■6――聖女奪還作戦 その2
■
「これで、終わりよ」
黒衣二体を制した八刀はそう宣言すると、マイセンに向かってその銃口を突きつけた。
「さっきも言ったけれど、もう一度言うわ。武装を解除して、手を上げて跪きなさい。そうすれば命までは奪わない」
そんな彼女の言葉に、対するマイセンはというと――肩を揺らして押し殺したような笑いを零しながら周りに倒れて動かない黒衣たちを一瞥し、あろうことか、拍手をしてみせた。
「素晴らしい! 素晴らしいじゃないか、A-008……劣化コピーとはいえA-009と同等の運動性能と秘蹟を保有している僕の9シリーズを二体も相手取って、食い破ってしまうなんて! 評価を再び改めなければいけないな、君は間違いなく、一桁台として完成――」
熱を帯びた声でそう語ろうとするマイセンの足元に、弾痕が開く。
銃口を向けたのは――私だった。
これ以上、八刀に彼の戯言を聞かせるべきではない。そう思っているうちに、引き金を引いていた。
そんな私へと一瞥を向けながら、マイセンはつまらなそうに肩をすくめる。
「……やれやれ、つくづく無粋だね、調律官。君とて分かるはずだろう、僕たちの探究がいかに貴いものであるか。かの天上に、神の座する混沌の暗がりの中に手を伸ばす――叡智への試みが、何にも代えがたいものであるか。外なる神にその身を捧げ、そんな体に身を堕とした君になら、理解はできるはずだ」
マイセンの言葉に、その隣に座らされた九重が怪訝な表情で彼を見る。
「『身を、捧げ』? 貴方、何を言って――」
すると彼は、眉をわずかに跳ね上げて私と九重とを見比べ、愉快そうに鼻を鳴らした。
「……は。なるほど、もしかして君は隠しているのかい? これは驚いた、大した悲劇じゃあないか――ならば私が、ちゃんと真実をつまびらかにしてあげないとね」
制止しながら私は彼に銃口を向けるが、彼の口は、止まらない。
「いいかい、A-009。あれはもう、一度死んでいる――今のあれは、神に体を喰い散らかされた人でなし。もうすぐ死にゆく、命の残滓に過ぎない」
高らかに言い放った彼に、私はただ、言葉もなく口をつぐみ。
そして九重は――私をじっと見つめて、呆然とその大きな瞳を見開く。
「……本当、なんですか」
私は、答えない。けれどそれだけで、彼女は何かを察したようだった。
マイセンの言葉は断片的で。けれど恐らく、彼女は何かに気付き始めていたから――たったそれだけで、何もかもを理解してしまったのだ。
「さて、どうだろうA-009。それを知って君はこれ以上、あの死に損ないの調律官に何を望む? 君が彼らの元に戻れば、また問題は山積みだ。帝政圏も連邦も、丸く収めようとしていたものが全て台無しになってしまう。そうなれば君だけじゃない、君の大事にしている残りの聖女たちだって、どうなるか――」
そう言って、九重の肩に手を置くマイセン。九重は、心ここにあらずといった風な憔悴しきった表情のまま、私に向かって何かを言おうとして。
「――うるさいわね」
けれどそれよりも先に、口を開いたのは八刀の方だった。
「黙って聞いていれば、ごちゃごちゃと。……国がどうのこうのなんて、そんなのはどうだっていいでしょう。九重、大事なのは、貴方がどうしたいかよ!」
マイセンに向かって銃口を突きつけたまま、彼女は鋭く言い放って。
そんな八刀の叱咤に、九重は目を伏せながら、唇を噛む。
「でも、八刀さん。違うんです、私は貴方たちと違って、ただの兵器だから。……ならせめて、貴方たちのために――」
