■3──識別コードA‐037・060(3)


    ■


 ……とまあ、滑り出しは実に好調だったのだが。

 開始一日目にして、早くも問題が発生した。

「……む、むむ」

 医務室脇の、休憩室。あまり広くない室内中央に大きな卓が置かれただけの、簡素な部屋。

 その卓上いっぱいに毛糸玉が転がる中──両手に棒針を握りしめたまま、もりは渋面で固まっていた。

「ここを、こうして……こう……あれ?」

 手先をあれこれと動かす彼女。するとものの数秒もしないうちに、恐ろしい勢いで彼女の手に毛糸がからまって玉を作る。

 それをほどこうとしてなにやらもぞもぞと動いて、さらに毛糸玉から糸が引っ張り出されて──気付けば全身に毛糸をからませて、様子を見に休憩室に来た私に涙目の視線を送ってきた。

「……せんせいぃ」

 いや。一体何をどうすればこうなるのか──と突っ込みたい気持ちもやまやまだったが、とりあえず彼女の救出を優先する。

 大体、十分ほどかかっただろうか。

「……はぁ、ありがとうございます……」

 毛糸地獄から脱出し終えた彼女に、飲もうと思って作っていたコーヒーをれてやる。砂糖もミルクつぼも用意していなかったため、もりはというとこれを大層渋い顔をしながらちびちびとすすっていた。

 それにしても、何でこんな凄惨な状況になっているのか。問うてみると、もりは恥ずかしそうにうつむく。

「……その。気付いたんですけど、わたし、すっごく不器用で。編み始めようとしても、何回やってもあんなふうになっちゃって……」

 そう言えば。射撃訓練の際などに、彼女が銃の扱いに難渋している様子は何度か目にしたことがある。それゆえ、模擬戦などでは彼女が使うのはもっぱらサーベルか、あるいは今どき使う者の久しくいない両手長剣などだった。

「……せっかく、先生には材料やお部屋まで用意してもらったのに。どうしよう……」

 しょんぼりとつぶやく彼女に、私はなんと声を掛けたものかと思案する。

 編み方を教えてやれれば話が早いのだが──あいにく私には編み物の経験なんて一切ない。

 誰か都合のいい人材はいないものだろうかと頭をひねっていた、そんな時のこと。

「先生ー、ちょっと、先生ー? ……ったく、どこ行ったのよもう」

 医務室の方からそんな声が聞こえて。ややあって、休憩室のドアが開かれる。

 入ってきたのは──ここのの二人組。

「あ、いらっしゃいました」

「ちょっと先生、まだ昼間だってのに何サボって……ってあれ、もり。何してるの、こんなところで」

 ……この状況においては、歓迎すべき来客と言えた。


 ──。

「……はぁ。りつと仲直りしたい、ねぇ」

 事情を一通り聞くと、はコーヒーをすすりながら神妙な表情でつぶやいた。

「そんなの、顔合わせて謝ればいいじゃない。あの子のことだもの、プレゼントなんてしなくたってそれで許してくれるわよ」

「う……。それは、そうかもしれないですけど」

 の鋭い目つきに若干されながらも、もりは続ける。

「でも、仲直りもですけど──りつちゃんの喜ぶ顔が見たいなっていうのも、今はあって」

 そんな彼女をじっと見つめて。それからは私へと向き直ると、ジト目で問いを発する。

「……で、貴方あなたは何でそれを私たちに話したの?」

 ならば、編み物などもそつなくこなせるだろうと思ったから。そう素直に答えると、彼女は頬を赤くして「バカじゃないの」とそっぽを向くと、

「だいたい、私たちは兵士よ」

 説教を始めた彼女に、机の上に置いてあった毛糸と棒針を手渡すと、

「私たちが磨くべきは戦闘の技術であって」

 あみあみ。

「編み物だとか、そんな不要な技術に費やす時間なんてないの」

 あみあみあみ。

「平和ボケしたことを考えている暇があったら、もっと鍛錬を積むべき。そうでしょう」

 あみあみあみあみ。

 あっという間に、彼女の手の中にはここのによく似た編みぐるみが出来上がっていた。

「すごいです、さん!」

「──はっ、つい……」

 憧憬のまなしで見つめるもりの視線に気付いて硬直する。やはり、見込んだ通りの流石さすがの腕前である。

「あのあの先生。なんか私の存在が華麗にスルーされている気がするのですが」

 ちょいちょい顔を挟んできたここのに、私は嫌々視線を向ける。何となく、借りを作りたくないのでスルーしていたのだが。

 そもそも編み物なんてできるのか、と問うと、ここのは自信満々に胸を張って、

「無論、触ったこともないですが」

 くだけ時間の無駄だった。

 そんなくだらないやり取りをしている横で、もりに向き直る。

「……さん。わたし、りつちゃんに暖かいマフラーを作ってあげたいんです。……どうか、教えてもらえないでしょうか」

「う……」

 瞳を潤ませて、上目遣いにを見つめるもりですがるようにここのを見つめるが、彼女も満面の笑みで、

「いいじゃないですか、息抜きも大事ですよさん」

 なんて言うものだから、もはや逃げ場はない。

「……わ、分かったわよ……。でも、暇な時間にちょっと付き合ってあげるだけだからね! 後は自分で頑張りなさい」

「はい! 師匠!」

「しっ……!?」

 そんな純粋さに満ちたもりの目に、はというと完全に陥落した様子で。

 くして今度こそ、事態は順調な滑り出しを見せたのであった。

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