無限恐怖の宮殿

「誰か!!誰か!!助けてくれええええ!!」


 イラキシム王子の情けない叫び声が、宮殿の廊下に響き渡った。靴も履かず、先程までベッドで寝転がろうとしていた時の衣装のまま懸命に走り続けた彼の顔は、その声が示す通りこの世の物とも思えない恐怖に包まれていた。あまりになりふり構わず走り続けたせいか、王子は自分の足に躓き盛大に転んでしまった。何とか立ち上がろうとした時、彼の耳に聞きたくもない美しい大合唱が響き始めた。


「「「「「王子~♪」」待ってくださいよ~♪」」」

「……ひいいいい!!!!」


 どれほどの美女でも、全く同じ姿形をした麗しき存在が笑顔でこちらへ向かってきても、今の王子にとっては恐怖の対象でしかなかった。当然だろう、あれほど罵り嘲り蔑んだ相手が、それを恨んだり怒ったりするどころか満面の笑みを浮かべ、しかも次々に数を増やしながら自分自身へ迫ってきているのだから。

 何とか追跡をまこうと角を曲がった瞬間、数人のメイドたちを見かけた王子はいきなり彼女たちにしがみ付いた。驚く彼女たちの前で、彼は絶叫のような声を響かせながら懸命に助けを訴えた。自分は命を狙われている、襲おうとする連中に追跡されている、何とかしてくれ――すっかり情けない様相を露わにした彼の頭を優しく撫でながら、メイドたちは優しい顔をしながらじっと見つめた。


「王子、ご心配なく」

「もう逃げる必要はありませんよ」

「安心してください」


 一瞬その言葉に油断し、メイドたちの言葉の通り安心しかけた王子は、目の前で起きた光景に愕然とした。

 彼女たちの輪郭が歪んだと思った直後、あっという間にその顔や体形、そして声が変化し――。


「「「……は、させませんから♪」」」

「!?!?!?!?」


 ――王子を追跡する集団、彼が宴で散々な言葉をかけた挙句王国から追放したはずの令嬢、長い黒髪に美しき釣り目を持つシュニーユと全く同じ姿形に変貌してしまったのだ。メイド服すら完璧に着こなす美しい姿を露わにする彼女たちの自慢げな表情は、ますます彼を恐怖に陥れさせるのに十分すぎるものだった。再び大声で叫びながらシュニーユと同じ姿の美人メイドを押しのけ、再度廊下を走り始めた。だが、彼の周りに広がる恐怖は収まるどころかますます膨れ上がり続けた。すれ違うメイドや執事、兵士たちが彼を見つめるや否や――。


「あ、王子♪」「イラキシム王子♪」

「どこへ逃げるんですか~♪」

んじゃなかったんですか~♪」


「あああああああああああ!!!」


 ――次々にその姿形や声を、シュニーユ・ニュイジブール伯爵令嬢へと変貌させていったのである。

 しかも、彼女たちは次々に顔に笑みを浮かべながら王子の心を突くような言葉を投げ続けた。何が起きても決して後悔はしない、と婚約者や女王に何度も告げたのにどうして怖がるのか、なんでこんな美しい女性をあれほど下劣なやり方で蔑んだのか、どうして罪もない女性の顔を踏みつけるような真似が出来るのか――四方八方から聞こえる声という声を遮るかのように、イラキシム王子の叫び声は更に大きくなっていった。


「王子、度胸がありますね♪」

「無実の罪で人の顔を踏みつけるなんて、ねぇ♪」

「ぬああああああああだまれえええええええええええええ!!!」


 耳を塞ぐだけに留まらず目まで瞑ったせいか、王子は盛大な音を立てて壁に激突してしまった。頭に走る痛みに耐えながら目線を後ろに変えたとき、彼はすっかり腰を抜かしてしまった。ずっと逃げに逃げ続けた迷路のような宮殿の廊下は、男女様々な衣装に身を包んだ、まったく同じ姿形をしたシュニーユの大群でぎっしりと覆いつくされていたのである。


「「「「「「「「「「「さぁ、王子……♪」」」」」」」」」」」」」

「!?!?!??!?!?!?」


 ゆっくりとした足取りで進み、麗しい唇から誘うような声を発しながら迫りくる美女の大群を前に、イラキシム王子はただ背後へはいずりながら逃げ出すしか無かった。そして四方八方を大量のシュニーユに囲まれ、完全に逃げ場がないという状況に追い詰められた時、彼は背中に走った感触が壁と異なる事に気が付いた。何とか立ち上がった王子は、そこにあったノブを掴み、内側に開いた扉の中に倒れこんだ。そこが彼の母でありこのセクトラル王国を治めるヘキサ女王の部屋である事に気づいたのは、ノックをせずに入った事を咎める女王の声を聞いた時だった。


