第23話 川越のとある喫茶店(※ではありません)


 〇


 女子からお茶のお誘いをされるなんて、なにぶん初めてのことだったから、一瞬、九重が何を言っているのかわからず、呆然とすること数秒。

 そして、じわじわと言葉の意味を理解して、泡を食うことさらに数秒。


 そんなふうに慌てふためいている間に、うんともすんとも言っていないはずなのだが、


 気が付けば、俺はそこから歩いて十五分程度の場所にある喫茶店の扉をくぐっていた。


「ここの喫茶店、先輩が収録の前とか帰りによく使うって言っててね。どんなところなのかなぁって、ずぅっと気になってたンだ!」


 店自体はなんの変哲もない喫茶店。俺の地元にも、こんな風情のお店はあった。従業員を雇わず、マスターと、精々その奥さんとで切り盛りしていて、近所のお年寄りたちの憩いの場となっていた。


「この辺りって、ゆっくりできる場所がないでしょ? ファミレスとか行っても、みんな気忙しくって落ち着かないし。ゆっくりリラックスして台本を読み込んだりできるところがあればなぁ、って思ってたら、教えてもらったンだ」


 お店は、人通りからは外れた立地に建っていて騒々しさとは縁遠い。また、すこし見つけづらい場所にあったのと、一見さんには気の引ける店構えだったから、お客さんも少ない。俺と九重、それから、新聞を広げる初老の男性くらいのものだ。


「確かに、居心地がいいなぁ。時間の流れがゆっくりになる感じというか」

「うんうん。ボクもあそこのスタジオで収録の時は、ここに来ることにしよーっと」


 一杯ずつ珈琲を注文する。柔和な所作で支度をするマスターをぼんやりと見たり、スマートフォンをいじる九重を見たりしていると、


(そういや、こういうのってスキャンダルになったりしないのかな)


 モデルや女優が、だれそれの俳優や芸人とふたりで歩いているのを激写され、それが過激な文章とともに週刊誌に掲載されるというのは、枚挙にいとまがない。

 とはいえ、そんなことは九重の方が百も承知のはずだから、そのうえで俺に声をかけてくれたのだから、きっと杞憂だろう。


「そういえば、……」


 スマートフォンを机の上に置いた九重が、なにやらニヤニヤした顔付きで、こちらを見てくる。あんまり良い予感がしない。


「越尾クンの推し、聞いてなかったね。みゅーポンじゃないンでしょ」

「あ、ああ」


 不意にそんなことを切り出されて、ちょっとまごまごする。


「そうだなぁ。珈琲が来るまでもうすこしかかるだろうから、ヒント出してよ。見事的中させちゃうんだから。タイムリミットは珈琲が来たら、で」


 んふふ、と九重がいたずらっぽく笑う。


「じゃあ、負けた方がここの珈琲代おごりで」

「ぶー。こういうときは、男の子がしれっと出してくれた方が、スマートだとボクは思うけど?」

「バイトもしていない高校生の財布を見くびってもらっちゃ困る」


 相武にアルバイトをするように勧められていたが、いまだ自分の部屋に雑誌やチラシを積み上げているばかりだ。

 声優のお渡し会云々ではなく、友達と遊びに行くにも、それこそ喫茶店に来るにも、なにかとお金は入り用だから、そろそろ本格的に探さないとまずい。


「……ヒントって、具体的にはどういうのを出せばいいんだ?」

「それは越尾クンが考えてよ。と、言いたいところだけど、それじゃあボクが質問していくから、越尾クンは、はい、いいえで答えて。わからない場合は、わからない、でいいからね」


 なるほど。いわゆる水平思考クイズのような塩梅か。


「第一問目。女性ですか?」「はい」

「声優ですか?」「はい」

「新人声優ですか?」「はい」

「ボクが出た作品に出演したことがありますか?」「わからない」

「春アニメに出ましたか?」「はい」

「それじゃあ……夏アニメに出演しますか?」「……はい」


 ふむふむ、ほうほうともっともらしく頷く九重の様子は、しかしちょっとおかしい。推理をはたらかせている、というよりも、なにかを確認しているような素振りで、ともすれば得意顔だ。


 しかし、たったこれだけの情報で特定できる訳もない。いま言った事項に該当する人なんて、御崎はもちろん、みゅーポンもそうだし、僕が知っているだけでも、ほかにも何人かいる。


