第6話 青田刈りオタクの朝は早い


 ○


「おい、スマホ、落としたぞ」


 惚けていた俺の意識を引き戻したのは、親切な男子生徒の声だった。


「まったく、こんなところでぼうっとしてるんじゃない。往来の邪魔だろ」

「あ、ああ。ありがとう」


 取り落としたスマートフォンを拾い上げ、手渡してくれる。


「……お前、そのアニメ観てるのか?」


 点きっぱなしだった画面を指す彼の言葉に、曖昧に肯く。


「興味があるというか、昨日の夜テレビ点けてたらたまたま目に入ったというか、耳に入ったというか」


 実際、アニメの内容はほとんど頭に入っていない。一方で、いくら忘れようとしても、頭からこびりついて離れないのは、彼女の声。


「出てくるキャラクターの声がちょっと気になって……」


 スマートフォンを受け取ろうとして、しかし、彼の指先がしっかりと握りこんで離さないもんだから、いぶかしみながらも顔を上げると、彼と目が合う。


「なんだ、僕と同類か」


 眼鏡の奥をきらりと光らせ、反対側の手を差し出してくる。


「僕は、二年の相武侑真あいむゆうま。こんなところで同類と出会えるなんて思ってもなかった。まぁ、仲良くしようぜ」


 朗らかに突き出された右手を取ると、がっしりとした握手を頂戴する。

 なにが同類なのかいまひとつ分からないが、転校初日に、同級生の友達が出来るのはありがたい。


「俺は二年六組の越尾こしお。越尾拓史。実は転校してきたばかりで、右も左も分からないんだ。よろしく頼む」

「六組? 同じクラスじゃないか。……そういえば、今朝、転校生がどうとか言ってた気がするな」

「なんで聞いてないんだよ……」

「朝は寝不足でいつも辛いんだ。なんせ、リアルタイム派なもんでな」


 目の下にあおぐろいクマを作った相武は、未だに眠たそうにアクビを漏らすと、きびすを返してそのまま歩き出してしまう。その背を追いかけながら、


「なぁ相武、握手までしておきながら言うのもなんだけど、同類ってどういうことなんだ?」

「んあ? だからお前も声オタなんだろ。アニメの話題振られて、真っ先に声優のことを切り出すなんて」

「声……オタ……?」

「誰推しなんだ? TORAKOか? 大坂あやめか? まさか男性声優なんて言わないだろうな」

「いや、俺は……」

「なんだ煮え切らないな。声優オタク同士、別に隠すことでもないだろ」

「声優オタク……?」


 ちょうど教室の前にたどりついたところで、相武はぐるりと振り返って、ずれたメガネの位置を整えながら、


「まさかお前、オタクじゃないのか……?」

「……たぶん、そう」

「なんだよそのアキネイターみたいな答え。はぁ、親切にして損した」


 疲れたようにため息ひとつ漏らし、教室の中に入っていこうとする相武。転校初日からさっそく出来た友人を逃す手はない。

 俺はその肩をつかまえて、


「ちょ、ちょっと待ってくれよ! その、『声優オタク』っていうのについて、よかったら聞きたいんだけど」

「声がでかい 。……ちっ、まぁ、早合点はやがてんしたのは僕だしな」


 不承不承といった様子で、相武は自分の席に座ると僕を手招きする。昼休みが終わるまではまだすこしあるから、まだ名前も顔も覚えていないクラスメイトの椅子をちょいと拝借はいしゃくする。


「声優ってのは知ってるだろ? アニメや吹き替え映画、それからナレーションなんかもやってる」

「うん、まぁ」

「それのオタクだ。以上」


 にべもなく、ぴしゃりと言い放つと、相武は机に突っ伏してしまうもんだから、


「ちょ、ちょっと待ってくれよ。つまり相武は、俺がその『声優オタク』だと思って話しかけたってことか?」

「あんまり大きな声でオタクオタクと連呼するんじゃない。いまでこそオタクも人権を得てるものの、市民権がある訳じゃないんだから」

「む、難しいな……。でも、オタクっていうのは、なにかのことをすごく好きな人のことだろ? それって、悪いことじゃないだろ」

「……………………」


 しばらくの間、相武は突っ伏した姿勢のまま、腕の隙間から僕のことを睨み続けると、やがて、呆れたようにため息をこぼし、おもむろに体を起こす。


「で、結局誰推しなんだ」


 唐突に投げかけられた質問。教室へ向かう途中にも聞いた質問。


「お前が声オタでないにしろ、声オタというものを知らなかったにしろ、すくなくとも『このおん』を観て、声優を演技を聞いて、なにか感じ入るところがあったんじゃないのか。メインヒロインか? それとも、七人の内の誰かか?」


 TORAKO、大坂あやめ、北条愛子、福田夜空、馬元飛鳥、と声優らしき名前を指折り挙げていくが、いずれも首を振る。


 声優に造詣ぞうけいの深いらしい相武に、素人質問でもするみたいで気恥しい心地だが、あるいは、彼ならば、彼女についてなにか知っているかもしれない。


「御崎千絵里って人なんだけど……」


 そう言うと、相武はとたんに血相を変えて、やにわに立ち上がるや否や、俺の肩をしたたかに叩き、


「目の付け所が、いや、耳の付け所がいいな! 確かに、『みさきち』は伸びると僕も思う!!」

「みさきち? 伸びる?」

「みさきちは、御崎千絵里の愛称だ。伸びるっていうのは、今後活躍していくだろう、ってことだ。実際、デビューしてまだ一年経ったところのはずだけど、前期、今期のアニメでも、端役ではあるもののいくつか役をこなしてて、僕もいいなと思ってたんだ。まだウィキもなくって、事務所のプロフィールくらいしか本人の情報はないけど、たしか、子役歴もあって――」


 しきり頷きながら、興奮気味に相武がまくしたてるのに、たまらず面食らう。さっきまで万年低血圧みたいなテンションだったから、ずいぶんな豹変ぶりだ。


 それからしばらく、相武の饒舌はとどまることを知らず。昼休憩を終えた席の持ち主が、胡乱うろんげな目つきで帰ってきたところで、ようやく落ち着きを見た。


 自分の席に戻りながら、御崎千・絵里で、みさきち、心の中で呟いてみると、なんだかちょっと面白い気がした。

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