天災少女
草刈束
0~0
景色は綺麗だけど空気はまずかったの、ぼんやり光の灯った鉄塔ははるか北に、排気ガスのゴムの溶けたののような匂いはそこかしこに。あの無機質な甘い匂い。排気ガスでなければシンナーかなにか。隣を見るとお前は鉄塔の方を睨んでいた。お前が睨んでいると私はいつも思う、睨んでいるのではなくて泣いているみたいだって。お前がいくら睨んだところでさて鉄塔は一向に倒れてくれない。
曇った夜空に烏が飛び回って鳴いて、命乞いでもしてるみたい。顔を上げるとお前は約二十メートル先で私のことを待っていた。走ろうとする、けど靴が重たくて重たくて思うように足が進まない。
「教えてほしい」十分な距離まで近づくとお前は言った。「どうして夜なのに烏が鳴いているの」、指さす方向にはさっきの烏の群れがあった。
「烏の巣のある森が山火事になったから山に帰れないんだよ」一息に私は答える。
「それは想像?」
「そう、想像」
「分かった、後で調べてみるよ」とお前はいらないことを言う。調べれば分かるのに私に訊くなんて。
夜になると灯りがないところはくっきりと暗い。お前の顔にも濃い影が落ちている。まるでつくりものみたいな影。表情筋が発達してていつでも頬が膨らんでいる。だから睨んでいても全く怖くないのだ。お前が怒ってても私には分からない、分かったとしても知らないふりするのも簡単。ちょっと調子に乗っただけでお前はすぐに怒る。それか怒ったふりをする。怒ったふり気づかないふり調子に乗ったふり睨んでるふり。お前はあまり賢い子じゃない、感情的で短絡的かつ即物的、でも私はそれも悪くないと思う。
小器用に液晶の画面を見ながら歩くお前を見た。ものすごい速さで何かに返信していたの。なぜならお前の全世界はその画面の中にあるから。そこで私はお前の背後から世界をちょっと覗かせてもらう。お前は私が後ろにいることに気づいてない、画面に映った私の像が楽しそうにしているの見て安心している。そうじゃない!私はお前の内側に隠れているの、そうしてお前の世界を眺めているの!お前の世界に私などいないの、今までだってこれからだって。
ここから見える建物は全部が立派。この町にはどんどん新しいものが増えていく。夜歩く人たちはみんながみんな小綺麗にしている、お兄さんもお姉さんも着飾って気分よく歩いている。思い上がった素晴らしい人間の数々。ついつい威嚇するような態度をとってしまう。そんなつもりは毛頭なかった。あなた方は素敵だと伝えたかった、幸せな人は幸せでいてくれさえすればいいのだと、惨めな気持ちになりたかった。でも無理、仕方がない、仕方なくしかめ面をする、つまらない。
「ああ、おでんの屋台だ」と手をこすりながら、ふらふら路地に入っていったお前。赤提灯が出ている。おでんと書いてある。分かりやすくて笑ってしまった。だがおでんは買わない、味にうるさいほうなのだ。お前はすでにぺらぺらの財布を取り出して、具を物色している。なんとトマトも入っていた、温かいおでんにトマトとは。私は穏やかに、かつ店主には見えないようにかぶりを振った。そのサインはお前には伝わらず、あろうことか三つもトマトを買っている。前々から味覚音痴だとは思ってたけど。
音を立てて食べるお前を待つ。目を背けてたお前の食べる蛸の脚が嘘みたいに紫色の渦を巻いていた。いつまでも。どうしてそれはなくならないのか、お前の咀嚼の問題か、それとも何か、もしかして魔法使ってる?お前の小さな口が暗がりでひっきりなしに動いている。なんて悪夢的。私は遠くで走ってく救急車の警鐘を聞いた。大丈夫、私たち大丈夫、暗い横道でおでん食べてるからって何でもない。明日私はこの記憶にうまく捏造を加えられているだろうか?ぼんやりしているお前にひそかに腹を立てる。可愛いお前。人類みな兄弟!お前はまるで実のきょうだいのようだった。私にきょうだいはいないけれど。いたとしたらきっと。何故だか泣きたくなってきた。
ささやくように響く他人の足音。私たちどこまで歩けばいいのか。「何か話してよ」と私は言った。
「面白い話しらないもの」
「お前の話がいいの」
「つまんないよ」
「話したいくせに」
「もういいって」
「話さなくなったらお終いだよ」またにわかに涙がせり上がってくる。「もう私帰っちゃうから」
「今帰ってるじゃない」
「電車乗らずに歩いて帰る」
「無茶言わないで」
「それか空飛んで帰る」
「もう……」
ようやく振り向いた。逆光でよく見えない。ということはお前には、さぞやよく私の顔が見えたはずだ。あはは、驚いた?私ちっとも泣いていない。冗談言っただけ。ちょっとは驚いてくれた?手を大きく振って歩く。お前を追い越してしまった。でも私は珍しく本当のことを言った。話さなくなったらお終い。生きているだけじゃ満足できない、苦しくはなく悲しくもない人生でも、光って消えるだけじゃ駄目なのだ。黙っていると言葉はどんどん好きなほうへ行ってしまうから、私は羊飼いで意識が牧羊犬で、神の庭で言葉狩りをする。それはそれは厳粛な仕事だ。
