■1――壊れかけの舞台の上で。その1



■1――壊れかけの舞台の上で。


 目を覚ますと、最初に見えたのは白い天井だった。

 「家」の、診察室も兼ねた自室と少し似た空間。けれど周りを一瞥すると――広い金属製の室内にただぽつんと、ベッドだけが置かれている。

 見覚えのない場所だ。……いや、というよりは記憶がしっかりとまとまらない。

 自分の格好を見ると、着ているのはところどころに黒い染みのついた、簡素な貫頭衣。

 腕を動かそうとすると、なにか引っかかるような抵抗感がある。見ると左腕には点滴針が留置されていて、ベッド脇の点滴台には透明の液体が入った輸液パックが吊るされていた。

 病院のような。けれどそうと言うには奇妙な部屋。

 全身をぼんやりと包むのは、粘質の沼の中にいるような不快感。ふと、軽い嘔気から顔を押さえて――すると手に触れたのは硬質な感触だった。

 仮面だ。外してみると、そこにはびっしりと血のような、けれど血よりもどす黒い色をした液体がこびりついている。

 それだけではない。よく見れば今いるベッドのシーツにも、おびただしい量の黒がこびりついているのが見て取れた。

 何だ、これは?

 私の中にそんな疑問が浮かんで――するとその時だった。


『――。ナイ。聞こえるかね、ナイ』

 真っ白な部屋に、声が響く。呼びかけられたその名を聞いて、記憶が揺さぶられる。

「ナイ」。それは――私が帝政圏で名乗っている偽名だ。

 声の出処はどうやら室内のどこかにあるスピーカーらしい。よくよく見れば、高い天井の四隅にはこちらを注目するカメラも設置されている。

 その状況を確認して、そこで私はようやく、私自身のことを思い出す。

 ……ああ、そうだ。私は。

『少しまだ、見当識の混濁がありそうだが……まあいいだろう。全身の再生状態も問題ない』

 再び、先程と同じ声。壮年の男性のようなその声と同時に、輸液ポンプの電源が点滅して。

 

『……さて。実験を、続けようじゃないか』

 透明な薬液が送液され、体内に侵入した、その瞬間。にわかに凄絶な激痛が全身を駆け巡るのを感じて、私はたまらず声を上げる。

 まるで融かした銅を血管の中に流し込まれたかのような、灼熱。

 脳が受容しきれないほどの、それはもはや感覚の破壊。

 のたうち回る私の耳に聞こえるのは、獣の咆哮のような絶叫。

 ……それが自分の喉から発せられたものと理解したのは、数秒遅れてからだった。

 ベッドの上で転げ回りながら、私は首を、腕を掻きむしって、全身を駆け巡る灼熱に耐えようとする。

 掻爬した皮膚から漆黒の血液が吹き出して、けれどそんなことで痛みが収まるわけもない。

 ならどうすればいい。

 どうすればこの苦しみから、逃れられる――

 無我夢中で伸ばした右手が、自動化された思考に導かれて出したのは、ひとつの結論やいば

 右腕と同じような、闇を固めたような漆黒色の剣。

 それを。

 私は。


     ■


 ……い。

 おい。


「おーい、生きてるか、センセイ」

 聞こえたその声に、私はうすぼんやりと目を覚ます。


 先程と同じ、白い天井。けれど今は多少なりとも、先程よりは意識がはっきりとしていた。

 起き上がってもう一度、周りを見回す。着衣は先程まで着ていたのと同じ貫頭衣だが、汚れはない。ベッドのシーツも、そして枕元に置かれていた仮面も、綺麗に汚れが拭われていた。

「よう。お目覚めの気分はいかがかな」

 再び聞こえたのは、先程も聞こえていたあの壮年の男性の声。

 仮面を着けながら、私はベッドサイドに立つその声の主へと視線を向ける。

 灰色の髪の、痩せぎすの中年男。よれよれの白衣に、深い隈が刻まれたその顔――見るからに怪しげな風貌のその男の胸の職員カードには、しかし第一皇帝直属を示す「橄欖オリヴィエを抱いた竜頭の鳩」の紋章が印されている。

 帝都中央神学研究所、研究員補佐。ネームカードに印字されているのはその肩書と、あとは「ヴィル」という符丁名だけ。

 彼――ヴィルは帝政圏においても有数の神学・第二哲学の権威であり。

 更に言えば「私たち」の、協力者の一人でもあった。


「どこか具合のおかしいところはあるかね。……と言ってもおたくの体の場合、一般論で言えばおかしいところしかないわけだが」

 彼の言葉に従って、軽く体を動かしてみる。……少し動いただけで全身が悲鳴を上げるのは、いつものこと。ただ、裏を返せばそれだけで、至って普段通りということでもあった。

