■2――もうひとりの傍観者。その2
■
――だから私は、先生の後を、つけることにした。
久々に九重との時間を過ごした、その翌日の日曜。
やはり昨日と同様、聖女たちから隠れるようにして早朝からこそこそと出ていった先生の後を追って、私も外へと飛び出した。
まだ肌寒い、四月の早朝。学校の制服にカーディガンを羽織って、前を行く先生と五十メートルくらいの距離を空けながら私も歩く。
ただでさえそう人通りの多くない、閑散とした朝の街。帝政圏で支給された厚手の軍用コートを羽織った先生の姿は遠くからでもよく見えた。
物陰に隠れて後を追いながら、私はほんの少しだけ、胸がちくりと痛むのを感じる。
……こんなことをする前に、まずは直接問いただしてみてもよかったかもしれない。
そんな思いがよぎって――けれど私は首を横に振る。
私は別に、どうでもいいけれど。九重にあんな悲しそうな顔をさせるような人に、同情の余地などない。
それにどうせ訊いたところで、あの頑固な人がそう簡単に口を割るとは思えない。それに、そんなことはあり得ないだろうけれど……もしも本当に浮気とか、そういうことだったなら、絶対に本当のことなんて言わないだろう。
だからこれは、しょうがないことなのだ。そう自分自身に言い聞かせながら、私は前方の先生をじっと見つめる。
よろよろと、どこかおぼつかない足取り。私たちの前では見せないような、どうにも弱々しい歩様。
時折立ち止まり、壁に寄りかかって息を整えて歩くその姿は――今にも倒れてしまいそうで、思わず駆け寄って支えてやりたくなる。
体調でも悪いのだろうか? だとしたら、そこまでして行かなければいけないような用事でもあるというのか。
疑念を抱いているうちに、先生は再びゆっくりと歩き始める。
郊外にある私たちの孤児院から帝都の外周、人通りのそう多くない地区ばかりをしばらく進む。見失う心配がないのは結構だが、逆にこう人通りが少ないとバレるリスクも上がる。
付かず離れずの距離感を保ちながらしばらく歩いて、恐らく帝都をぐるりと横切るくらいは歩いただろう。
やがて先生は、郊外にあるひとつの施設の前で立ち止まった。
工場か何かだろうか。高い鉄柵で囲まれた、大きな施設。けれど一方で、外観からして既にだいぶ傷んでいて、恐らくもう長い間放置されているのだろうと見て取れる。
正面の門扉には鎖が掛けられていて(と言っても腐食が進んですでに千切れている)、「立入禁止」の掛札まで貼られている。
どこからどう見ても、ただの古びた廃工場――といったふうの場所だ。
また、休憩だろうか? 私のそんな予想と裏腹に、けれど先生はしばらく門前で立ち止まっていたかと思うと、鎖の掛かったその正面扉を押し開けて中へと入っていく。
真っ暗な工場の入り口に消えていったその後姿を見届けると、私は呆然としたままそこに立ち尽くしていた。
「……なんで、先生、こんなところに」
こんな場所だ。誰かと逢瀬――という線は間違いなく消えただろう。それだけでも九重に報告すれば安心しそうではあるが……。
「いや、そうじゃなくて」
想定外の状況のせいで、思考が変な方向に行っていた。そういう問題じゃない。
むしろ状況は、よりわけが分からなくなったと言うべきだろう。
気を取り直して、私は周りに人気がないのを確認すると工場前の鉄柵へと近づいて門扉に触れる。
先ほど先生が押した時には重い音を立てながらも素直に開いていたというのに、どうしてか今度はいくら押してもびくともしない。
不思議に思ってよくよく見てみると、扉の一部にパネルのようなものが組み込まれている。
それは――この古びた鉄扉の中において異質なほどに真新しいものだった。
触ってみるが、画面には「認証エラー」と表示されるばかりで何も起こらない。つまり、しっかりセキュリティは生きた施設であるということ。
そして――先生は、どういうわけかこの施設に立ち入ることを許可されている、と。
