第30話 近所の喫茶店が、年々つぶれていくのが寂しいお年頃
〇
「いらっしゃいませー」
相武宅にて『はるかな』特番を観た翌日、だらだらと長居をしても迷惑だろうから、午前中においとましたその足で、俺はというと直帰することもなく、電車を乗り継いで、とある場所へ向かっていた。
目的地は、もちろん例の喫茶店。
「ブレンドのMサイズとケーキセットがおひとつですね」
土曜日の昼下がりの店内は、以前俺と九重で訪れた時同様穏やかな空気が流れていて、果たして雇ってもらえるのかと不安になりつつも、ひとまず着席した。
「マスター、Mサイズとケーキセットひとつです」
注文を聞きにくれたマスターは、俺の顔を見るなり、「ああ、あの元気な女の子の」と、顔を覚えてくれていたようだった。
そして注文もそこそこに、乾坤一擲、この店で働かせてほしいと切り出したところ、
「越尾くん、ケーキのお皿はあそこの戸棚だから、お盆の上に乗せて準備をしておいて」
面接も面談もなく、あっさりアルバイトがきまった。聞くに、この店は休日よりも平日の夕方から夜にかけての方が客入りが多いらしく、渡りに船だとマスターは膝を打って感心してくれた。
「最近忙しいことも多くってね。越尾くん、高校生だよね、学校終わりに、週二、三で入ってくれると助かるよ」
しかも、時間があるなら、このまますこし働いてみるかい、とまで言ってくれて、
いまに至る。
まさかこんなトントン拍子で話が進むとは思っておらず、しかもアルバイト自体が初めてだと伝えても嫌な顔ひとつしないマスターには感謝しかない。
「テーブル周りの備品はそこ。お皿はあっちとあっちの戸棚に分けてあるから、気を付けてね」
ここで働きたいと思ったことについて、不純な動機がちらりとも頭をかすめなかったといえば、嘘にはなる。
が、とはいえそれがすべてという訳でもなし、むしろ変に黙っている方が、あるいはのちのちになって非難の種になりかねないので、合間を見て、無事アルバイトに採用してもらったことを相武に連絡しておく。
「お待たせしました。ブレンドと本日のケーキセットです。コーヒーはおかわり一杯無料なので、お気軽にお声かけください」
人生初のアルバイト、いったいどうなるものかと思っていたが、我ながら意外によくやれてるのではないかしら。
なんてちょっと自惚れつつ、店内の状況もひと段落ついたところで、厨房からマスターに手招きされる。
「うん。完璧な接客だったよ。とても初めてとは思えないくらい。次からが頼もしいよ」
「ありがとうございます!」
「今日はもう上がってくれて大丈夫だから。シフトだけ決めちゃおう」
部活もやっていないし、趣味らしい趣味といえばアニメ鑑賞くらいのものだから、忙しい日は特にない。
かといって、毎日毎日アルバイトというのも、アルバイト初心者の俺からすれば高いハードルのようにも思えるので、マスターのお言葉に甘えて週に二日のシフトにしてもらう。
「それじゃ、来週からよろしく頼むよ。—―おっと、悪いけど、いま来たお客さんのご案内だけ、最後にお願いできるかな」
からんと来店を告げるベルが鳴って、振り返り、
「いらっしゃいませ!」
出迎えに行こうと駆け出した足が、思わず止まる。なぜなら、喫茶店の扉を開けて入ってきたその人物に、厳密に言うならば、その装いに見覚えがあったから。
カーキ色のマリンキャップにくわえて顔の半分ほど隠したマスク、そして俺の胸元にまで届いていない身長といえば、
「あれ、越尾クン?」
九重葵その人に違いなかった。
「お、おう……」
もちろん、彼女がこの店を訪れることは予見できていたものの、まさか、体験アルバイトをすることになった今日この日に遭遇するとは思ってもいなかった。エプロンを付けているこの姿を見られてしまっては、いったいなにを言われるかわかったもんじゃない。
「ふーん……」
しかし、予想とはうらはらに、九重は例のごとくのにやにやした笑い方も、ましてや、ちょっかいをかけてくることもなく、意味深な目配せひとつ、窓際の二人用テーブルに向かって歩き始めた。
(珍しいな。九重が絡んでこないだなんて)