「私たちのために、ですって? 勝手なことを言わないでよ、この……考えすぎのバカ妹!」
「ばっ……!?」
言われた九重はもちろん、思わず私も八刀を見る。
いつにも増して鋭い眼光が、戸惑う九重をまっすぐに射抜いた。
「貴方はいつもいつも、そうやって自分一人で背負い込んで、自分だけで頑張ろうとして。……いい加減に、しなさいよ。一桁台の姉さんたちは皆、いなくなっちゃったけれど……だけどまだ、貴方の姉さんは、ちゃんとここにいるんだから! 貴方は妹らしく自分勝手に――好き放題にわがままを言いなさい!」
己の胸を叩きながら、力いっぱいに叫んでそう告げる八刀。
そんな彼女の言葉に、九重ははっとその目を見開いた。
「私、は――」
「……いい加減、あまりよくないことばかり吹き込まれてしまうのは、困るな」
震える唇で何か言いかけた九重を遮って、大きなため息を吐いたのはマイセン。
「そろそろ、おしまいにしようじゃないか」
そう呟くや、彼はその指をぱちんと鳴らして。
瞬間――周りで倒れていたはずの黒衣たちが、一斉にその身を起こした。
「なっ……」
先ほどの戦闘で確かに八刀が致命傷を負わせていたはずのものまでが、まるで無理矢理に起こされた糸繰り人形のように、ぎこちなく蠢いている。
「元より、こいつらは死体も同然――命令に従って、反射的に動くだけの人形だ。だからこういう芸当もできるのさ」
口角を釣り上げて、そう笑うマイセン。
予想外の状況に、流石の八刀も驚きを隠せずに声を上げ――そんな彼女に向かって、起き上がった黒衣たちの刃が殺到する。
とっさに彼女を庇って間に入るが、私だけでは防ぎきれない。
それでもせめて少しでもと、八刀の体を抱きとめて――しかしそうしてしばらくしても、体を切り裂く痛みを感じることはなかった。
薄目を開けて、周りを見てみると。今まさに襲いかかろうとしていた黒衣たちの体に、纏わりついていたのは漆黒色の霧。
次の瞬間、黒衣たちの体が一斉に「腐敗」し、崩れて消え――黒い霧が溶けていく中、隣のマイセンは目を見開いて九重を凝視する。
「A-009。君は……何をしたか、分かっているのかい?」
「ええ」
そんな彼の言葉に、九重は座ったまま、ゆっくりと微笑んで告げる。
「少しばかりの、反抗期というやつです。……悪いですがもう、貴方にお付き合いするのは、ここまでとしましょう」
「そんな勝手が、許されるとでも?」
「勿論」
彼女がそう呟いた途端、その手に嵌められていた頑強な手錠が砂のように朽ちて崩れて。
そんな彼女の足元に、八刀が近くに立てかけてあった補助杖を投げ込んでやる。
座りながらそれを拾って、ゆっくりと右腕に合わせる九重。まるでマイセンのことなど既に眼中にないかのようなその態度に、マイセンはわずかに目元をひくつかせながら懐に手を伸ばし――しかし、
「っがぁッ……!?」
響いたのは銃声とマイセンの呻き声、そして彼が取り出そうとした拳銃が床を転がる乾いた音。撃ったのは、八刀だった。
「次は、手じゃ済まないわ」
「っ……くそッ」
銃口を向ける八刀に憎らしげな視線を送りながら、その場でうずくまるマイセン。
それ以上の追撃は加えずに、八刀は判断を仰ぐように私を見る。
「どうする、先生」
そんな八刀の言葉に答えようとした、その時のことだった。
ゆっくりと。マイセンの目の前で、倒れていた最後の黒衣が身を起こした。
立ちはだかる黒衣。その姿を見て、憔悴していたマイセンの顔に笑みが浮かぶ。
「……ふ、素晴らしい! いいぞ、そうだ、僕を守――」