「……あああああ!!!お母様!お母様だあああああ!!」


 美貌の王子とは完全にかけ離れた、まるで幼児のような泣き声を口にしながら、王子は大粒の涙を流して母の体にしがみ付いた。何のことか、と唖然としていた女王であったが、自身の息子が歳に似合わず泣きじゃくる様子を眺めながら様々な思いを込めたようなを浮かべ、そっとその頭を撫でた。こうすればイラキシム王子がどれほど泣き叫ぼうとも心が落ち着く事を、長年彼を育て続けていた母は承知済みだったのだ。

 そして、ヘキサ女王は微笑んだままそっとイラキシム王子に尋ねた。一体どうしてそのように大泣きする状況に至ったのか、と。だが、その言葉を聞いた直後、彼は顔を真っ青にしたまま黙り込んでしまった。当然だろう、ここに至るまで何度も何度も耳の中に入り続けた言葉――『何が起きても決して後悔はしない』と言う、この国で最も高い位置にいる存在であるお母様=女王陛下と交わした約束を彼は反故にしてしまったのだから。そのような事が明るみになってしまえば、例え些細なことでも精神的な罰が下される事は確定してしまう。ただ、ここであの異常な状況を説明しなければ、自分の命が奪われてしまうかもしれない。しかし『魔法』が解けたという名目で同じ女性が次々にこの宮殿内に溢れ続けるというのを、どうやって説明すれば自身の母が理解してくれるのだろうか――自分に課される責任を少なくしたうえであの大量のシュニーユを排除する方法は、幾ら必死に考えても全く思い浮かばなかった。


「……ほう、言えぬ訳があるのか……」

「……も、申し訳ありません……」


 その言葉に対し、口では謝罪しながらも、イラキシム王子の顔からは安堵の感情が露わになっていた。女王陛下から糾弾されるという最悪の事態を何とか避ける事ができた、その場しのぎの思いであった。


 そんな彼の顔を見ながら、ヘキサ女王はそっと語り始めた。こういう風に泣き叫ぶ王子を慰めるなんて、まるで子供の頃がよみがえってくるようだ、と。もしこの言葉を言った相手が『女王』でなかったら、今頃王子は暴言を吐き、兵士を呼んで追い出していただろう。だが、相手が自身の母ということもあり、文句も言えない彼は、母が様々な肖像画――直属の画家に描かせたという思い出の絵を取り出す様子を黙って見守る他なかった。


「……ふふ、懐かしいのぉ……お主が幼児だったころの肖像画だ……」

「お、お母様……」

「どうした?」

「……いえ、何でもありません……」


 そんな呑気にしている場合ではない、扉の外は大変な事になっているのだから――それを伝えたいもどかしさを抑えながら、何とかイラキシム王子は母の思い出話に付き合い続けた。これまで何度も眺めていた様々な肖像画を再度見つめる中、ヘキサ女王は彼にある提案をした。丁度良い機会なので、自身が若い頃――『母』や『女王』にすらなっていない頃の絵を見てみないか、と。どういう訳か、女王は今まで一度もその頃の自らの姿を息子に見せた事が無かったのだ。

 興味はあれどそんな余裕など残されていない王子であったが、相手が女王陛下であり母であると言う時点で断る選択肢は残されていなかった。一体どうして母はこんなに無理解なんだ、息子の心情すら察することができないなんてこの国は本当に何から何まで最悪じゃないか――そんな自分勝手な怒りを心に煮えたぎらせた、その時だった。


「……とくと見てみよ、イラキシム。私の『若き』姿を」


 視界に入った絵を見た瞬間、イラキシム王子の全身は青ざめ、鳥肌に包まれ、そして恐怖と絶叫、そして絶望の感情が覆った。この国を長年治めていると言うヘキサ女王の若き姿――容姿端麗、頭脳明晰、誰からも慕われる理想の存在だったと称されるというその姿は、あまりにも見覚えがあり過ぎるものだった。

 長い髪、凛々しい顔、すらりとした麗しい姿、そして美しく着こなすドレス――頭の上から爪先まで、その姿はあの伯爵令嬢、シュニーユ・ニュイジブールと何もかも同じだったのだ。


「…………!?!?!!?!?」


 そして、絵画から顔を反らした王子の瞳に映ったのは、彼に残されていた強い心へ大打撃を与えるのにふさわしい光景だった。彼に向けて優しい微笑みを見せながら、ヘキサ女王は絵画通りの若き姿――『シュニーユ』へと戻っていたのである。