「どういう、こと?」
分からない。情報がなさすぎるから、推測のしようもない。
だが――胸騒ぎ、とでも言えばいいのだろうか。なんとも表現しようのないような嫌な予感を感じて、私は閉じられた扉のその奥へと目を凝らす。
目を、凝らして――
「そんなことで貴重な秘蹟を使うのは、およしになった方がよいかと」
不意に背後から投げられた声に、私は驚きのあまり肩を震わせた。
「っ、誰!?」
弾かれたように後ろを振り向くと、そこに立っていたのは見覚えのある金髪の女性。
帝政圏の情報部に属しているという、「ティー」と名乗る人物だった。
「あな、たは」
「おや、貴方がたにはまだ名乗っていませんでしたっけ。『ティー』と、そうお呼びいただいて結構です」
一体いつからいたのか。気配すら感じさせないままに彼女はこちらへ近づいてくると、ほとんど同じくらいの目線の高さで私をじっと見つめる。
聖女たちとはまた違う、不思議な色合いの深緑色の瞳。おおよそ感情を読み取ることのできない表情のまま、彼女は私に向かってぽつりと口を開いた。
「それよりも八刀さん……でしたか。貴方は一体、何故ここに?」
彼女の問いに、私はうっと詰まる。正直に言えば鼻で笑われるだろうが、かといってこの奇妙な状況下で嘘をつくのも、あまり良い結果を生むとは思えない。
逡巡の後、結局私はありのままを話すことにした。
結果。
「……浮気調査ですか。それはまあ、ご苦労なことです」
鼻で笑われすらしなかったのが、かえって恥ずかしさを増長させたような気がする。
顔が熱くなるのを感じながら、私は誤魔化すように言葉を続けた。
「それより。何なの、この工場は。あの人は一体、こんなところで何を――」
「さあ、知りません」
「嘘はやめて。情報部の人間が、なんでもないのにこの朝っぱらからこんなところにいるはずないでしょう」
「朝の巡回です。この頃は停戦で浮かれた連中が羽目を外すことも多いので、私たちのようなものまで駆り出されるのですよ」
下手くそな嘘にもほどがあった。とはいえ、一つ分かるのは――どうやら彼女が微塵も口を割るつもりがないらしいということ。
ならば、私の出方も決まる。
もう一度意識を目に集中させて、廃工場の方を「視る」。
「事象視」――五感を増幅させることで世界そのものを認識する秘蹟。その力を、使おうとして――
「……ああ、分かりましたからそれはやめて下さい」
ほんの少しだけ慌てた声で、ティーが私の手を掴む。そんな彼女の目を見返しながら、私は秘蹟の発動をとりやめた。
「そんなに、あの中を知られては困るってわけ?」
「いえ。むしろこんなことで貴方に秘蹟を使わせてしまったら、そちらの方が大問題です。貴方がたの身の安全を守ることが私の役目ですから。……貴方がそこまで知りたいというのであれば、私としてはお教えするしかありません。けれど」
そう言って、珍しくため息などついてみせると、彼女は私の手を離してもう一度こちらを見つめながら続けた。
「このことを隠したがっているのは、他でもない、ナイです。あの人が隠したがっている秘密を、それでも貴方は、暴こうと?」
どこか責め立てるようなその物言いに、私は言葉を詰まらせる。
彼女の様子を見るに、きっとこれは、
先生の秘密。そこにティーが関与しているということは、これはつまり、個人の範疇を超えたこと。
帝政圏。そして
それを――こんなふうに暴いてしまっていいのか。先生の隠したがっていることを、無理矢理につまびらかにしてしまっていいのか。
そこまで考えて、けれど頭に浮かんだのは、あの日――去年の清星節の夜のこと。
あの日。先生はずっと隠し続けていた秘密を全て、私たちに打ち明けてくれた。
自分が、九重を殺すために派遣されてきたこと。聖女という存在は見限られていて、私たちはもうとっくに、処分される宿命にあったこと。
隠していたことを何もかも伝えて、けれどあの人がそうしたのは、私たちを助けるためだった。