立ち上がった黒衣に向かって銃口を向け直す八刀。しかし意識の混濁した虚ろな瞳のまま、黒衣は八刀に目を向けることもなく――ゆっくりと、マイセンの方へと振り返った。
「……なんだ? 何をしている」
脂汗を浮かべたまま、怪訝な顔で彼女を見るマイセン。
そんな彼を、数秒ほど見下ろした後――黒衣はぎこちなく、その両手を広げて彼の体に、抱きついた。
――抱きついて、その腕へと、勢いよく喰らいついた。
「っ、がっ、あぁぁぁああああぁぁぁぁぁ!? 何だ、お前ッ――何、をっ!」
絶叫を上げて振りほどこうとするマイセン。しかし黒衣は彼の体を抱きすくめたまま、その腕に猛然と齧り付いて離れない。
迸る鮮血。予想だにしなかった状況を前に固まる私たちの前で、マイセンは空いた左手でポケットから何かを取り出す。
金属製の、小さな筒。その外観は、以前A-099から回収した抑制剤の注射キットによく似ていた。
ただひとつ違うのは――その表面の印字。
「108」。そんな数字が刻み込まれた金属シリンジ。それは私もよく知るものだった。
【外なる神】と呼ばれる異形の細胞が封入された薬液。聖女と呼ばれる存在を、確実に死に至らしめるための毒。
恐らくは何らかの不測の事態を予測して、彼もまたそれを準備していたのだろう。憎々しげな形相で彼は黒衣を見下ろすと、
「ええい、この、役立たずの不良品がッ――」
一切の躊躇もなく、「108」の針先を黒衣の首筋へと突き立てる。
そうして中の薬液が注ぎ込まれて、次の瞬間。
<<――あ>>
聞こえてきたのは、黒衣の口から漏れたそんな言葉。……否、言葉というよりそれはむしろ、純粋な振動に近い。
脳に直接響くような、力の胎動。それが意味となって直接流入してくる感覚。
それはまるで、彼女――ナイが語りかけてくる時の、それのような。
奇妙な有様だった。
「108」を打ち込まれた聖女は、拒絶反応から速やかに死に至る、はず。
だというのに黒衣はその場で立ち続けたまま――マイセンに抱きついていた両腕を緩めると、天に向かってふらふらと伸ばす。
それはまるで、祈りにも似た動き。
「……何だ? 一体、これは――」
どこか困惑したような、マイセンの呟き。その次の瞬間――黒衣の体が、不意に揺れた。
揺れた……否、それは霞んだ、と表現した方が近いかもしれない。例えるならば劣化した映像モニターに表示されるブロックノイズのような。
そんな奇妙な像のゆらぎが黒衣の体を包んで――
ぴしり、と。聞こえたのは、ひびの入るようなそんな音。
そしてそれは、ゆらぎつつある黒衣の体のその中心に走った、一筋の黒い亀裂から聞こえてくるようであった。
最初はほんの小さな、一筋の黒。けれどそれがみるみるうちに上下に、左右にと走り――黒衣の体はどんどん、その漆黒色に染まってゆく。
「……何、あれ」
呆然とした八刀の呟きに、答えは私の脳裏へと響いてきた。
<調律官、すぐにここから離れろ>
珍しく余裕の感じられない、ナイの声音。
目の前ではぱきぱきと、亀裂が広がって――黒衣の体に開いた漆黒がどんどん大きくなってゆく。
……そして。次の瞬間。
空間に広がった裂け目。その中から、上に向かって何かが、突き出してくるのが見えた。
青白い、彼の胴回りほどの太さもあるそれは――巨大な腕。
よく見ればその先には口のような、小さな牙が無数に並んだ開口部があって。それががちり、がちりと牙を打ち鳴らしながら、天井へと向かって伸びてゆく。
「……っ、ひ、何だ、これは、こんなのは、知らない……!」
震える声で叫びながら、腰を抜かして半ば転がるように前方車両の方へと逃げ出すマイセン。
「ちょっと、待ちなさ……」