 大丈夫だと伝えると、彼は大仰に肩をすくめてシニカルに笑う。

「そうかい。大丈夫。大丈夫、ね。その状態の何が大丈夫なのかは分からんが、当の本人が言うならそうなんだろうさ」

 死んだ。彼の言葉に、私の中でようやく、今までの全ての記憶がひとつなぎになる。

 ……そうだ、私は確か一度、死んだのだった。

 この「実験」の最中。全身を襲うあまりの激痛から逃れるために――自ら自分の心臓を貫いて死んだ。それが、つい今しがたのこと。

 けれどこうして何事もなかったかのように起きて、動いている。

 ……質(たち)の悪い、けれど他ならぬ私自身がと望んだ、神の秘蹟によって。


――。


 聖女。連邦軍部特殊神学機関「アカデミー」によって生み出された、新たなる人類。

 「外なる神」と呼ばれる異形の星外生命体の遺伝子を組み込まれ、「秘蹟」と呼称される異能の力を得た彼女たちは、「人」としてではなく「兵器」としてその存在を定義され――けれどその構造的欠陥から、その存在理由を剥奪されることとなる。

 「箱庭」。そう呼称された秘匿施設に押し込まれ、籠の中の鳥としてその短い生を送っていた聖女たち。

 薄氷の上にあった彼女たちの命運を決定づけたのは、1942年12月25日。長きにわたる二大勢力の戦争が停戦を迎えた、その日であった。

 人としての存在を剥奪された、兵器しょうじょたち。遺伝子改造によって造られた彼女たちの存在はすなわち、連邦の犯した「人道に対する罪」そのもの。

 故に連邦は決断した。聖女たちを――今なお残る35体の兵器の存在を、なかったことにする選択を。

 故に私たちもまた、決断した。

 彼女たちを――前を向いて生き続ける35人の少女の命を、守り抜く選択を。


 敵国である帝政圏への亡命。そんな無茶を、けれど少女たちは成し遂げた。

 襲い来る運命に抗い続けて。数多の犠牲を払い続けて。

 彼女たちはようやく、辿り着いた。

 箱庭の小鳥は、空へと羽ばたいたのだ。


 ……だから。


――。

「だからってそんな体になるというのは、ボクとしては理解しかねるがね」

 どこか嘲るようにそう呟いて、ヴィルは私を見る。

 正確には、私の右腕――闇を固めたようなその、奇妙な腕を。

「【外なる神】の体細胞を直に体内に取り込んで、人間やめて。挙げ句には取り込んだ【外なる神】に体中を食い潰されて死にかけだ。……おたく、ひょっとしなくても相当、バカだろう」

 私を指さして、どこか責めるような響きの言葉を投げかけるヴィル。

 彼を見返して――私はしかし、何も答えない。


 聖女たちとの逃避行の最中。深手を負って死に瀕した私は、【外なる神】の力を受け入れることで命を繋いだ。

 人智を外れた【神】の秘蹟。斬り落とされた腕を、砕かれた足を、潰された心臓をすら瞬く間に再生させる――人ならざるものの権能。

 けれどそうした強大な力は、それゆえに人に、代償を求める。

 それは私においても、当然のように例外ではなかった。


 傷の修復に伴って、私の体内の細胞の大部分は【神】によって置換されていた。

 無限の再生能力を誇る、【神】の細胞。けれどそれは裏を返せば、「正常な死」を喪失した――人の身においては致命的なエラーを内包した部品でしかない。

 ……故に。

 体内で無限に増え続けた【神】の細胞は今や私の体のいたるところで腫瘍性病変を形成し、骨から臓器に至るまで――体中を蝕み、喰らい尽くすに至っていた。


 沈黙する私をじっと見つめて。それからヴィルは大仰にため息を吐くと、手に持っていた携帯型の情報端末を私に向かって放り投げる。

 受け取って見てみると、そこに表示されていたのはいくつかの薬物の組成データと、それらがもたらした「効果」の詳細記録だった。

「……まあ、おたくがそういうバカなお蔭でこうしても進むんだ。帝政圏いちのマッドサイエンティストを自認するボクからしてみれば有り難いカモ……いや、モルモットというものさ」