……だから、何となく。
何の根拠もないけれど、私はこう思うのだ。
あの人がこうして、私たちに何も打ち明けてくれないということは――今も私たちのために、たった一人で何かを抱え込んでいるんじゃないかと。
見たこともないほどに弱った姿。あの日以来、ほんの少しだけ変わってしまった先生。
何の根拠もないけれど、先生がそうなってしまった理由が、この先にはあるんじゃないか。
そんな気がして、私はティーへと向き直ると、静かに頷く。
「それでも私は、知りたいわ。あの人が、私たちに何を隠しているのか。『前に進むこと』……それを私たちに教えてくれたのは、あの人だもの」
そんな私の答えに、ティーはただ、静かに頷いて。
「……そうですか。なら、ご案内しましょう」
意外にもあっさりと、そう言って門扉のパネルに手を触れる。
解錠音がして、重い音を立てながら開く門。さっさと歩いていってしまうティーの後を追いかけながら、私はその背中に問う。
「ね、ねえ。頼んでおいてなんだけれど、いいの? そんなにあっさり……」
「言ったでしょう。貴方に秘蹟を使わせるくらいなら、こうした方が我々にとっても都合がいいんです。……それに」
緑色の眼光をこちらに向けて、彼女は静かにこう続けた。
「私としてはむしろ、貴方には知るべき権利があると――そう思っておりましたので」
――。
廃工場と思っていたその建物に足を踏み入れると、ティーが案内したのはその地下だった。
埃や廃材の散乱した地上階とは打って変わって、地下へと続く階段は真新しい。
ティーの背中を追いかけて、緑色の足元灯が続く狭い通路を進みながら私は口を開いた。
「ねえ、ティー……さん。何なの、ここは……」
「『帝都第三研究所』。第一皇帝陛下の勅令で神学、第二哲学分野の研究を行っている場所です」
「皇帝陛下の、って……だったらなんで、こんなふうに隠れるようにして」
私の問いかけに、ティーは振り向きもせずにぽつりと呟く。
「隠さなければいけない研究を、しているからですよ。……詳しくは、この先にいる人間に訊くのが早いかと」
丁度そんな話をしていると、やがて目の前に大きな金属扉が見えてきた。
手慣れた様子で脇のパネルを操作してティーが扉を開けると、その中にあったのは無数のモニター・計器類が置かれた大きな部屋だった。
表示されている無数の数字を紙に書き込む、白衣姿の研究員たち。そんな彼らの中にあって一人、真ん中の椅子に座って微動だにせずモニターを注視していた痩せぎすの男が、こちらに気付いて椅子を回して振り返る。
「……おや、お前か。それに……そっちは――『聖女』じゃないか。どうしたことだ、これは一体」
あまり驚いた様子もなくそう呟く男に、ティーは淡々と肩をすくめて返す。
「社会科見学のご希望がありまして」
「そうかね。てっきり新しい検体かと――いや、それはないな。あれ
がそんなことを許すはずもない」
くく、と引きつったような笑い声を零しながらそう呟く男。なんとなく、「工廠」にいた頃に見たアカデミーの研究員たちを思い出すようで、あまりいい気はしなかった。
だが――一方で、気になることがあった。
「貴方、私を知っているの? それに……検体、って、どういうこと?」
「おっと、なかなかに耳ざといな。忘れてくれたまえ、戯言だ」
「ヴィル。そんな雑な誤魔化しが効くほど愚かでもないですよ、彼女は」
どこか咎めるような響きを交えてティーがそう告げると、ヴィルと呼ばれたその白衣は少しだけ目を見開き、それから苦笑を浮かべながらこちらに軽く、頭を下げた。
「それは失敬、お嬢さん。しかし……だとしても、ティー。それじゃあボクは何もかも、洗いざらいこのお嬢さんに話してもいいって言うのかい?」
「そこは、貴方にお任せします。余計なことまで喋ろうとするなら、口を封じるだけなので」
「うわ、怖いな」