八刀が銃口を向けようとするが、しかしその瞬間――黒衣の体に空いた裂け目から凄まじいまでの衝撃が吐き出されて、たまらず私たちは吹き飛ばされる。
九重を抱きかかえたまま床を転がって、痛む全身に鞭打って目を開けると――列車の屋根が割れて、隙間から月の照る空がのぞいている。
八刀に向かって無事かと問うと、「なんとか」と声が返ってきた。だが、一安心したのもつかの間のこと。
「……嘘でしょう。ホントに何よ、あれ」
呆然とした八刀の声。彼女の視線の向く方を見て、私も、そして九重も揃って言葉を喪った。
屋根の吹き飛んだ車内。降り注ぐ月の光に照らされて、そこにいたのは――あるいは有ったのは、およそ形容もし難い、「何か」だった。
床を踏みしめているのは、先ほど黒衣の体から突き出していた、あの青白くぬらぬらとした三対六本のひどく発達した腕。そしてそれらを生やした、恐らく胴体に相当するであろう部分は腕と同じく無毛で、その膨らんだ肉質は長らく水に浸かり続けていた水死体を想起させる。
腰から下には人の体と同じような両足が生えているが、そのつくりは腕と比べると貧弱で頼りない。
そして――極めつけに異形を感じさせるのは、その首。
それには、頭部と呼べる部位が、存在していなかった。
頭のない、多腕の異形。それはしかし蠢いていて、明らかに命ある何かであると理解させてくる。
だが――だとして、何なのだ、あれは?
<……【神】さ。私と同じ、
ナイが返したその答えに、私は思わず苦笑を零す。
【神】なんて彼女一人で十分だと思っていたものだが……しかしどうやら、冗談を言っているふうでもない。
少なくとも、あんなものは。そう表現するかあるいは――そうでもなければ「化け物」とでも、そう形容する外ないものだ。
私の横で【神】とやらを睨みながら、ナイが眉間のしわを深くする。
<『108』は本来、聖女に投与すれば拒絶反応を起こして死に至らしめるだけのはず。だがあの人形は、最初から死体のまま使役されていた……ただの抜け殻だった。だからあれは――『器』になってしまったんだ。理の外にあるものをこの世界に当てはめるための、器に>
呟くナイと、ほぼ同時。
蠢いていただけだった【神】が、不意にその両の腕を持ち上げ――振り下ろす。
両手の先に開いた、細かな牙が並んだ口。その目指した先は、先ほど九重の秘蹟によって崩れ落ちた黒衣たちの骸で。
「……なんて、こと」
その光景を前に、絶句する九重。八刀などは、直視することすら疎ましいようだった。
だがそれも、無理はない。
【神】は――床に倒れた黒衣たちを掴んでは、その手の先にある口でその遺骸を咀嚼していたのだ。
水音と硬質な音が混ざり合っては止み、混ざり合っては止み。
床には彼女らの被っていた仮面、あるいはベルトや服の切れ端、そしてそれ以外の食べ残しがぼとりぼとりと零れて落ちる。
正気を揺り動かすような光景を目前にしながら、私もまた、しばらく呆然と立ちすくみ。
<……調律官、動け!>
ややあって、ナイの言葉で我に返って前を見る。
巨大な――口のついた腕が、目と鼻の先まで迫っていた。
ナイの補助でとっさに身を捩り、どうにか直撃は回避する。だが肩口のあたりをその牙が掠めて、浅く肉が抉られた。
「先生!」
悲鳴を上げる九重と八刀に後方車両へ向かうようにと告げながら、【神】と正対する。
死体を食い終わってしまったため、どうやら新たな獲物を探すことにしたらしい。二人を逃がすまでの間、私が時間を稼ぐ必要があるだろう。
暗闇を覗かせる首をこちらに向けながら、その六本腕を蠢かせ始める【神】。