つまらない話がいいの。だってつまらなくない話は全部嘘なんだもの。薄ら笑いを浮かべる。お前の話を聞きたい。
「わたしの?」
「お前の」何度もそう言ってるのに。
お前は自販機のゴミ箱におでんの串を捨てた、いけないんだ。それから下手糞な昔話をしようと頑張った。ぐつぐつ汚いくたびれたはらわたを隠そうと必死だ。こじれた話、内輪もめの話、行きちがいの話、失恋の話。よくもまあこれほど不運な学校生活を送れるものだと感心してしまう。全然面白くないけどこれが現実。お前はほんの少し正直者になれたみたい。満足したらあくびが出てきた、でも悪く思わないで、何しろもう夜も遅いのだから。
息をひそめて話すお前の声は妙な浮遊感で私は踊る。機嫌直したよほら。透き通る月と並ぶ電信柱がえもいわれぬ対比。こんなこと言ったってお前たち分かるまい。全てを手に入れたときの後悔も、なんでこんなに楽しいのかしらという高揚感も、お母さんや医者は私を病気だって言うけど。
私は足を止めてお前の方を振り向く。目の中の白い輪っかをじっと覗き込んでみる。お前が見てるはずの私の様子が見えない。何も見てないんじゃないほんとうは?ほんとうは私の像すら見えてないんじゃない?ああ違うの。それ私じゃないの。それ電信柱で中身コンクリートなの。お前は眠そうでまばたきもできない。疲れている。今度はどこの誰と喧嘩したんだろう。お前はへとへとになるまで誰かに怒ることができる、それってとんでもないことだ。肉親のような愛を誰にでも与えられるってことだ。私いらないこと言ってしまいそう、言ってしまうかも、言わんばかりになる、ううんなんでもない。
単に駅まで歩くだけ、それだけだ、なのに私は行く先々で不幸をもたらす。だからごめんね、お前には可哀想なことをしてしまった。私は嘘しかつかないのに、優しい人は信じてしまうから。私のついた嘘はみんなみんなほんとうになってしまうんだ、そういう病気なんだ。お母さんもお父さんも知らない。私は騙す。皆さんとても可愛い、だけど何にもご存じない、私だって知らない!巧妙に演じられた人格がいくつかあるだけ、他人に気に入られるのは得意だから、私から人格を取ったら何にも残らない、サヨウナラ。
駅に近づいてきた。あれ?もうずっと同じところを歩いているような気がする。ぐるぐるぐるぐる。これは現実?歩いている私を夢見ている私を演じている。終わってくれない。下半身がひゅっと寒くなる。私さっき何て言った?お前の方を見るけれど、見えない。逆光で顔が見えない。これって今?それともさっき?私何を見てるの?そこにいるはずだったお前に手を伸ばす、けど、私の指は宙をかすめる。私さっき何て言った?お前はうんもすんとも言ってくれない。いや、今何か言った、小さな口がもごもご動く、ひどく大義そうに重く鈍く。声は地の底に沈んでいってしまう。
(話を)と聞こえる。
(話を)
(お前の)と。
私の?私?首を横に振った。そんなものはない。そろそろ私消えてしまいそうだ。全身から力が抜けてくる。情けない気持ち。なんだか何にもできなかったね。こうして一緒に歩いてきたわけだけど。脳が呼吸のたびに気化していくから今じゃ何にも考えられない。
「夢でね」と口にした。「ものすごく怖い夢でね、私その日七歳の誕生日だった。その頃は本を読むのが大好きで、友だちと太陽の下で遊ぶ時間よりも本が大事だった。本の中に私がいて、本の中に全世界があった。だから私大きな本棚を買ってもらったの、誕生日に。世界が広がるといいねって。でもその夜だよ、夢の中で、一度本棚を見にベッドから起きたの。たった一度だけ、でもそんなことすべきじゃなかった。酷かった、酷かったの、私の本棚の中身が真っ白になってたの。伝記も童話も百科事典も装丁から本文から全部真っ白。でも私ようやく分かった、これが私たちなんだって、私たちが信じなきゃいけない人間ってものは……」
口をつぐむ。ああ、お前、私の愛しい人。お前は優しかったよ、いつだってそうだったじゃないの。でも私は知ってた。そちらを見なくてもわかる、私のついた嘘は全部ほんとうになるから、烏の山は燃えている。
振り向け!
火に照らされたお前のあっけに取られた表情。山火事の方角から熱気が走ってきてお前のスカートを巻き上げる、お前の髪は顔の周りを舞っている。烏がまだ鳴いていた。炎はこの町の木造の建物にへばりついて焼きつくしてしまう、煙は高く天に広がって星を一つ一つ塗りつぶす。それでも地球はまだ滅びない。ありがとう、お前のおかげで私生きられた、お前のために私生きられた。空気を吸い込んではむせる、涙を流しながら。ぼんやり光の灯った鉄塔ははるか北に、これだけが私の芸術だった。
天災少女 草刈束 @kuhakouma
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