あまりそうは感じさせない軽い調子でそう呟いた後、ヴィルは椅子をきしませながらこちらに向き直って足を組んだ。
「では、お嬢さん。改めて自己紹介だ。ボクはヴィル、偉大なる第一皇帝陛下の勅命でこの第三研究所の責任者をしている、しがないマッドサイエンティストさ。訊きたいことがあるなら、殺されない範囲で答えてあげるよ」
どこか芝居がかった口調でそう告げた彼に、私は少しの躊躇の後、質問する。
「ねえ、貴方は……私たちの先生を、知ってる? あの人は今、どこに――」
「ああ、なるほどね。それなら見たほうが早いだろう」
私のそんな問いかけに、彼は小さく頷くと、手元のリモコンで背後のモニターを切り替える。
映し出されていたグラフや数字の羅列が消えて、表示されたのはどこかのカメラ映像。
真っ白な、広い部屋。
その真ん中に置かれた簡素なベッドの上――そこに先生は、いた。
「……せん、せい?」
いつも見慣れた白衣姿ではなく、身にまとっているのは私たちが身体検査の時に着るような簡素な病衣。
いつもは白衣で隠れてほとんど見えない、白い左腕。大人にしてはほっそりとしたその腕には点滴針が刺さっていて、側の架台へと幾本ものチューブが繋がっている。
そんな思いもよらない光景を前に、私は困惑しながらヴィルを見る。手元のマイクのスイッチを入れながら、彼は淡々と、こう言葉を発した。
「ナイ。準備はいいかな、それじゃあまた再開だ――『
そう言って彼が手元のボタンを押した瞬間。あたりのモニターがいくつかの数値とグラフを映し出す。呼吸数に脈拍、心電図波形。恐らくそれは先生の。
一定の間を推移していたそれらの数値は、しかし数秒ほど経つと、急変を示した。
正面モニターに視線を戻す。白い部屋。ベッドの上に座っていた先生が、右腕を抑えて俯いている。
音声は聞こえない。表情も仮面のせいで見えないが、どこか苦しげにも見える。
……そしてそんな私の感覚は、間違いではなかった。
さらに数秒ほどが経ったところで、先生はベッドに突っ伏して、喉をかきむしり始めたのだ。
身の置き所がなさそうに、肩で息をしながら一心不乱に喉を、胸をかきむしって。手が血塗れになっても、それをやめようとしない。
あまりにも尋常でないその様子を前に、私はヴィルへと視線を遣る。
「ちょっと、先生に一体何を――」
「うん? 言ったろう、研究中の『抑制剤』を投与したのさ」
「『抑制剤』って――」
こちら側に来た後、先生が聖痕症候群の研究をしているという話だけは聞いていた。
あの亡命の最中に戦ったA-099……彼女が所持していたという、聖痕症候群の症状を抑えるための薬。
それ自体は不完全なものだったけれど、その研究を進めていけば私たちの体も――よくなることこそなくとも、これ以上の症状の進行を防ぐことはできるかもしれないと、そうあの人は言っていた。
……だけど。
「だからって、なんでそれをあの人に」
「アレもまた、君たちと同じモノだからさ」
「おな、じ?」
何を言っているのか。理解が追いつかない私をよそに、ヴィルはモニターを見ながら小さく息を吐く。
「ああ、また失敗か」
その言葉を受けて、先生の映っているモニターに視線を戻す。そこで私は、言葉を喪った。
先生のいたベッド。真っ白だったそれは、おびただしいほどの量の血で、赤黒く染まっていて。
そしてその中央で、先生が倒れていた。
その胸元に自ら――いつの間にそこにあったのか、真っ黒な剣のようなものを突き立てて。
「…………っ、先生!?」
「ああ、聞こえんよ。今はマイクは切ってるから」
「何でそんな、呑気に――あんなに、血が……っ」
「ああ、ありゃあまた死んだかな」
そんな何気ないヴィルの呟きに、私は耳を疑った。
「また、って。何、それ。何を、言って」
「まあ、見ていたまえ。そろそろ息を吹き返す」
そう言ってヴィルがモニターを指差した、丁度その時。
先生の胸に突き立っていた黒い剣が、辺りに飛び散っていた真っ黒な血が、霧散して消えて。