傷を負った左肩が、奇妙なほどに痛み続ける。見ると――どうしたことか、普段であれば即座に治癒するはずのその傷が、いつまでも血を流したまま残り続けていた。
その傷を見て、ナイが眉根を寄せる。
<気をつけろ。奴は、【貪る神性】――存在ごと啜り、削り取る神だ。見たところ、不完全な顕現を果たした出来損ないのようだけれど……とはいえまともに攻撃を受けたら、私の力があっても再生しきれずに死ぬぞ>
そんなナイの言葉と同時に、第二撃が来る。
今度は四本の腕を使った波状攻撃。最初の二撃は前に転がって躱すも、しかし体勢を立て直す前にもう二本の腕が振りかぶられる。
回避は、間に合わない――そう思った、その刹那。
「先生!」
振り下ろされんとしていた一対の腕、その半ばあたりに漆黒の霧が巻き付いて。侵食された腕は一瞬のうちに黒く変色し、砕け落ちる。九重の、【万象の腐敗】だ。
その想定外の攻撃に怯んだのか、数秒ほど動きを止める【神】。さしもの【神】でも、彼女の【腐敗】は痛手らしい。
とはいえ――相手が大きすぎる。九重の放ったわずかばかりの腐敗の霧では、到底その全身を腐敗せしめるには至らない。それに、
「……イヤになっちゃいますね。こちらとて、命を削って撃ってますのに」
苦笑を浮かべながら杖に寄りかかって深い息を吐き出す九重。その額には、脂汗が浮いている。
これ以上、彼女に無理をさせるわけにはいかなかった。
そう思った瞬間、私の右腕が意志と関係なしに動いて、表面が闇色に包まれてゆく。
<いいだろう、調律官。なら私が手を貸してやる>
先ほどよりもクリアに聞こえるナイの声。と同時に、私の右手に彼女の黒剣が音もなく現れた。
「先生!? それは……」
驚いた様子で私の右腕を見て、それから彼女は、何かを悟ったように口をつぐむ。
その横で、ナイが【神】をにらみながら言葉を続けた。
<さっきも言ったが、あれは不完全とはいえ【神】――生半可な攻撃では、君がそうであるようにすぐに再生してしまう。だから、これを使う>
そう彼女が告げると同時、私の右腕が、前に向かって黒剣を突き出した。
<こいつを、あれの心臓に突き立てたまえ。『108』と同じ原理だ――異なる【神】の因子を取り込めば、奴は拒絶反応を起こしてすぐに受肉を保てなくなるだろう>
その言葉を、信じるに足る理由はない。しかし今は、信じる以外の手はなかった。
彼女から言われた内容を、八刀と九重にも伝える。ほんの少しの戸惑いはあったが、二人とも、それ以上の追及はなかった。
「……なんだか分からないけど、それで本当に、あれを倒せるのね?」
「なら、やるしかないでしょう。……あちら様も、このまま逃してくれるふうでもありませんし」
かつ、と杖で床を打ちながら、九重は脂汗を額に浮かべながら――けれど生き生きとした瞳で、余裕げに微笑む。
「私が道を拓きましょう。……その間に、先生はしっかりと決めてきて下さい」
そう告げた彼女に、私は頷くと。
右手の黒剣を握り直して――【神】に向かって真っ直ぐに、駆け出す。
先ほどの九重の攻撃によるダメージからはある程度回復したらしい。腕は喪ったままであるが、残った二対の腕を一斉にこちらに振り下ろしてくる。
そう広くはない列車内、回避は考えるだけ無駄だろう。
ただ前に踏み込んで――しかし私の頭上に降り注がんとした巨腕は、黒い霧に包まれて瞬時に塵と化す。
九重の援護だ。霧によって攻め手を崩され一時的に無防備となったその胴体部分に一直線に飛び込むと、私は黒剣を突き出そうとして――
