第19話 お地蔵さん よろしく


わたしは先に書いたが、全く無宗教の人間である。

妻もまたそうである。


二人ともたいそう楽天的なタイプで熱心になにかに祈るという種類の人間からはほど遠い存在である。


しかしこの時ばかりは、目の色を変えて一心不乱に祈った。


毎朝のお祈りをを47日間続ける事によって、成就するそうである。


その時は本当に効くのかどうか、疑っている心の余裕がなかった。


というかそれしか、方法が無かったのである。


祈りをしている間、助かった事は、猛暑の年であったがために、雨の日が少なかった事である。


カサをさしながら祈った記憶は2~3回しかない。


ただ山の中なので蚊が多くて、唱和している時などは動けないので格好の蚊の餌食になった。


しかし祈りに集中しているので、払うこともせずに蚊のなすがままにしておいた。


「これくらいの辛抱は、息子の病気を思えばなんでも無い」が本音である。



祈っていたら、たまたま地蔵盆の日に当たり、住職が近所の子供たちを集めて法話をしている場面に遭遇した事があった。


近所のオバサンが「このひとたちは若いのに毎朝熱心にここで拝んでいるんですよ」と私たちを住職に紹介してくれた。


住職

「そうですか、それは熱心なことです。こっちにきて子供たちみんなと一緒に、おかしでも食べませんか?ジュースもありますよ」と親切に仲間にいれてくれた。


このころはなにかにつけて、ちょっとしたことで人の親切が身にしみる心境であった。


心が弱っていたのだろう。


法話の内容は明治時代以前の、住職の役割についてであった。


新聞もテレビもラジオもない時代に、ニュースが全くはいらなかった環境の中、諸国をまわっている僧侶というのは、格好のニューソースであったという話。


見てきた江戸の様子や、京都の話を沢山の村人を集めて話をするのがならわしであったらしいです。


ですから昔の僧侶は村人の尊敬を集めていたそうです。


分かるような気がします。


集まった子供たちは、住職のそんな有り難い話には全く無関心で、もっぱらお菓子とジュースの方に気が行っていた。


「わいわい」とお菓子を取り合って無邪気に騒いでいる子供たちを見ていると、束の間ではあるが毎日の看病に疲れていた私たちにとっての清涼剤となった。


ありがとう



しかしこのようにして、47日間毎朝祈り続けたが、なりゆきの症状が全く変化が起こらなかった。


私は「これはお地蔵さんが俺を試しているんだ」と考え、完治するまでその後三か月続けた。


無心であった。


しかし結果としてはなりゆきが完治したのは「この地蔵様と般若心経に頼ったおかげである」と今でも確信している。

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