何事もなかったかのように――先生はベッドでゆっくりと、その身を起こしたのだ。
「……なんなのよ、これ」
混乱でそれ以上、言葉が出てこない。何を訊けばいい? もはやそれすら、理解の外で。
そんな私を見て、口を挟んだのは傍らで沈黙していたティーだった。
「……あの日。貴方がたが連邦からの亡命を決行した、あの日に。あの人は一度死んで、『ナイ』と呼ばれる神をその身に宿したのです」
静かな調子のその言葉を、私は最初、信じることができなかった。
「死んだ、って。冗談でしょ。何を言って」
「ええ、死んだ……というのは語弊がありました。正確に表現するならば、『人間であることをやめた』――と、そうでも言えばいいでしょうか。どちらにせよ人としては死んだようなものですから、あまり差はありませんが」
そう淡々と語りながら、ティーはその緑色の瞳でじっと私を見つめて続ける。
頭がぼーっとして、聞こえているのか聞こえていないかも曖昧だったけれど、内容だけはどうにか理解することができた。
曰く、あの日……私たちと別れた後で先生は、追ってきたA-099の攻撃を受けて重傷を負ったらしいこと。
その死の間際に、けれど九重を、三七守を守るため、先生はひとつの選択をしたのだということ。
それが――人であることを捨て、【外なる神】と呼ばれるモノの力をその身に宿す道で。
ゆえにその体には私たちと同じように、消えない聖痕が刻まれたのだということ。
「そして、ナイは自分の体を使って抑制剤の研究を進めることにした。聖女と同じように【神】を取り込んだ体であれば薬の効果も副作用もよく分かるし――何より【神】と深く結びついたアレの体は、多少の致命傷など物ともせずに再生できる。いやはや、実に合理的で、第二哲学的な発想だよ」
眉一つ動かさずにそう告げたヴィルに、私はようやく、唇を動かして言葉を返した。
「……なんで。なんであの人は、言ってくれなかったの」
「貴方がたの、ためです」
答えたのは、ティーだった。
思わず睨みつける私に、ティーは動じた様子もなく淡々と続ける。
「人の身で【神】の力を取り込んだ代償は、当然ながら高くつくもの。全身の遺伝子はその構成情報をデタラメに引っ掻き回されて、致命傷レベルの損傷からの急速再生は膨大な量の転写複製エラーを生んだ。結果として、あの人の体は――もはやいつ死んでもおかしくないほどまでに壊れ果ててしまった」
「そん、な……嘘でしょ」
「こんな嘘をついて、私が何か得をするとでも?」
そんなティーの言葉に、私は何も言い返せずに俯く。
理解が、まるで追いつかない。
先生が、私たちと同じように異能の秘蹟をその身に宿して。そのせいで、今にも死ぬかもしれない体だなんて。
そんなことを知って、私は一体、どうすればいいというのか。
いつの間にかきつく噛み締めていた唇から、鉄の味がにじむ。胸がどきどきして、息が苦しい。呼吸がうまくできない。
頭の中で、でたらめに色んな顔が浮かぶ。まだちびっこの、下の聖女たち。六花に三七守、そして九重。
そうだ、九重。
「……九重に、なんて言えば、いいのよ」
「ご当人に、訊いてみては」
そんなティーの言葉に、はっと顔を上げると。
そこにはいつの間にか、先生が立っていた。
仮面をつけたままだが、息を切らせているのが分かる。急いでここに移動してきたのか、血塗れの病衣の上に白衣を羽織っただけのなんだかちぐはぐな格好だ。
わずかに責めるような様子で――と言っても仮面のせいで分からないが――ティーやヴィルを一瞥した後、先生は無言のまま、私へと向き直る。
そんな先生を前にして、私も何を言えばいいのか分からず……やがてこう、切り出した。
「全部、聞いた。全部、本当、なの?」
ややあって、ぎこちなく頷く先生。それだけで、十分すぎた。
心の中がぐちゃぐちゃになって、何を言えばいいのかも分からなくて。