 そううそぶくと、彼は手慣れた手付きで私の左腕から点滴針を抜き、酒精綿で刺入部を抑えながら続ける。

 W。そう名乗る彼の素性を、私はほとんど知らない。

 だが以前、ティー――あの情報部の女性軍人から聞いた話では、何でも彼は帝政圏における生命哲学の権威だったのだという。

 だった、と。そう彼女が過去形で語ったのにはわけがある。

 W。彼はかつて――とある人体実験に手を染めたことを理由に、「第二哲学の冒涜者マッドサイエンティスト」の烙印を押されて表舞台からその名を抹消されたのだと、彼女はそう言っていた。

 そんな、追放された賢哲は――その仇名に相応しい狂気を浮かべながら、喉を鳴らして笑う。

「いやはや最初は、驚いたものだよ。【外なる神】を直に取り込むなんて冗談みたいな真似をして生きている奴がいたというのも驚きだが、それよりも――おたくときたら自分の体を使って『抑制剤』の治験をやると言い出したんだからな」

 抑制剤。聖女たちの体に内在する【外なる神】の遺伝子を抑制し、「聖痕症候群」と呼ばれる反作用を制御するための薬剤。

 その開発にあたって避けては通れないを、私は自ら、被験者として担うことを申し出た。

 いくら破壊されようと再生する無尽蔵の生命力。それを生かさない手はないはずだ――そう思っての判断だった。

「そのザマが、この無間地獄だけどな。試作品の投薬を繰り返して、その度に拒否反応で全身から血を吹いてぶっ倒れて――また生き返って、死んでの繰り返しだ。おたくはアレか、ひょっとして自傷趣味者マゾヒストなのかね」

 胡乱な目でこちらを見てくるヴィルに、私は首を横に振る。心外だ。

 ……そもそも。あの時はこうするしか、手はなかった。

 あそこで死ぬか、わずかばかりの可能性を掴むか。……そこに選択肢は、あってなかったようなものだった。

「ああ、そうかもな。確かに、生きるためなら人ってのは、なんだってするものさ。だが、おたくには――

 仮面の奥を見透かすかのように、ヴィルは狐のような目をすっと細めて続ける。

「今のおたくの体は、ボロボロだ。恐らくもう数ヶ月もしないうちに、全身の臓器が悪性腫瘍で食い潰されて、生命活動を維持できなくなる。【外なる神】の再生能力がどこまでのものかは分からんが……脳が、心臓が、何の生理的機能も持たない異常細胞に置換されちまったら――それはもう、じゃあない。単なる、肉の塊だ」

 淡々と、歯に衣着せぬ病状説明。

 彼の告げた内容はけれど、私にとっては既に、分かりきっていたことだった。

 もう、時間はない。そんなことは知っている。

 だから、私は――

「『死ぬ前に少しでも、何かを遺しておきたい』。……確かにな、死ぬと分かっていれば誰もが皆、そう思うだろうさ。だがそれは、最後の最後の話だ」

 そう呟いて、ヴィルは私を指差す。

「死を受容するまでには、段階ってものがある。だってのにおたくときたらどうだ。避けられないその未来を否認することも、その未来に憤ることもなく。あっさりとその事実を受け入れて、のことばかり考えてやがる。……ボクは精神科医でも何でもないが、それでも自信を持って言うぜ。おたくは――イカれてる」

 至極真剣な顔でそう言う彼に、私は思わず、笑いを零す。

 マッドサイエンティストを自認する男に、そんなことを言われるとは。

「マッドサイエンティストだから、言うのさ。ボクはモルモットは大事に大事に育ててから使たちでね」

 喉を鳴らしながらそう告げると、彼はくるりと踵を返して――背中をこちらに向けたまま、

「そうやって仮面を着け続けるのも結構だがね。もう少し、正直に生きたらどうだ。……そうでなきゃあきっと、そのうちひどく後悔することになる」

 なんて、そんなことを言い捨てるだけ言い捨てて、部屋を後にする。


 白い部屋に取り残された私は――小さく、ほんの小さく、ため息を吐き出す。

 ……どこぞの自称「神」といい、マッドサイエンティスト気取りといい。

 どいつもこいつも、お人好しにも程がある。


    ■


「お迎えに上がりました」

 帝都郊外の研究施設。建物の外に出ると、既に空は暗くなり始めていて。

 そんな施設の門扉、「立入禁止」のプレートが掲げられた錆びた門の外側に――立っていたのはスカートスーツ姿の女性だった。

 長い金髪を後ろでふたつにまとめた女性。眼鏡を掛けたその顔は氷のような無表情で、服装も相まって大人びた印象を与えるが――外見年齢自体で言えば六花あたりと大差はない、まだ少女と言って差し支えのない見目だ。

