第15話 「あはははは」の「は」のあとは息を吐きだす感じで発音する


 〇


 その時の九重と顔といえば、なんというか、能面のうめんのような表情をしていた。ふだんは人一倍表情豊かな彼女が、こんなふうになるなんて、いったい何事か。


 とっさに相武の方にも視線を投げると、


「そ、そそそ、そそ、そんな訳ないだろう!? せ、声優が同じ学校なんていうのは、前にも言ったが、も、ももも、妄想でだな……」


 いつにないくらいの慌てぶりを示していて、しかし、あんまりにも演技じみた狼狽ろうばいぶりなので、あるいは、俺のトンチキな発言をからかわれているのではないかしら。


「」


 九重の方は、ほぼ完全な無。悟りを開いていらっしゃる。その目はどこを見るでもなく遠くを見ていて、パンを入れた口はもぐもぐ動いている。

 が、じーぃっと見ていると、それはただただ、なんども咀嚼そしゃくのために動いているだけで、一向に嚥下えんげしようとしない。十秒、二十秒と眺めていても、もひもひ、もひもひと動き続けるのが面白いので、もうすこし見つめてみる。


 ちなみに視界の外では、相武が劇画のようなうろたえっぷりで、それもそれで面白い。


 やがて、あごの動きも止まり、こんどは口角がひくひくと動き出す。ちょうど猫の鼻たぶが震えるみたいに、痙攣けいれんを繰り返し、


「………………ぷ」


 ぷ?

 九重の唇が、大きく膨らんだ。そして、


「ぷふぅ――――――――!!!!」


 九重が、――き出した。


 幸いにも、直前に口の中身は飲み込んでいたようで、宙を舞うのは霧状の飛沫ひまつ、つまり唾だけ。


 世界がスローモーションに見える。

 九重の口から放たれた唾液の粒子りゅうしが、真昼の春の日差しに照らされキラキラ輝いている。

 厚生労働省の発表によれば、くしゃみのしぶきは2mの飛距離を有するというが、さもありなん。まるで散弾銃の弾丸のように猛然と突き進む。

 その勢いの向かう先には、


「あっ」


 ぺしゃっと。

 相武の顔に、大量の唾が噴きかかった。


「………………き」


 き?


「きったね――――――――!!!!」

「あはははははは! だって、だって! 侑真が、侑真が!!!」


 顔どころか、前髪の先や首元までしずくに濡れた相武が立ち上がり、九重に食ってかかる。

 他方、九重は相武を指差しながら、反対の手でお腹を抱えながら、体をかがめて呵呵大笑。


「だって、だって、だって、だってぇ!!!!」


 相武の慌てようがよほどツボにはまったのか、甲高い声で笑い続けている。さながら壊れたインコのような。


「あはははははははは!!!! あはぁ、あ、はぁ、はぁ、はぁ……」


 息継ぎもせずに、ひとしきり笑い飛ばして落ち着いたのか、単に肺の中の空気を吐き出しきったのか、狂ったインコの化身からようやく九重葵に戻ってきた。

 目尻に浮かべた大粒の涙をぬぐい、深呼吸をひとつ、ふたつ。


「でぇ、なンのハナシしてたんだっけ」


 いまだ九重の頬は引きったままだし、相武も挙動不審の居振舞いままだが、ともかく閑話休題。

 改めて口に出すのも憚られるような話題なもんだから、つと視線を逸らして、


「相武のリアクションが芸人みたいだって話。もしくは、九重が女子のわりに大食いって話」

「ボク、そんなに大食いじゃないよ!」


 無事話を逸らせたところで、改めて昼食を再開する。すったもんだしてしまっていたせいで、すっかり温くなってしまっている。とはいえ、醤油ベースの味付けは、冷めてからが勝負みたいなところもある。うむ、親子丼、うまし。


 ふた口目をすくって、口へ運びかけた時、なにやら横方向から視線を感じて向き直る。よもや有り余る食い意地に任せて、親子丼をねだるんじゃなかろうな。勘繰るように、横目で盗み見ると、


「だって、ボク、声優だもん」


 すっと、その大きな瞳に、視線が吸い込まれるように顔を向ける。


「だって、ボク、声優だもん」


 九重の顔を正面から見据えた時、彼女がいままでに見せたことのないような笑顔で微笑んだ時、


 ちら、ちら、と頭の中でなにか閃く。そして脳裏に稲妻に似たものを感じて、くらいとめまいがする。記憶が曖昧になりそうなこの感覚を、俺はどこかで知っている。


 助けを求めるように相武へ振り返ると、先ほどの狼狽ぶりとはうってかわって、ふだん通りの、呆れ果てたようなため息ひとつこぼして、


「お前なぁ」

「だってだって、侑真が、あんなジョーダンみたいなリアクションするから。ため息を吐きたいのはこっちの方なンだからね!」

「そりゃまあ、僕も悪かったが……」


 俺の目の前で、ふたりが事情に通じたような含みのある会話を二、三交わす。


 まさか、本当に?


「まさか、本当に?」


 その時の俺は、—―きっと窓際に座っていたなら、よほどの間抜け面が映っていたことだろうか――なにかを言おうとして、けれど続く言葉が出なくって、金魚みたいに口をパクパクやっていた。


「うふふん。びっくりした? 実は今期のアニメにも出てるンだからね! チェケラ!」

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