あるいは、俺に気を遣ってくれたのだろうか。そんな心配りが彼女に備わっていたのだとしたら、ちょっと驚きだ(こんなこと、口が裂けても本人には言えないが)。
九重の背中を視線で追いかけながら、そんなことおw考えていると、続けざまにベルがもういちど鳴り、慌ててそちらに向き直る。
「いらっしゃいませ! おひとり様ですか?」
「ああ、いや……」
太縁の眼鏡をかけたスーツ姿の恰幅良い男性が、店内に視線をさまよわせる。そして窓際に座る少女を見つけるや否や、そちらへ歩き出していく。
つまり、九重葵と同じテーブルに、向かい合わせで着席した。
……これは、もしかしてとんでもない光景を目撃してしまったのではないか。九重がむやみに絡んでこないのも、先ほどの含みのあるアイコンタクトも、すべては彼女自身が騒ぎ立てられたくないから。
グラスに水を注ぎながら、すこし離れた位置でふたりの様子をじっとうかがってみる。傍目には、円滑なコミュニケーションを取っているように見える。身振り手振りの激しい九重と、寡黙かつ落ち着いた所作で受け答えをする男性。
「それで、今後の徳川さんの予定なんですけど……」
「今月は、来週と再来週にオーディションが一本ずつ。その次の週にラジオのゲストですよね」
「そうです。それから、これは嬉しいお知らせなんですが、以前受けたスマートフォン用ゲーム『黒猫エキス』のオーディション、見事受かってましたよ。具体的な収録日は未定なので、先方の都合に合わせてまた相談させてください」
マスターからはもう上がっていいよ、と言ってもらっているが、何気ない感じを装いながら、ふたりの会話に耳をそばだてる。唯一の取り柄である聴力をこんなふうに悪用する日がくるとは、思わなんだ。
お冷やをお出しした後は、様子をうかがうために、テーブルを拭き拭き、ホールに居座る。が、実際には腕を前後左右に動かしているばかりで、なにも綺麗になっちゃいない。なんだったら、さっき拭いたばかりだ。
「ホント!? 実はボク、あのゲームむかしからずっとやってて!!」
「秋頃に実装する新キャラなので、楽しみにしておいてください。あと……」
会話の内容を盗み聞きすることしばらく、これはもしかすると、いやもしかしなくとも……あの男性は……
「宮畔『マネージャー』、そろそろなにか注文しませンか? ボク、お腹空いちゃって」
ただでさえ通る声を、聞こえよがしにことさら強調したような言い回し。挙句の果てに、視線は目の前の「マネージャー」ではなく、その遠く背後の俺に向けながらと来た。
(まぁ、ふつうに考えたらそうだわな……)
ここの喫茶店はスタジオの近くと言っていたし、仕事のついでに利用することもあるだろうし、関係者が近くにいる中で、同級生に会ったところでふだんのような応対をする訳もない。
ゴシップ的な態度で疑ってかかった自分がすこし恥ずかしい。
「すみません。注文、いいですか」
すっと男性が手を挙げて、思わずどきりとする。後ろ暗いことを考えていたもんだから、応答するのにも二の足を踏みそうになりながらも、なるべく平静を装いつつ接近する。
「ブレンドのMと……徳川さんは?」
「ボクは、ミックスジュース!」
「か、かしこまりました」
へどもどしながら注文を書き取っていると、視界の端で、九重がにやりと口角を吊り上げた(気がした)。
「ブレンドコーヒーのMサイズと、ミックスジュースでお間違いないでしょうか」
「はい、大丈夫です」
「少々お待ちください」
ぺこりと頭を下げて踵を返す。
業界トークにも興味はあるものの、これ以上ホールに居座ってマスターに不審がられるのも望むところではないから、あとは注文だけ伝えて帰ることにしよう。
と思っていた矢先、九重がわざとらしい咳払いをするもんだから、ついつい意識をそちらに向けてしまう。
「来月の『お渡し会』、不安だなぁ。ボク、なんどか行ったことはあるンだけど、まさか自分がする側になる日が、こんなに早く来るなんて思ってもなかったから……」
「何事も経験ですよ。ただ、もちろん心掛けておくべきことは何点かあります。まずは――」
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