「……ふふ、イラキシム『王子』♪」


 そして、彼女の声を合図にしたかのように、女王の部屋と外部を繋ぐ扉が開き、シュニーユの大群が押し寄せた。服装こそ燕尾服からメイド服、軽装の鎧、ドレスなど多種多様であったが、女王を含め皆一様に同じ長さの髪をたなびかせながら、まったく同じ微笑みを見せて王子の傍へ近づき、その身を部屋の端へと追い詰めた。それでも何とか彼は一途の望みに縋るかのように、部屋のカーテンの外に広がる光景へ目を向けようとした。だがその行動が、イラキシム王子の心を完全に壊す結果となった。

 夜の帳が下りる宮殿の庭、この場所と別の建物、城壁、その向こうに広がっているであろうセクトラル王国の領土――あらゆる場所が、まるで虫の大群に埋め尽くされたかのように蠢いていた。しかもそれらが動く音ばかりではなく、窓を通り越すほどのざわめきがこちらに響いていたのだ。この群衆を構成する者の正体は、夜を照らす灯が当たる度に露わとなり続けた。長い髪、整った顔つき、誰もが見惚れる体形、そして王子を受け止めるかのような笑顔――。



「王子♪」王子♪」王子♪」王子♪」王子♪」王子♪」王子♪」王子♪」王子♪」王子♪」王子♪」王子♪」王子♪」王子♪」王子♪」王子♪」王子♪」王子♪」王子♪」王子♪」王子♪」王子♪」王子♪」王子♪」王子♪」王子♪」王子♪」王子♪」王子♪」王子♪」王子♪」王子♪」王子♪」王子♪」王子♪」王子♪」王子♪」王子♪」王子♪」王子♪」王子♪」王子♪」王子♪」王子♪」王子♪」王子♪」王子♪」王子♪」王子♪」王子♪」王子♪」王子♪」王子♪」王子♪」王子♪」王子♪」王子♪」王子♪」王子♪」王子♪」王子♪」王子♪」王子♪」王子♪」王子♪」王子♪」王子♪」王子♪」王子♪」王子♪」王子♪」王子♪」王子♪」王子♪」王子♪」王子♪」王子♪」王子♪」王子♪」王子♪」王子♪」王子♪」王子♪」王子♪」王子♪」王子♪」王子♪」王子♪」王子♪」王子♪」王子♪」王子♪」王子♪」王子♪」王子♪」王子♪」王子♪」王子♪」王子♪」王子♪」王子♪」王子♪」王子♪」王子♪」王子♪」王子♪」王子♪」王子♪」王子♪」王子♪」王子♪」王子♪」王子♪」王子♪」王子♪」王子♪」王子♪」王子♪」王子♪」王子♪」王子♪」王子♪」王子♪」王子♪」王子♪」王子♪」王子♪」王子♪」王子♪」王子♪」王子♪」王子♪」王子♪」王子♪」王子♪」王子♪」王子♪」王子♪」王子♪」王子♪」王子♪」王子♪」王子♪」王子♪」王子♪」王子♪」王子♪」王子♪」王子♪」王子♪」王子♪」王子♪」王子♪」王子♪」王子♪」王子♪」王子♪」王子♪」王子♪」王子♪」王子♪」王子♪」王子♪」王子♪」王子♪」王子♪」王子♪」王子♪」王子♪」王子♪」王子♪」王子♪」王子♪」王子♪」王子♪」王子♪」王子♪」王子♪」王子♪」王子♪」王子♪」王子♪」王子♪」王子♪」王子♪」王子♪」王子♪」王子♪」王子♪」王子♪」王子♪」王子♪」王子♪」王子♪」王子♪」王子♪」王子♪」王子♪」王子♪」王子♪」王子♪」王子♪」王子♪」王子♪」王子♪」王子♪」王子♪」王子♪」王子♪」王子♪」王子♪」王子♪」王子♪」王子♪」王子♪」王子♪」王子♪」王子♪」王子♪」王子♪」…



 ――『悪役令嬢』、シュニーユ・ニュイジブール伯爵令嬢と、全く同じ笑顔を。



「ああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!うあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!」



 そして、喉が張り裂けそうな絶叫を挙げた直後、イラキシム王子は目を白く見開き、口から泡を吹きながらその場に倒れこみ、そのまま動かなくなった。呼吸こそしていたが立ち上がる事はおろか目覚める事もなく、何度もシュニーユたちが触れても彼が反応を見せることは無かった。やがて、何かを確かめるかのように互いに頷きあった彼女たちは、そっと王子の体を持ち上げ、一斉に動き出した。それはまるで、彼を弔う行列を作るかのようであった――。


「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「うふふふふ……♪」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」…


 ――揃いも揃って、顔に満面の笑みを浮かべている事以外は……。

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