れた脳内は落ち着きを見せた。先ほど過った誰かの言葉も、胸中を満たした底知れない感情も、影も形も見当たらない。


「……マナの光を見ていたら、何だか聞き覚えのある言葉と、自分のものじゃないみたいな感情に満たされて。気が付いたら、さっきみたいなことに」


 スズネは無意識に手に力を込めた。ヨルの指が一瞬跳ねたが、彼は無言で力強くスズネの手を握り返す。その顔は真剣そのもので、スズネの発言を疑っているようには見えない。


「記憶が断片的に戻ったってことか。なら、それに気をとられて集中力が切れたのかも」

「それにしたって今のは変でしょ。俺達のところからは爆発したように見えたけど?」

「でも、彼女は怪我をしていないし、マナが表に出た気配もない。失敗したのはそうだろうけど……普通の失敗とは違いそうだね」


 落ち着いたヨルとシンヤが冷静に意見を交換している。当事者であるスズネは、ただぼんやりとその姿を見つめることしかできなかった。

 馬を見かけたときも、あの『誰か』はスズネの脳裏を過った。大事な人だったこと、とても愛おしかったことだけは分かる。しかし、名前も声も姿も思い出せない。自分の中に途方もない穴を感じて、酷く落ち着かない。

 口を閉ざしたままのスズネを、コハルが気遣わしげに見つめていた。眉尻の下がった瞳に視線を投げれば、彼女は小さな声で言葉を落とした。


「スズネちゃん、今日はもう休もう。一日目にマナを使えるようにならなくたって、時間がいっぱいあるから大丈夫だよ。何かあっても、ヨルとシンヤくんが絶対守ってくれるから、ね」


 何かなんてこの里にいる限りは絶対ないけれど、と付け足して、彼女は曖昧に微笑む。誰かを安心させようとしている顔だった。

 スズネはその言葉に頷いて、力の抜けた足でどうにか体を支える。よろよろと重心を左右に傾けながら緩慢な動作で立ち上がったスズネの背筋に、鋭い悪寒のようなものが走った。

――誰かに見られている。ただ見られているのではない。これは、鋭い殺気を帯びた視線だ。

 勢いよく周囲を見渡すも、薄暗くなって視界が悪い状態では、人影を見つけることができなかった。ただ何処からともなく投げかけられる殺気に体中を刺されている気がする。

 スズネは顔を蒼褪めさせて、小さく俯いた。


「スズネ? どうかした?」

「……ううん。何でもないです」


 気のせい、だろう。

 自分の思い過ごしで、これ以上三人に迷惑を掛ける訳にはいかない。ただでさえ記憶喪失の精霊の面倒を見る、という仕事を押し付けてしまっているのに、その精霊が「誰かに見られている気がする」だなんて確信もないことを騒ぎ立てれば、確実に仕事が増えてしまうだろう。

 この里は結界で守られているし、盗賊はやってこない。売られた精霊の末路の話に、時間差で恐怖しているだけだろう。

 そう言い聞かせながら、スズネは静かにヨルから手を離す。離れた温もりがすぐに惜しくなったが、その感情を押し殺すように、その手を自分の胸元で抱いた。ヨルは一瞬何かを言いたそうにして、それでも口を閉ざすのだった。

 日がすっかり落ちてしまった。マナの光が灯らない庭はすっかり常闇に包まれている。屋敷から漏れだす明かりが四人を招くように灯ったのを見て、コハルが言った。


「とりあえず、ご飯食べよう。美味しいもの食べて、ゆっくり休むの。そしたらきっといい夢が見られるよ」


 それはきっと、彼女の慰めだったと思う。その場に似合わぬ明るい声音を出して「そうしよう?」と小首を傾げた彼女は、スズネの背を押して屋敷へと戻っていく。ヨルとシンヤの二人は無言でそれに続いた。だからスズネも、それに倣って黙って歩いた。

 胸に渦巻く嫌な予感を、必死に押し殺しながら。

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