第4話 田舎の電車は一時間に一本



 夜更かしをしてしまった朝は、すこしけだるい。ふだんは、十一時には床についているはずなのに、昨日は妙なことに時間を使ってしまい、寝入る頃には二時近かった。


 買ってもらったばかりのスマートフォンが鳴らすアラームに脳味噌を揺らされながら、あくびをひとつ。眠た目をこすりながら、リビングに降りていき、トースターをひとかじり。

 朝食を終えた後は、冷たい水で顔を洗い、歯ブラシを口につっこんでシャコシャコしている内に、ようやく目が覚めてくる。


「御崎千絵里……」


 なんとなく、呟いてみる。


 あの赤いリボンの先輩が「御崎千絵里」という人であることが判明したとして、しかしだからといってなんだというのか。

 昨夜は思いもよらない気付きに興奮してしまっていたが、冷静になったところで、やはりだからといってなんだというのか。


 このアニメのファンであるとか、そういう人たちであるなら、もしかすると、舞台裏を覗いたような喜びがあるのかもしれないが、俺はアニメなんかにはとんと疎い。

 それに、同じ学校の先輩がアニメに出演しているからといって、なんらかの方法で学校内から彼女を見つけだし、「あなたはこのアニメに出ていますよね?」なんて尋ねても、なんの益体にもならない。しかも、もしも万が一間違っていたら、赤っ恥で済まない。

 それどころか、彼女の側からしてみれば、もはやホラーだろう。


 それに、よくよく考えてみれば、あの御崎千絵里という名前であるという保証もない。たとえば明石家さんまの本名が杉本高文であるように、島田紳助の本名が長谷川公彦であるように、テレビに出演する人はたいてい芸名を使っている。

 アニメであってもその例に漏れるということはないだろう(昨日のクレジットにも、TORAKOや柚野みゅーという明らかに芸名で活動している人もいた)。


 そこまで考えたところで、いったん意識を御崎先輩から切り離す。なぜなら、もう十五分も歯磨きをしてしまっていたから。これでは本当に転校初日から遅刻してしまいかねない。


「いってきまーす!」


 越してきた新居は、学校からほど近い、徒歩で三十分、自転車で十分ほどの道のりにある。つい一月前まではバスと電車を乗り継いで一時間ほどかけて通っていたことを思えば、ずいぶんと気が楽だ。


 舗装された道を快速で走れば、まもなく学校のシルエットが遠くに見えてくる。五階建ての校舎は、住宅地の間からはよく見える。

 駅を通り過ぎたところで、私服着の同年代の男女が電車から吐き出されるのを尻目に、ペダルをこぐ、こぐ。きっと彼らも、目的地は同じだ。


「おはようございまーす!」

「はい、おはよう」


 校門をすり抜けると、外壁に沿って右に曲がり、指定の駐輪場に自転車を停め、すこし乱れた息を整える。


 同じく自転車通学の生徒たちが、まばらに自転車を停めていくのを見ながら、カゴに放り込んだカバンを乱暴につかみ取ると、駐輪場から一歩踏み出した。


 目の前に広がる光景は、まるで異世界のようですらあった。

 広大なグラウンド、巨大な校舎、私服登校の生徒たち、その数。なにもかもが、つい先月まで通っていた学校と違う。

 私立青山学園。改めて、ここに転校してきたんだという実感が湧いてきて、思わず身震いする。


 なにもかもが新鮮。新しい環境、新しい友達。部活動が盛んだというのだから、いろんなところに体験入部してみるのもいいかもしれない。

 俺の新たな学校生活が、いまここに始まる――


「ちょっとーぅ、そんなところで立ち止まられると、邪魔なんだけどぉー?」

「わっ。ごめん、なさい」


 振り返ると、自転車を押す女生徒が、不機嫌そうに睨みつけてくるのと目が合って、道を譲る。


「キミ、一年生? だったら、あっち側の駐輪場に停めた方がいいよ。教室近いし」

「ありがとう。でも、俺二年だから、こっちで大丈夫」

「ふーん。同級生にしては知ンない顔だ。ボクもみんな知ってるって訳じゃないし、ま、いっか」


 ウェーブがかった長い髪を後ろで結った少女は、颯爽と自転車にまたがると、ペダルを踏み込むとそのままグラウンドへこぎ出していく。


「いまから授業なんじゃないの!?」

「野暮用! ボク、特別科だから!」


 それだけ言い残すと、ポニーテールをたなびかせ、彼女は校門の外へと消えて行ってしまった。


「特別科、か」


 特別科ということは、彼女はスポーツ推薦組か、もしくは、なんらかの芸能活動に従事している身分なのだろう。俺とは縁遠い存在だ。

 芸能活動という言葉が、不意に琴線に触れて、しかしかぶりを振って隅っこに追いやる。縁遠い存在なのだから、気にするだけ無駄というものだ。

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