第8話 個人的には能登麻美子派



 つい口を突いて出た言葉。思わず両手で口を押えるが、しっかり相武の耳には届いてしまったようで、ただでさえ常に寄り気味の眉がどんどん吊り上がっていく。


「いや、いまのは……」


 うっかり失言だった、と取り繕おうとして、しかし、声優オタクを自称し、実際に御崎千絵里に関する知識を俺に披露して見せた相武なら、あるいはなにか勘付くこともあるかもしれない。


 などと淡い期待を抱きながら、疑り深そうな視線を向けてくる相武の反応を待つが、訝しむどころか不機嫌そうな顔色まで見せ始める始末。


「……はぁ、お前、そういうの外で言わない方がいいぞ」


 これ見よがしに大袈裟にため息をこぼし、手で眼鏡の位置を上げると、何をかを言いたげに二度三度口をパクパクさせる。が、もういちど盛大なため息を吐き出した。


「確かに、『声優が同じ学校にいたら』なんていうのは声優オタクがいちどは夢見る願望だ。でもな、それは妄想だ。家の庭を掘ったら石油が出てきた、みたいなもんだ」


 諭すような、言い聞かせるような調子で、俺の肩に手を置き相武は続ける。


「夢女子の下品な妄想も、思うだけなら、誰もアクセスしないブログに書くだけなら、罪にはならん。けど、口に出したらそれはイタいやつだ。そういう妄想は、胸にしまっておくのが吉だ。たまたま聞いた相手が、僕みたいな善良なオタクでよかったな」


 そう言い残して相武は立ち去ろうとするもんだから、慌ててその手をつかみ、


「い、いや、待ってくれ。願望とか妄想じゃなくって、たぶんそうなんだって」

「だからなんだそのアキネイターみたいな言い草は。なにを根拠に、そんな馬鹿みたいな妄想を僕が信じなきゃならない」

「それは、かくかくしかじかで」


 始業式の日の歌声、昨夜見たアニメのメイド、そしてたったいま起こった出来事を話す。聴力には自信がある、とも付け加えると、疑わしいどころか、いっそ白々しいくらいの眼差しを投げかけてくるのが辛い。

 

「話にならん。が、そこまで言うんだったら、ちょっとこれを聞いてみろ」


 なにやらスマートフォンを操作して、差し出されたイヤホンを耳に当てる。


「これから流すのは、石川麻実という女性声優の声だ」


 おしとやかな女性の、吐息がかった、鼓膜をくすぐるような声に身震いする。


「お次は、遠見沙百合」


 先ほどよりもすこし朗らかな、はにかみ交じりのささやく声。全身をぎゅっと抱きしめられるよな気分になる。


「じゃあ最後は続けて流すからな」


 一変して、高笑いする女性や、おどろおどろしいホラーめいた演技なんかも耳元で再生されるが、確かにいま聞いたいずれかの声優の声には違いない。声優ってすごい。


「石川麻美と遠見沙百合は、よく似てるって言われてるんだ。実際に僕もそう思う。これを聞き分けられたなら、お前のその眉唾話を否定はしないでやろう。ついでに、お前の声オタの素質も認めてやろう」


 後者は特にいらないけれど、挑戦というのならば受けて立つ。


「……もう一回、最初のやつも含めて聞かせてもらっていいか?」


 アニメの声を当てている以上、そのキャラクターを演じる以上、どうしても「声を作っている部分」は存在する。仮に、同じキャラクターの同じセリフを演じたとして、その部分を聞き分けるのは非常に困難だ。

 しかし同時に、人間が発声している以上、どうあっても変化せざる個性もまた存在する。同じ技量を持つ別々の人が、同じ楽曲を演奏しようとしても、滲み出る癖のように。


 なんだか、年始に放送されている芸能人の格付けを行う番組みたいだな、なんていう邪魔な思考をいったん脇へ追いやり、集中することしばらく、


「よし、分かった」


 イヤホンを外し、頭の中でふたりの声を改めて再生する。ほとんど確証をもって俺は回答する。


「ひとつ目が石川さん。ふたつ目からよっつ目は遠見さん。最後のは、たぶん、別の人じゃないか?」


 それまで(なぜか)得意気に、不敵な笑みを浮かべていた相武が、ぐにゃりと表情を歪めた。


「お前、すごいな……」

「なんというか、石川さんは『ふわぁ』って感じで、遠見さんは『ふわっ』って感じだな」

「いや、その感性はわかんねーよ」


 これで俺も一流芸能人の仲間入りだ。

 司会者には様付けで呼ばれ、椅子は肘掛け付き本革張り、スリッパは高級羊毛製。もちろん、控え室のお菓子は高級チョコレートに違いない。


 なおも渋面を張り付けつつ、しかし相武も観念したようで、


「お前の耳の良さは分かった。……けど、本人にそういうことを聞くのはタブーだからな」

「まぁ……それは、なんとなく、分かる」


 例えば、変装までしてオフを満喫している芸能人が、「〇〇さんですよね?」なんて言ってファンに詰め寄られたらいい迷惑だろう。


「僕はお前の話を信じた訳じゃないけど、そこまで気になるんだったら、ネットや雑誌の写真をチェックしたり、『お渡し会』とか接近に行ってみたらいいんじゃないか? いくら伸びしろがあるといっても、まだまだ新人声優には違いないから、そうそうないとは思うが」

「お渡し会?」


 聞きなれない単語。言葉通りに受け取るなら、なにかを渡す、もしくは渡されるイベントだろうか。


「……お前、来週の週末空いてるか? せっかく声優に興味を持ったんだったら、イベントに行かないと損だぜ」

「いや別に俺は声優に興味がある訳じゃなくって、御崎千絵里が……」

「まだ部活も決めてないんだろ? それに、こっちに越してきたばかりで、まだどこにも出かけたりもしてないだろ?」

「それは、そう、だけど」


 急に乗り気になり始めた相武に、流されるままスケジュールを押さえられ、しかも当日の参加券だとチケットを一枚押し付けられる。強硬に跳ね除ける間もなく、相武はとっとと走り去ってしまった。


「お渡し会、か……」

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