■4――最後の聖女 その1
■4――最後の聖女
孤児院に帰って九重を処置室に運び込み、いくつかのすべきことを済ませた後。
看病を申し出た八刀と交代して、私は隣接する医務室に戻って大きく息をついた。
酸素マスクをつけて、いまだ処置室のベッドで眠り続ける九重。幸い酸素飽和度や各種バイタルは安定傾向に戻りつつあったため、危機的状況は脱したと考えて良いだろう。
とはいえ――たった一度の秘蹟の使用だけで、あれだけの反動を受けてしまうというのは尋常なことではない。
……普段はおくびにも出さずにいたが、それだけ彼女の聖痕症候群が進行しつつあったと、そう見るのが自然だろうと思われた。
ぎしぎしと鳴るおんぼろの革張り椅子に深く身を沈めて、私は目を閉じる。
本当だったら彼女の体のことについてもっと集中したいところだが、あいにくと今は、そうも言っていられなかった。
カール・マイセンと名乗ったあの男。アカデミーの手が、再び
少なくとも今は早急に、この事態をどうにか打開しなければいけないだろう。
「ナイ、入っても?」
ノックとともに聞こえた涼しげな声に大丈夫だと告げると、扉を開けて入ってきたのはティーだった。
「彼女の具合は」
開口一番、意外にもそんなことを尋ねてきたティーに少しばかり戸惑いながらも、私は状況を伝える。しばしの沈黙の後、「そうですか」と思考の読めない声音で呟くティーに、私の方からも傷の具合について尋ねてみた。
どういうわけかは不明だが、あの黒衣の放った力は確かに九重のそれと同じ「万象の腐敗」。直撃でこそなかったとはいえ、それを彼女は右手に食らっていたのだ。
私の懸念にしかし、ティーは「問題ありません」と答えて腕をまくる。
あの時見た通り、真っ黒に変色していたはずのそこには、今やもう傷一つ見当たらなかった。
……見間違いだったわけではないはず。であれば、彼女の傷はあの最中に癒えてしまったということになる。
ならば、その原因として考えうるのは――あの腕輪だろう。
説明を求める私に、ティーは観念したように小さくため息を吐くと、
「……まあ、ヴィルの元に出入りしている以上はいずれ貴方も知ることになるでしょうから、お話ししましょう」
そう告げて、懐から何かを取り出して机の上に投げた。
真っ二つに割れた、複雑な意匠の腕輪。あの時彼女がつけていたものだ。
「これは、【
聖女に、対抗する? どういうことかと問う私に、彼女は腕輪の片割れを手に取りながら続けた。
「この腕輪の中には、【神】……貴方がたが【外なる神】と呼んでいるものの細胞が封入してあるのです。装着すると中の細胞が反応を起こし、その結果として私たちは聖女と同等の異能を得ることができる――理屈としては、聖女よりもむしろ今の貴方に近いでしょうね」
【外なる神】の細胞を自身に取り込むことで力を得る。なるほどそれは確かに、あの時ナイを受け入れた私と、結果的には同じことだ。
だが――それならば、彼女はあの時とんでもない危険な橋を渡ったことになる。そんな私の指摘に、けれどティーは首を横に振った。
「【変換器】の名前の通り、この腕輪は直接人体に【神】を入れ込むわけではありません。装着者の血液を抜き取り、中の細胞と結合させることで外装を生成して、それを装着する――そういうデザインになっておりますから、直接体に【神】を埋め込んでいる貴方がたに比べればよほど安全ですよ。もっとも、影響はゼロというわけではありませんが」
そう言って、青みがかったその緑色の瞳を細めるティー。
彼女の語った内容は、にわかには信じられないものだったが――しかし一方で腑に落ちる部分があるのも確かだった。
私たちが帝政圏に亡命してきた段階で、すでにこちらでも【外なる神】についての研究は一定の段階に達していた。だからこそ私はその設備を間借りする形で抑制剤の研究に着手することができたのだ。
であればこちらでもその研究の成果がすでに生み出されていたとして、何らおかしなことはないだろう。
一人納得する私に、「さて」とティーの声が掛かる。
「ご質問に対する答えとしては、このくらいでよろしかったでしょうか。よろしければ、本題に入りたいのですが」
