■1──識別コードA‐009(1)
■1──識別コードA‐009
〈警告〉
本カルテへのアクセスはランクB以上の第二哲学部職員にのみ許可されています。
アカデミー憲章20章11項の記述に
…………。
『ノルン』起動──ID13751〉〉照合完了。
記録番号、1942‐05‐12の記録を開始。
ようこそ、担当
■
識別コードA‐009、個体識別名「
「彼女」について私が語れることは、そう多くはない。
頭髪は部分的に色素脱落をきたした薄桃色で、瞳はケイバー分類Ⅲ度の青色。身長は一五四センチメートルと大陸東部地域の平均的な十代女性と比して小柄で、総合的な発育を
当該個体について特筆すべきはその左足の広範な筋力低下、神経障害であり、歩行時には右手にロフストランド
……
A‐009。「彼女」は──月を見るのを好むらしい、ということだ。
「もう、先生ってばまたそうやって端末ばかり眺めて。……せっかくこうして二人きりで、こんなにきれいなお月さまを見ていますのに」
鳥籠のような骨組みが巡らされた、ガラス張りの天井。差し込む青白い月に照らされて、A‐009はこちらを見つめて小さく笑った。
月下の庭園。ヒナギクの白い花が一面に咲き誇る中央に一組だけ置かれた白いティーテーブル。そこに座るA‐009を見返して、私は──
「おや、つれないお言葉です」
その口ぶりとは裏腹に、あまり残念がる様子もない。
薄桃色の長い髪を
「その昔のどこぞの文豪に
どういう意味があるのか、と問う。
「『好き好き大好きちょー愛してる』」
ナンセンスな回答である。その上、表現の厳密性を欠く。
「むう、クールなお返事です。私はこんなにも先生のことをお慕いしてますのに」
大げさにため息をついてみせると、A‐009は
「月も、こんなにきれいですのに」
そう
あのホログラムの月には、彼女が信奉するような神秘性も魔力もないと──そう、返す。
天蓋に巡らされた映像装置が映し出す青白い月。その人工の光が照らすのは、真っ白な造花で埋め尽くされた庭園。
……この箱庭にあるものは皆、作り物だ。
空も、月も、星も。草木も、花も、何もかも。
「彼女たち」のために造られた、まがいものに過ぎない。
「よいっ」
A‐009は
不自由な左足と右手の
少なくとも、以前よりも悪化しているということはないようだ。
「確かに作り物です。……でも作り物も案外、悪くはないでしょう?」
庭園をくるくると歩きながら、A‐009は静かにそう
その言葉に私が沈黙すると、A‐009はくすくすと小悪魔めいた笑みをこぼした。
「先生のそういうところ、やっぱり私、好きです」
ナンセンスな発言である、と。今度は名指しでA‐009をたしなめる。
するとA‐009は先程までの上機嫌さと打って変わって、頬をふくらませてむくれた様子を見せた。
「『A‐009』。……先生のことは好きですが、その呼び方は、嫌いです」
むすっとしながらそう告げると、そっぽを向いて沈黙するA‐009。
こうなるとコミュニケーションはほぼ断絶状態となってしまうため、私はA‐009──
製造番号ではなく、個体識別名──「
「ふふ、分かればよいのです。ここは特別に、許してあげましょう」
ぱっと顔をほころばせると彼女、「
「これで今日の『先生に名前を呼んでもらうノルマ』が達成されました」
何の意味があるのか、と問う。
「一回達成するごとに私が元気になります」
気は済んだか。
「ええ。元気百倍です」
理解に苦しむ返答だった。彼女たちに与えられたその個体識別名は、特段意味があるものではない。製造番号から誰かが
だというのに彼女は満足気に
「……さてさて。そろそろ、行くとしましょうか」
顔だけわずかにこちらに振り向いて──静かな笑顔で、告げる。
「では、お元気で。……もしも私が死ななければ、またお会いしましょう」
■
「庭の戦争」と呼ばれる戦争が始まったのは今から十二年も前、大陸暦一九三〇年のことだった。
大陸を二分する勢力、「連邦」と「帝政圏」。かねてより衝突を繰り返してきたこの二つの国家が致命的に決裂したその原因が何であったかはもはや思い出せないが──ともあれ、両国は薄灰色の平和を維持することを放棄し、全面的な戦争へと踏み切った。
十二年。その長い間にいかに多くが
豊かな緑に、歴史ある文化と建築の数々。そして、何千万にも上る人命。
これまでに人類が築き上げてきたものを崩すような、それはまるで壮大なドミノ倒し。
ゆえに、かの時代は喪失の時代であったと人は言う。
何もかもがこぼれ落ちて白紙に戻された、罪の時代であると。
何もかもが
けれど、そんな時代であったがゆえに──少女たちは生まれるに至った。
人によって創られた、人の形をした兵器たち。
「
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