第19話 ジャーマネとザギンでシースー


 〇


 いまだに引かない口の中の痛みを恨めしく思いながらも食堂を出て、教室へ向かう。次の授業はなんだったかな、なんてぼんやり考えながら歩いていると、相武が思い出したように、


「そういえば、六月に入ってからだけど、みゅーポンのお渡し会があるが、来るか? 夏アニメの出演作のやつだ」

「ああ、せっかくだし。行こうかな」

「ただし、今回は譲ってやらんからな。とはいえ、原作小説一冊買うだけだから、問題ないだろ」


 今回も、相武は「周回」をするのだろうか。前回は、参加券のために購入した十五枚ものCDの内、一枚を半値で売りつけられた。


「ふーん。越尾クンも、結局みゅーポン推しなンだ」

「いや、俺は別にそういう訳じゃ……」

「でも、こないだもみゅーポンのお渡し会行ってたじゃん」

「あれは相武に誘われたからで。まぁ、楽しかったのは事実だけど」


 思わず、もごもごと口ごもる。隠すようなことではないはずだが、相手が、九重というのがすこし気にかかる。

 しかも、そもそも俺は彼女を推していると本当に言っていいのかも不安だ。相武に非難されたからという訳ではないが、彼女の出演作を観たのも、あの始業式の日が最初で最後。その後、学校内で二回聞いたばかり。


 ツイッターをフォローして、彼女の来歴を調べて、それだけだ。けれど耳の奥に残るあの歌声だけはいまも鮮やかで、


 ただ、あの声に聞き惚れて――


「そうなの。だからね、しばらく午後で帰ることが多くなるの思うの」


 涼やかな風みたいに通り抜けたその声は。

 脳天を一撃、稲妻みたいな衝撃が体を走っていく。

 意識が一瞬、真っ白になって、そしてすぐさま全神経が背後に集中する。

 感覚よりも一拍、遅れて体が振り向く。


「えー、大澤だけズルくないー? あたしも午後休したいー」


 揺れるセミロングの後ろ髪。それを視界に捉えるなり、すぐに彼女は曲がり角を曲がってしまい、笑い声だけが遠ざかっていく。


 とっさに駆け出しそうになって、――九重と目が合った。思わず見惚れてしまうほどの大きな瞳が、ぐにゃりと歪む。


「へー、ふーん。ほー、ほえー」

「な、なんだよ……」


 それが、彼女が笑っているのだと気付いた時に、なんだか意地悪そうに口角を吊り上げ、くつくつと忍び笑いまで漏らす始末。


「くふふ、越尾クン」


 一歩踏み込んできた九重の体臭がふわりと香って、たまらずたじろいだ。

 20cmほど低い位置から覗き込むように見上げられて、その双眸の奥に自分の顔が映り込んでいるのさえ見える。


 まるで自分が、その中に吸い込まれてしまっているように、俺の意識も、彼女に釘付けにされてしまう。


「えっとね――」


 一歩後ろに飛び退き、その視線を俺の背後に投げやる。それから、ちょっとなにかを考えるような素振りをした時、


 ピピピピ、ピピピピ、ピピピピ!


 けたたましい音が響いたかと思いきや、九重が血相を変えて鞄の中を探り始めるものだから、どうやら彼女の携帯電話が鳴ったのだと分かる。

 学校の中ではマナーモードに。


「宮畔さんからだ! ごめん、ちょっと待ってて!!」


 ぴゃーっと逃げ出すようにその場を後にする九重。俺もいますぐ駆け出したい衝動を抑えて、相武に水を向ける。


「宮畔さんって?」

「マネージャーじゃないか。僕も知らないけど」


 結局、九重がすぐに戻ってくることはなく、昼休みの終了を告げる予鈴が鳴る。


 九重が、なにを話そうとしていたのか。

 それを心当たりというには、あまりにも独りよがりだろうか。


 けれども、さほどの間もなく、俺と彼女はふたりきりで、なんだったらコーヒーなんて飲みながら、テーブルひとつ挟んで、会話を交わすこととなる。


 まさか、それがあんなことになろうとは、知る由もなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る