 彼女の名はティー。帝政圏情報部に所属する彼女は、こちら側における「私たち」――つまりは亡命してきた聖女とその保護者である私の監視役にして、諸々の仲介役を担っている役柄でもある。


「成果はいかがですか」

仮面でも被っているかのような鉄面皮でもって呟いたティーに、私は首を横に振って返す。

 今日の実験も、成果はなし。無駄に私が十数回ほど死んだだけだった。

「そうですか。それは残念」

 全く残念さを感じさせない淡白な調子でそう返し、歩き出そうとするその背中に――私は今一度、礼を告げる。

 ……帝政圏から亡命してきて以降。彼女は実質私の補佐官のような立ち位置で、様々な連絡事や取引の仲介などに奔走してくれている。

 無論、それが親切心によるものではなく単に彼女の職務なのだろうということは分かっているが――それでも、少なからずの感謝の念はあった。

 私の口から出た謝意の言葉に彼女はこちらを振り返ると、わずかにその切れ長の、緑青色の瞳をすっと細めてぽつりと呟く。

「私は、第一皇帝陛下の御心に従っているだけですので」

 ――第一皇帝。それは帝政圏と呼ばれる複合国家群において、特別な意味を持つ名だ。

 今から数百年ほど前まで、大陸北部に存在していた無数の帝政国家たち。幾度も衝突を続けていた彼らをとりまとめ、「帝政圏」という名のひとつの群体にまとめ上げたのが第一皇帝――「絶対帝」とも呼ばれる存在であった。

 複数の主権国家を殺すことなく、その形のままにひとつの共同体へと導き。やがては「皇帝議会」と呼ばれる、による政治形態を組み上げることによって、「絶対帝」はこの擬似的な連合国家を実現した。

 そんな歴史上の人物の直系にして、現在まで続く「皇帝議会」の長としてこの複合国家群の最頂上に君臨する存在。……それが、「第一皇帝」。

 ティーの言葉が確かならば――聖女に関わる案件には、第一皇帝の意図が関与しているということになる。

 帝政圏の頂点にある絶対権力。そんな存在が、聖女を欲しがったということなのか。

 問い詰めようとする私に、ティーはわずかにその眼光を鋭くして、告げる。

「質問は、許可しません。貴方は知る必要のないことです。……それでも、と言うのであれば」

 そんな言葉とともに――剣呑な雰囲気が、彼女の体から吹き上がった気がして。

 次の瞬間。私の体はぐるんと上下を入れ替えて、固いアスファルト敷きの地面に背中から落ちていた。

 背骨が悲鳴を上げて、肺の中の空気が押し出される。咳き込む私を無感情な瞳で見下ろしながら――ティーは私の喉をヒールで軽く踏みつけて、続ける。

「もっとご自身の価値を、高めることです。……貴方のような死にぞこないの冥土の土産には、真実というものは少々高価すぎますので」

 どこまでも平坦な声音でそう告げた後、彼女は足をどけて、軽くしゃがみ込んで手を差し伸べてくる。

「立てますか?」

 ……つくづく、読めない少女である。

 全身の痛みを気取られないようにしながら、私はどうにか、彼女の伸ばした手を取った。

 よろよろと無様に立ち上がる私をじいっと見ながら、彼女はごく小さくため息をつく。

「……それにしても。【外なる神】を取り込んで、これですか。拍子抜けにも程がありますね」

 どこか呆れた様子のその言葉に、私は返す言葉もない。

 そもそも、荒事は専門外なのだ。【外なる神】の細胞を取り込んだとはいえ、殴り合いが上手になるわけではない。

 あの時は敵の動揺を誘えたから勝機があったものの、彼女のようにこちらの手の内を知っている相手では――

「なら、鍛えて差し上げましょうか」

 唐突にそう呟いたティーを、思わず見る。まるで変わらない鉄面皮からは、その意図は読み取れないものの――冗談を言っているという様子もない。そもそもいまだ四ヶ月程度の付き合いでしかないが、これまで彼女が冗談を言う場面など見たこともなかった。

 戸惑う私を前に、ティーはぽつぽつと言葉を続ける。

「貴方もご存知の通り、世界は決して、平和なんかじゃあありません。……帝政圏われわれも連邦も、停戦に合意こそしましたが――それだけです。こんな灰色の時代を、彼女たちはこれからも、生き抜かなければいけない。貴方も、そんな彼女たちを守らなければいけない。そのため に貴方はそんな、人でなしになったのでしょう? なら――そんな体たらくで、どうします」