「……先生! 避けて!」
八刀の叫び声に、私はその場で咄嗟に身を引く。刹那、伸ばしかけていた右腕の半ばから先が――【神】の正面に突然現れた黒い霧に包まれて、崩れ落ちる。
脳の芯まで貫くような激痛。肘の部分から先が一瞬のうちに腐り落ち、断面からはコールタールのような黒い血が吹き出す。
<【万象の腐敗】――喰らった聖女の秘蹟を、取り込んだか!>
頭に響くナイの声。一瞬意識が遠のくのを感じながらも、その声と腕の激痛とを頼りにどうにか踏みとどまる。
ここで退いたら、残存しているもう一対の腕が喰い付いてくる。……なら。
覚悟を決めて、私はその場で無理やり床を踏みしめると。
前傾姿勢で、【神】へと向かって真っ向から頭を突っ込んだ。
――口元に、新たに凝集させた黒剣を咥えながら。
<<ァ、>>
黒い刃が,【神】の胴部に届く。
なんの抵抗もなく、刃はするりと奥まで入り。次の瞬間――蠢き続けていた【神】の巨体は大きな痙攣の後、まるで時が止まったようにそのまま動きを止め。
<<ア、ぁ。ナイ、あ、#%*。万象を喰らう、黒。お、まえ、は――>>
聞こえたのはひどく歪んだ、しかしわずかに言葉として意味を成す音の羅列。
だがそれを言い終わる前に――私ではなくナイの意志で、黒い刃がさらにその身に深く、押し込まれる。
<……さっさと、滅びろ。蒙昧なる成り損ないが>
【神】と呼ばれた肉塊は、大きく身を捩りながらその無顔の首を天に向け――
<<あ、ああぁ、アあァ。あぁあァアあぁあぁぁぁあぁァあぁア>>
聞こえたのは、断末魔とも言うべき耳障りな不協和音。
それに思わず顔をしかめていると丁度その時、イヤーセットから声が聞こえてきた。
『こちら、エイプリル1。調律官――聖女たちと一緒にその車両から、すぐに離脱しろ』
感情の起伏に乏しい、それは男の声だった。
その声と同時に、客車の外――先ほどの衝撃で破損した窓の外から、何かが飛んでくる。
閃光弾。それに気付いた時には既に視界は真っ白になっていて、まばゆい光の中――恐らくは八刀が、その場で立ちすくんでいた私の手を掴んで引く。
「……今のうちに走るわよ、二人とも!」
八刀に手を引かれながら、目指したのは乗降口。
ぴったりと閉じた扉の錠前を九重が秘蹟でこじ開けて――三人一緒に転がるように外へ飛び出す。
すると、次の瞬間。
轟音とともに――今しがたまでいた客車で、大きな爆発が起こった。
揺れが収まるまで、数秒ほど。
扉の小窓から客車の方を見ると、炎上した車両が夜暗を明るく照らし出している。恐らくは、今回の作戦のために予備として仕掛けられていた爆弾――それを起爆させたのだろう。
……あの【神】の姿は、視認できない。イヤーセットに手を当てながら、私は先ほどの警告の主に向かって感謝しようとして――けれど中断を余儀なくされる。
……ゆっくりと杖をついて近づいてきた九重が、私の腰にぎゅっと抱きついてきたのだ。
何をしているのかと問うと、彼女は上目遣いにこちらを見つめながら、ぷーっと頬を膨らませてみせる。
「……人命救助のためとはいえ、あんなに熱烈な抱擁を見せつけられてしまいますと、少々妬けます」
何かと思ったが、どうやら先ほど八刀を庇った時のことらしい。
いつもどおりの戯言を飛ばす彼女に安心しつつ、その帽子頭を左手で軽く撫でてやると「うふふ」と気味の悪い声を漏らしてみぞおち辺りに頭を押し付けてくる。
……そんな体勢のまま、彼女はぽつりと、口を開いた。
「ねえ、先生。……さっき、マイセンが言っていたこと」
そう呟きかけて――けれどそれ以上、彼女が問いを重ねることはなかった。