ぎゅっと拳を握りしめながら、私は声にならない言葉を、吐き出そうとする。
なんで言ってくれなかったの、なんで隠していたの。
そう言いかけて――けれどそんなこと、訊くまでもないから、私はぐっと言葉を呑む。
分かっていたのだ。正直に話せば、今の私みたいになるって。
だから先生は、一人で抱え込んだ。そのまま墓まで持っていくつもりで、背負うことにしたんだ。
「……先生」
なんだ、と。いつも通りに愛想のない、だけどほんの少しだけ動揺したような声。
そんな先生を正面から見つめながら、私は静かに問う。
「このことを、九重は知ってる?」
答えは、ない。けれどそんなのは、答えを言っているようなものだった。
「あの子はきっと、貴方がいなくなったら生きていけない。……私たちだって悲しいけれど。きっとあの子はもっと、もっともっと悲しむ。それでも貴方は、このまま――最期まで何も言わないで、あの子と別れるの?」
我ながら、ひどいことを言っていると自己嫌悪に苛まれそうになる。
九重を楯にして、言いたい放題に言って。……この人がそれをよしとできる人ではないことくらい、分かっているのに。
きっと悩んで、悩んだ末にこうしたのだということくらい、分かりきっているのに。
私の問いかけに、先生は何も言わずに沈黙して。
やがて返ってきたのは――短い謝罪の言葉がひとつ。
「どうしても……九重にも、言えないのね」
俯いたまま、先生は何も言わなかった。
そんな先生をじいっと見つめて。私は胸の奥底で渦巻く色んな言葉を押し込めながら、小さく息を吐いて告げた。
「なら、私も……ここで知ったことは、誰にも言わない。だけどその代わりに、ひとつだけ……交換条件」
そう言いながら、私は先生の仮面の鼻先に指を突きつけて、こう続ける。
「九重と、デートして」
そんな私の宣告に。側で見ていたティーやヴィルが、いささか驚いた様子で目を丸くする。
仮面の奥に隠された先生の表情も、きっと同じだろう。秘蹟など使わずとも分かる。
言った後でなんだか急に気恥ずかしさが押し寄せてくるのを誤魔化すように、私は慌てて言葉を重ねた。
「先生の体のことは、分かった。先生に、時間がないっていうことも。……けど、それでもね。九重は……あの子は貴方のこと、いつも待ってるのよ。本当はもっと一緒にいたいはずなのに、貴方の邪魔にならないようにって、たった一人で――あの箱庭で待ってるの。だから」
そんなこと、言わなくたってきっと先生は分かっている。
だけれどあえて、そんな分かりきったことを言葉にして――私は先生に、突きつける。
「だから、一日でいい。私たちのためじゃなくて、あの子だけのために、時間を使ってあげて。……残り時間が少ないのは、あの子だって、同じはずなんだから」
そんな私のわがままに、その場の誰も、何も言うことはなかった。
――。
ティーに送られて、先生よりも一足先に孤児院まで帰ってきた後。
何事もなかったように自室に戻ると、部屋着に着替えることもせずに私は二段ベッドの上に登って倒れ込んだ。
疲れのせいか、体がとにかく重い。以前秘蹟を全開使用した時ですら、これほどまでじゃなかったように思う。
窓から差し込む午後の日差し。暖かくて明るいその光とはまるで逆の、まっくらな気持ちのままで毛布を抱きしめる。
何もする気が起きずに、ただ空の色が少しずつ変わっていくのだけを目の端で見つめながらぼうっとしていると――やがて空の端が紫色を帯び始めたくらいの頃に、扉を勢いよく開ける音がした。
「八刀さん、八刀さーん?」
九重の声だった。ずれていた眼鏡の位置を直しながらのろのろと顔を出すと、下にいた九重が私の顔を見てぱっと表情を明るくした。
「ああ、そこにいらっしゃいましたか八刀さん!」
「どうしたの、九重……」
「驚かないで下さい。なんとあの先生がですね、来週一緒に出かけよう、なんて言ってきたんですよ! これってアレですよね、噂に聞く『デート』というものですよね!? ね!? ね!?」