 いつになく饒舌に、そう語って。

 と同時に私を引き起こしたその手がぐいと引かれて、そのままの手で彼女は私の胸ぐらを掴んで続ける。

「強く、なりなさい。……そうでなければ、誰も守れない」

 ほんの少しだけ、感情の滲んだ言葉。けれどその意味を察する前に、彼女の拳が腹にめり込んで、私の体は再び地に転がった。

 咳き込む私に向かって、普段通りの無感情な彼女の言葉が降り注ぐ。

「私を殺すつもりで、来て下さい。なんでしたら、例の力を使っても結構」

 例の力。つまりは【外なる神】のあの力を使えと。そう告げた彼女に、私が躊躇を見せていると――

「もしもやる気がないのであれば、私はここで貴方を殺します」

 言うや否や彼女はいきなり懐から消音器つきの拳銃を取り出して、一切の迷いもなく、その引き金を引いた。

 か細い銃声が響いたのと、ほぼ同時。

 ……私の体はけれど、どこも傷ついてはいなかった。

 闇を塗り固めたような漆黒色の右腕が、銃弾を受け止めていたからだ。


 無我夢中で体を動かしていたのか。ともあれその事実に思いを馳せている暇などなかった。

 今の弾道は、明らかに頭を狙っていた。ティーは本気で私を殺すつもりらしい。

 こんなところで、死ぬわけにはいかない。私はまだ、投げ出すわけにはいかないのだ。

 体の動かし方など分かったものではないが、とにかく私は決意を固めて、半ばもがくように無様に起き上がると彼女へ向かって駆ける。

 戦い方も、力の扱い方も知らない。だから体の動くまま、あの時の――あの雪山での戦いの時と同じように、無我夢中で腕を振るう。

 するとそこにはあの時と同じように、一振りの黒い刃が握られていた。

「やる気になりましたか。よろしい――と言いたいところですが」

 黒刃を握りしめて接近する私を見ても何ら動揺せず、彼女はぽつりと呟いて、その手の銃をあっさりと捨て。

「やはりお話になりません。貴方はまるで、その力を理解できていない」

 言いながら彼女は私の腕に手を伸ばし――その動きに虚を突かれた私は、気付けば再び、石畳の上に転がっていた。

 黒に覆われていた腕はすでに元通りの色に戻っていて、刃も霧散している。もう一度使おうとしても、どうやればいいのかもよく分からない。あの雪山での戦い以来、この力を意識的に使ったことなど一度もなかったのだ。

 しばらくの間、困惑する私を見下ろした後――ティーはやがて小さくため息を吐いて、再び私に手を差し伸べてくる。

 先程のこともあったので警戒していると、彼女はほんの少しだけ、その無表情に呆れを混ぜながら告げた。

「もう投げ飛ばしたりはしませんよ」

 その言葉に嘘はなかったらしい。手を取った私をその細腕で引き起こしてくれた後、彼女は投げ捨てた拳銃を拾って懐にしまい直す。

「今日の訓練は、おしまいです。次はそんな力に頼らずとも、私と渡り合えるようになって下さい」

 平然と無茶を言ってのけると、まるで何事もなかったように歩き出す彼女。

 痛む全身に鞭打ってその背を追いながら、私は慌てて、彼女に質問を投げかけた。

 つまりは――彼女たちは一体どこまで知っているのか、ということだ。

 【外なる神】と呼ばれる、異邦の異形。それによって生み出されたのが聖女たちであり、そして、私のこの『力』でもある。

 連邦では最重要機密として、アカデミー上層部のほんの一握りにしか知らされていなかった【神】の存在を、彼女もWも、当然のように受け止めている。

「どこまで知っているのか、ですか」

 私のそんな問いかけに、けれどティーの回答は、あっさりとしたもの。

。私たちも、連邦と同じように何も知らない。だからこそ、連邦と違うやり方でそれを知ろうとしている――それだけですよ」

 それ以上の追及は無用とばかりに何食わぬ顔でそう告げて。

それきり再び歩を進めると、彼女は施設正面に停めてあった車の前でこちらに振り返り、にこりともせず口を開く。

「お送りしますよ。その体では、歩くのもやっとでしょうから」

 ……そう思うのであれば、再三に渡って投げ飛ばさないでほしいものだった。

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