「なるほど。整いました」


 けれど九重は、いまいち間に合っているのか分からない言葉とともに、ちょっと身を乗り出し、


「ずばり。あなたの推しは、『御崎千絵里』でしょう!」


 鳴りもしないのに、かすれた音を発しながらフィンガークラップ。そして、得意満面、九重は、彼女の名前をズバリと言い当てたのだった。


「正解」とも「どうして」とも言い出さぬ間に、九重はさらにずいと体を寄せて、


「越尾くん、すごいね! よく知ってるね!! たぶん、侑真でも知らないンじゃないかな!? あの人、まだまだメディアにも出てないし、そもそも出てる作品も少ないし、Twitterの画像だって後ろ姿だし!! 」


 瞠目しながら、興奮気味に矢継ぎ早にまくし立てる。その様は、推しのことやアニメについて語る相武にもすこし似ている。


「ボクも最近現場が一緒になって、たまたま知ったンだけど。まさか同じ高校の先輩に、同じ仕事してる人がいるなンて思いもしなかったから、スゴいびっくりしちゃって! しかも、『はるかな』で主役抜擢でしょ!? くうぅ、羨ましい。けど、ボクだって、負けてらンないからね!」


 聞きもしないのに、嬉々として、業界事情のようなものまで口の端からこぼれ落ち始める始末。


 九重が話しているのは、いったいだれのことか。というのは、愚問だろう。なぜなら、彼女はその名前を宣言した上で、この話を続けているのだから。


「それって、御崎千絵里さんのことだよな?」

「そーだよ? あ、大澤先輩って言った方が、伝わりやすい?」


 きょとんとした表情で、どころか、心配して話を遮った俺を不躾だとまで言わんばかりの態度で、九重は首を傾げるが、


「それ、言ってよかったのか?」

「あ……」


 一瞬、時間が停まったかのように、目を見開いたまま九重の動きが止まる。そしてみるみる顔色は青ざめていって、


「や、や、や、でもでもだけど、越尾クンは知ってたンでしょ!? だってほら、こないだ侑真と三人で学校で喋ってた時、大澤先輩がボクたちの横通って行ったら、目で追いかけてたじゃん!!」


 しかしすぐさまこんどは顔を真っ赤にして、さっきまでの倍速で言い訳を口にする。

 その様子がいじらしく、しばらく黙って見つめていたが、ややもしないうちにどんどん萎れていき、ついには、指先でぐるぐる机をなぞり始める九重。


「それに、『はるかな』楽しみ、って侑真とも話してたし。それに、それに、……」

「……まぁ、俺もそうなんじゃないかな、とは思ってたんだけどさ」


 揚げ足を取り続けるのもかわいそうだから、そしてなにより、俺自身がその真相を聞きたいもんだから、御崎千絵里という女性声優を知ったきっかけ、それが同じ学校の先輩ではないかと疑うようになった経緯、ついでに相武と出会ったことを話して聞かせる。


「やっぱり、御崎千絵里は、あの人だったんだ」

「そーだよ。大澤美咲先輩。ボクと一緒で劇団出身。声優として活動し始めた時期は、ボクと一緒のはずだよ」

「やっぱり、そう、だったのか……」


 胸のわだかまりが氷解し、とても清々しい気持ちになる……かと思いきや、むしろ、胸を占めるのは一層のもやもや感。

 息を大きく吸い込んで吐き出してみても、焙煎されたコーヒーのふくいくたる香りが通り抜けていくばかり。


「あのぉ……越尾クン、このことはどうぞご内密に……」


 なにとぞ、と額を机に擦りつけながら両手を合わせて拝む九重に、ふたつ返事で応える。感謝こそすれ、九重を陥れようなどというほど、俺もひねくれてはいない。


 話にひと段落ついたタイミングで運ばれてきた(あるいは、それを見計らってくれたのかもしれない)コーヒーに口をつける。

 ふだん家で飲むコーヒーとはまるで違う味わい。苦味よりも先に、香ばしさが舌の上を転がり、ともすればスパイシーな後味が口の中に広がる。


「はぁ、夏アニメ楽しみだなぁ」

「うわ、いまのオタクっぽい。キモっ」


 八重歯を覗かせてくつくつ笑い始めた九重に、俺もついぞ堪えきれず、声を上げて笑ったのだった。

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