第7話 それをフラグと呼ぶならば


 〇


 お昼ご飯をお腹いっぱいに食べた後の午後というのは、なにゆえこんなにも眠気が鎌首をもたげてくるのだろうか。


 五限目の授業は、教師が「蝶めづる姫君のすみ給ふかたはらに、」と音読し始めたところで意識が吹っ飛びかけ、あわや机にキスしそうになるも、シャーペンを手の甲に突き刺すことで、なんとか土俵際のうっちゃりに成功する。


 ちらりと相武の方に視線をやれば、教室後方窓際、挙句前の席の生徒が高身長という好条件を最大限に利用し、完全に意識を失っていた。


 あくびひとつ噛み殺し、ふたつ噛み締め、みっつ目は堪えきれず放出し、なんてことを繰り返している内に、ようやく睡魔も引っ込んでくる。

 かといって、授業に集中できるかといえばそういう訳でもなく、xやyが黒板上で踊り狂っているのを流し見ながら、俺の意識はまったく別なところをふわふわしていた。


「デビューして一年経つくらいで――」

「子役経験があって――」

「ここ最近、アニメによく出演し始めた――」


 昼休みの終わり際、相武が早口に長広舌ちょうこうぜつをふるった、御崎千絵里のプロフィールを、ノートの上に書き出してみる。


 相武の教える通りであれば、深夜帯にやっているアニメを観ていれば、再び彼女の声に巡り会えるかもしれない(くだんの作品ではもう出番はないだろう、とも)。

 とはいえ、新たな環境に身を置いて、新たに始めた趣味が夜更かしとは、すこしばかり不健全ではありますまいかしら。


 そうだ、せっかくだから部活動もすこし見てみよう。ピロティのところに部員募集の張り紙があったのを、今朝見つけていた。

 相武にも手伝ってもらって、なにかおもしろい活動をしているところがあれば、ちょっと首を突っ込んでみるのもいい。


 6コマある授業のすべてが終わり、担任の教師のホームルームも済むや、俺は教科書や筆記用具を机の中に突っ込むと、窓際に駆け寄り、


「相武、ちょっと付き合ってくれよ」

「は? なれなれしいやつだな。僕は忙しいんだ」


 その割にはずいぶんのろのろとした所作で帰り支度をする相武の鞄をつかみ取り、


「まぁ、まぁ。そう言わずに付き合ってくれよ。ほんとにちょっとだけでいいからさ」


 渋い顔をする相武を強引に教室から連れ出して、下校を急いだり部活動にいそしんだりする生徒で溢れかえるピロティで、掲示板に張り付けられた多種多様の勧誘ポスター、ビラとにらめっこする。


「そういえば、相武は部活入ってないのか?」

「さっきも言っただろ、僕は忙しいんだ。土日はだいたいどこかでイベントをやってるし、地方民ほどじゃないがお金もかかるからアルバイトもしないといけないし」

「イベント? 地方民?」

「お前も、もしもみさきちを追っかけようって言うんなら、部活なんて入ってる場合じゃないぜ」


 疲れたように肩をすくめ、いよいよ付き合ってられんとばかりに相武が歩き出していこうとして、

 ――真横から走ってきた女性に横突され、蛙の潰れたような声を上げて、その場に尻もちを突いて倒れ込んだ。


 けれど、相武を跳ね飛ばした女生徒は、それでもその場で止まることはなく、


「ごめんなさい! あの、私、急いでいるので……。ごめんなさい!!」


 その声で、

 その耳覚えに余りある声で、

 昨夜からというもの、俺の頭の中でなんどもリピートしている声で。


「まったく、なんて女だ。人にぶつかっておいて、立ち止まりもしないなんて!」


 すっ転んだままの相武が、校門の方へと走り去っていく彼女に悪態あくたいを吐いて、同意を求めるような視線を投げかけてくるが、そんなものは目に入らない。

 学校の敷地内を出て彼女の姿が見えなくなるまで、俺はその背中を見つめてしまっていた。


「おい、越尾。なにぼうっとしてるんだ。こんなところまでわざわざ付き合って来てやったクラスメイトに対してその態度は、お前も白状なんじゃないか」

「ああ、いや、悪い。ただちょっと気になることがあって……」

「まさかあの女に一目惚れか? 確かに、アニメや漫画ではよくあるイベントだけど、その場合、フラグ立つのは、僕であってお前ではない」

「一目惚れというか、一耳惚れというか……」


 よく分からない怒り方をする相武が、鞄を拾って再び歩き出す。

 こんどはその背中をぼんやりと眺めながら、

 

「いまの先輩の声ってさ、御崎千絵里に似てないか?」

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