目を合わせないまま、再生を終えた私の右手にその左手をぎゅっと重ねる九重。
いまだ漆黒色に塗り替えられた、人ならざるものの腕。そんなもので彼女に触れるのは、どうにも躊躇われた。
思わず手を引こうとするけれど、彼女は私の掌を握りながら首を横に振る。
「この手は、先生の手です。私たちを守ってくれた、貴方の手です。そうでしょう?」
小さく、ほっそりとした彼女の手。
それを傷つけてしまうことのないように、ゆっくりと握り返しながら、私は小さく頷いて。
……すまない、と。
ただそれだけ、彼女に返した。
――しばらくそうしていると。
やがて後方車両の方からどたどたと足音が聞こえてきて、静寂は破られる。
「先生、やっちゃん、無事!?」
かしましくそう叫びながら出てきたのは――後ろで足止めを買って出た、六花と三七守の二人だ。細かな擦り傷などはあるが、どちらも概ね怪我などないらしい。
八刀を見た後二人は私の方を見て、仲良く揃って眉根を寄せる。
「……先生、どしたのその袖」
先ほど腐り落ちた右腕。中身こそ既に再生を完了していたのだが、袖ばかりはどうにもならなかったのだ。
かすり傷だと雑に言い訳を返すと、二人とも怪訝な顔こそすれ、それ以上の追及はなく。
次に九重の姿を認めて、すぐにぱあっとその表情を明るくした。
「九重先輩……よかった……!」
感極まった様子で彼女に抱きつく三七守をよしよしと撫でてやる九重。そんな彼女に「私も!」とさらに上から抱きついていく六花。
しばらく抱擁を堪能した後で、六花は九重と三七守を抱いたまま八刀へと向き直り、
「……やっちゃんも混ざる?」
「いいわよ別に」
ぶっきらぼうにそう突っぱねた後、八刀は六花の顔をしげしげ見ながらぽつりと続ける。
「……怪我とかは、ない?」
「うん、私もみーちゃんもこの通りピンピンしてるよ。外で陽動してた仁夜ちゃんたちが、助けに来てくれたから」
胸を張ってそう告げた六花に、後ろから九重が言葉を発した。
「……その、皆さん。ありがとうございます、私のせいで」
そんな彼女の言葉に、「九重先輩」と、珍しく強めの口調で口を挟んだのは三七守。
ゆっくりと首を横に振りながら、彼女は九重をまっすぐに見つめて口を開く。
「九重先輩がわたしたちを守ろうとしてくれたことは、分かってます。だから九重先輩が謝ることなんて、ないです。でも……でも、もうこんなことはしないで下さい。わたしたちだって、九重先輩と同じ聖女ですから――困ることがあったら、わたしたちのこともちゃんと、頼ってほしいです」
そんな三七守の言葉に、九重はやや少し驚いたように私を見て。
だから私も、何も言わずに頷いてやる。
「……ありがとうございます、皆さん」
困ったように笑いながらそう呟く彼女に、六花も三七守も、八刀も静かに笑って。
――そんな、時だった。
「手を上げて下さい、皆さん」
しんと冷えた夜の闇に声が響くと同時。無数のライトが、眩く私たちを一斉に照らす。
そんな光を背にして、姿を現したのは――こちらに軍用拳銃の銃口を向けた、ティーその人だった。
彼女の言葉とほぼ同時、私たちを取り囲むようにして、小銃を構えた無数の兵士たちが姿を現す。
帝政圏の軍服を纏った、紛れもない正規兵だ。銃口を一様にこちらに向ける彼らを背に、ティーは私をじっと見つめてこう続ける。
「ナイ。連邦使節襲撃の罪状で、貴方を拘束します――よろしいですね?」
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