今まで見たことがないくらいに生き生きとした表情ではしゃぎ回る彼女に、私はあいまいな笑顔を浮かべながら、小さく頷く。
「……そうね」
「ああ、ですよね、やっぱり! どうしましょう、どうしましょう。いきなりで、一体どうすればいいか――まずはお洒落して、それからそれから、万一の時のために下着もちゃんと……ああ、どうしましょう八刀さん! 時間が足りません!」
「大丈夫よ。万一にもそんな展開にはならないから」
かつてないほどに大慌てしながら右往左往する彼女に、そう苦笑を返して。そんな笑顔の仮面の裏側に、ほんの少しの後ろめたさを隠しながら私は思う。
全てが始まる前の、あの時の止まった箱庭で。
そして、何もかもが壊れてしまった、その後も。
きっとあの人も、ずっとこんな気持ちを抱え続けていたんだろうな――と。
■
帝都中央ホテル。
朝食のためレストランに集まった宿泊客たちの視線は皆、一様にあるひとつのテーブルへと注がれていた。
そのテーブルに腰掛けていたのは、一人のスーツ姿の男だった。
後ろで束ねた長い髪は輝くような銀色で、眉目秀麗な顔立ちには古風な片眼鏡を掛けている。
一見すればどこかの貴族のようにも見える佇まいで、ナイフとフォークを優雅に使って食事を進めている彼の姿。
それは確かに人目を引くものではあったが、しかし人々の注目の理由は彼ではなく、その周りに立つ黒衣の人影にこそ注がれていた。
身長は、男よりもやや低いくらいか。頭部全体を覆うような鈍色の仮面に、漆黒色の軍用コート。そんな容姿で背格好すらほぼ同じ人影が二人、食事中の男の両脇に侍っている。
まるで彫像か何かのように微動だにしない二人に囲まれて、けれどそれが当たり前であるかのように優雅に食事を続け――とその時、不意に手元からナイフが滑り落ち、床へと落ちる。
かつん、と床に当たって跳ねたそれを、俊敏な動作でもって拾い上げたのは黒衣の片割れ。
無言のままに拾い上げたナイフを差し出した黒衣に、銀髪の男は「ああ」と返事を返すと――受け取ったそのナイフをくるりと逆手に持ち、次の瞬間、それを躊躇なく黒衣の手めがけて振り下ろす。
だん、と鈍い音が響き、周りの客たちから悲鳴が漏れる。
手のひらをテーブルに縫い留められた黒衣に向かって、銀髪の男は薄ら笑いを浮かべながら告げる。
「ダメじゃあないか、落ちる前に拾ってくれなきゃあ。床に落ちたナイフなんて、穢くて使えたものじゃない」
ナイフを握る手をぐりぐりと捻って。けれど刺された黒衣は、呻き声ひとつ上げずにされるがままにしている。
そして――何より奇妙なのは、真っ白なテーブルクロスに血の一滴すら滲んでいないことだった。
「やれやれ、これじゃあまだ、調整が必要か……うん?」
何やら一人呟いていた男に、横からもう一人の黒衣が懐中時計を差し出してくる。
その示す時刻を見ながら、男は「ああ」とつまらなそうに声を漏らした。
「もうこんな時間か。急がなくては、今日は大事な、とても大事な日だからね」
ただ沈黙を貫く黒衣を醒めた目で一瞥した後、銀髪の男は黒衣の手に刺していたナイフを引き抜いて――それからやがてその刃先をべろりと舐めると、皿に乗っていた肉を切り分ける。
「うん、いい味だ」
舌鼓を打ちながらあっさりと残りを平らげると、ゆったりとした動作で席を立つ男。
横の黒衣が差し出したコートを羽織りながら彼は小さく頷いて、うっとりと呟く。
「さぁて、お腹も膨れたことだし、行くとしようか。愛しき彼女を、迎えにね」
緋色で染め抜かれたそのコートは、色こそ違えど連邦軍の高級士官用のそれで。
さらに言うなら――その肩口に縫い付けられていたのは黒地に緋色の菱形模様。
「アカデミー」所属であることを示す、意匠であった。
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