そんな彼女の言葉に頷くと、彼女は「では」と切り出して、小脇に抱えていた携帯端末を机上に置いた。
「これを」
画面に表示されたのは、「
「今回の休戦会談の裏で交わされた、密談の記録です。……少しばかり、困ったことになりました」
そう言って彼女が指し示した箇所を、ざっと目で追う。その内容に、私も口をつぐむしかなかった。
連邦と帝政圏との間で交わされた、極秘裏の交渉。その議論の中心となっていたのは――彼女たちについて。
曰く、連邦が保有する極秘兵器を、帝政圏側が奪取し現在も不当に保有している。
今後の正式な休戦を締結するにあたってその返還を求める……というのが、連邦側の言い分であった。
画面を送って、文書の続きに視線を移したところで私は眉をひそめる。
そこに記されていたのは――帝政圏側も連邦の要求を熟考するという、そんな返答。
どういうことかと問う私に、ティーもわずかに顔をしかめて視線を外す。
「向こうの提示した条件は、あの男の言っていた内容と同じです。『連邦側が認識しているのはただ一体であり、それ以外の個体が存在していることは認めていない』――つまるところ、他の聖女は不問にするから九重さんだけは引き渡せと、そういうことです」
それに対して、帝政圏は「熟考する」と回答したという。
つまりはその提案を棄却はできなかったと、そういうことだ。
「貴方がたをお迎えするにあたって、いくつか無理筋を通した部分もあります。ですがそういった部分すら不問とすることを、連邦は提案に盛り込んできた。だからこそ、この提案を受け入れるべきだと……
ティーの言葉に、私は何も言えずに黙り込む。
連邦側が非人道的な研究に手を染めていた事実はあるにせよ、帝政圏が連邦側から機密を盗み出したという点に変わりはない。
その点について追及されれば、帝政圏としても具合は良くないところだろう。
――だが。九重一人を引き渡しさえすれば、連邦側はそんな交渉カードを自ら捨てて、さらに他の聖女たちの事実上の譲渡をも約束しているという。
帝政圏側にしてみれば、破格の条件といっても過言ではないだろう。
「第一皇帝陛下のご意思は、その限りではないですが。とはいえ
普段よりもわずかながらに語勢を弱めてそう告げるティーに、私もただ、頷き返すことしかできなかった。
――と、そんな折のこと。ティーの携帯端末が振動して、通信の受信を告げていた。
音声通信で、発信者は登録外。怪訝な表情で端末を取り上げて耳元に当てたティーだったが、数秒ほどしてその表情が険しさを帯びる。
「代わります」
そう呟いて、こちらに携帯端末を手渡してきたティー。
受け取って耳に当てると、聞こえてきたのは。
『やあ、さっきはどうも、【死神】――A-009は、あれから元気かな?』
名乗らずとも、その声だけで分かった。アカデミーの研究者を名乗るあの男、カール・マイセンその人だ。
何の用かと問う私に、彼はくく、とくぐもった笑いを零して返す。
『そんなの決まってるだろう? 話し合いの続きを、と思ったまでさ。……顔を合わせたらまた何をされるか分からないから、口頭だけで失礼するがね』
話し合うことなどないと、そう突き返そうとする私にしかし、『まあ待てよ』と彼は言葉を重ねた。
『会談での話し合いの内容は、君たちも知っているだろう? そちら側も、彼女の引き渡しに十分なメリットがあることは理解しているはずだ。君一人が拒否したところで、もう逆らうことはできない――分かるはずだろう?』
そう告げた彼に、私は質問を返す。
連邦は、一度は聖女を破棄し、「なかったこと」にしようとしたはず。だというのになぜ、今更になって九重にそこまで拘るのか。
そんな私の問いかけに、マイセンはどこか小馬鹿にするように鼻を鳴らして返した。
『……聖女。我が師ランダウが人智で辿り着いた、神の遺児たち――その中でもひときわに美しく研ぎ澄まされた、兵器の形で生まれた兵器。それが
そう語り終えると、マイセンはどこか熱に浮かされたような、恍惚としたような声音のまま『それに』と継いだ。
『この件は、彼女自身にとっても良いことなんだ』
どういう意味かと訊ね返す私に、マイセンはあくまではぐらかすように、こう続ける。
『なあ君、さっきの彼女の様子――聖痕の進行が、だいぶ進んでいるんじゃないかい? ……ああそうだろう、やっぱり! 分かるさ、あれらを造ったのは僕たちなんだから。そして、だからこそ――僕たちならあれを直すことだって不可能じゃない』
戯言を、と突き放すことはできなかった。
少なくとも連邦側の方が「聖女」についての研究データをより多く保有していることは事実である。あのA-099が所持していた試作型の抑制剤――効果は不十分であるとはいえ、少なくとも連邦はあんなものを製造するに至っていた。
一方こちらでは、まだあの不完全品程度のものですらまともに再現できていないのが現状だ。
……そんな私の内心の葛藤を見抜いたように、通話口の向こうでマイセンは笑う。
『我々も忙しいものでね、悪いが返還の期限は明後日だ――それまでにあれを、指定する座標まで運んでくれたまえ』
九重を明け渡すことに同意したわけではない。そう返す私にしかし、マイセンは含み笑いをこぼしながら続ける。
『言っただろう、僕は平和主義者でね――一番平和的にこの問題を解決できる方法を提示してあげてるってこと、忘れないでほしいな。君だって、そのちっぽけな箱庭がもう一度焼かれるのはお望みじゃあないだろう?』
そんなマイセンの言葉に、私はそれ以上何も言葉を発せなくなる。
九重を明け渡さなければ、実力行使も辞さない――奴はそう言っているのだ。
そんな私の沈黙を了解と取ったのか、
『では、これで。賢明な判断を期待しているよ、【死神】』
そんな言葉を最後に、一方的に通話が閉じられる。
通信が終了したことを悟って、やがて隣で聞いていたティーが口を開いてきた。
「……それで、どうするおつもりで?」
その質問に、私は即座に答えようとして――けれど出かかった言葉を、中断したのは扉の開く大きな音だった。
「簡単なことです。私が行けば、済むことでしょう」
かつん、と杖先が床を打つ音とともに、入ってきたのはふたつの影。
部屋の入り口に立っていたのは――九重と、彼女を支える八刀の姿だった。
体は大丈夫なのかと問う私に答えることなく、八刀から離れてどこかふらつく足取りのままこちらに歩み寄る九重。
私を、ティーをじっと見つめながら、彼女は静かな口調のまま告げた。
「お話は、聞かせてもらいました。連邦は私を取り戻したがっていて、それができなければ皆さんに手を出すと――そう言っているのでしょう?」
その言葉に、答えない。けれど九重はそんな私の態度を、肯定と受け取ったらしかった。
何も言わずに座り続ける私を見て肩をすくめながら、彼女はいつもどおりの、いたずらっぽい笑みを浮かべながら続ける。
「やれやれ、モテる女は辛いです。
そうこぼしながら私の前まで来て、九重はゆっくりと頷いてみせた。
「答えは、ひとつしかありません。私を連邦に返却すれば、それだけで何もかもが丸く収まります。ごくシンプルで、わかりやすい話じゃないですか」
返却。そう形容する彼女の言に嫌なものを感じて、私はただ首を横に振る。
それは駄目だと、ただ否定することしかできないけれど、そうしなければ何もかもが駄目になってしまうような、そんな気がしたのだ。
「でも――そうしないと、皆が」
「私も、賛成はできない」
そう抗弁しようとする九重の言葉を、加えて遮ったのは、八刀だった。
九重をじっと見つめて、やりきれない顔のまま彼女も言葉を重ねる。
「確かに、そうかもしれないけど。それでも一人を犠牲にして助かりたいなんて、そんなことは思わない。貴方だってそうだったから、あの時三七守を――たった一人で戦おうとしたあの子を助けに行った。そうでしょう?」
九重に対しては珍しい強めの語調でそう告げる八刀に、言われた九重の方もやや戸惑った様子で口をつぐみ。
そんな状況の中で、八刀は私を、九重を交互に見つめながら続ける。
「何にせよ、貴方だけで決めるべきでも、先生だけで決めるべきことでもない。私たち全員に関係することなんだから、皆で一緒に話し合うべき……そうでしょう、先生?」
その言葉は――この場にいる誰のそれよりも、正しく響いたように思えた。
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