始まり
石化巨人の体の内が削られてできた、どこかの層の一角にある冷寒で小さな一室。小窓から差し込むの光が部屋を照らすが、光は弱く一室は薄暗い。岩から荒々しく一室が削り出されたことを物語る壁、天井、机、それと何年も使い古されてきたであろう木製の椅とそれにかけられた麻の衣服がかすかに光に照らされてぼんやりと見える。
廊下のぴたぴたという足音がなんとなく意識の隅で聞こえるようになって、さらに大きくなり、この一室の前で止まる。そして、強く扉を叩く音が一室に冷たく響き、私ははっきりと目を覚ました。
私は小窓の小さな光を頼りに服を着込み、身支度を素早く済ませ、ぎりりと小気味の悪い音を立てる扉を開いて廊下に出た。
廊下はこの一室とは違い窓がない。その代わりに岩石が削られて作られた廊下には小さな光る石が点々と埋め込まめている。だが薄い赤い光に照らされている廊下は私の一室より暗い。
扉の先には見回りの男が立っていた。
「遅い。朝食をとる時間が無くなるぞ」
この見回りの男はそうぶっきらぼうに言い残して、再び、ぴたぴたという足音を立てて廊下の闇に消えた。
私は肌寒く薄暗い廊下を進んで、一階層下の食堂へと向かった。
食堂の前までやってきてその扉を開くと、肌寒い廊下に暖かな光と熱気が抜けていく。食堂ではすでに大勢が朝食をとり終わっているようで、いつものように人は少なくなっていた。一人、食堂の隅で配布された麺麭と少々の肉汁をとっていると、どこからか話し声が聞こえてきた。どうやら私の職場の切り出した石を地上まで降ろすたの足場の具合が最近悪いという話であるらしい。私はそれを聞いて、仕事では足場には近づかないようにしようと思った。万が一踏み抜きでもしたら地上へ真っ逆さまである。数年に一回はそれで何人も死ぬのだから洒落にもならない。
それからその会話の話題は最近ここに訪れたという詩人の話に移った。
私はその会話になんと気なしに耳を傾けつつ食事を済ませた。皿を片付けた後もその話は続いていたが、私は職場に向かった。その程度のたわいのない話だった。
自室から三階層上の職場である石切り場にちょうど到着する頃、角笛の音が響いた。その音とともに、いつものように、奴隷が岩を割り、運び出す音が薄暗いこの石切り場に響き始めた。
石切り場の端の広い空間に置かれた椅子に座り、作業する奴隷を監督する。延々と彼らを見張り、時折指示を出す。それが私の仕事だ。
昼の休憩の時間の終わり、この階層の石切り場の総監督をしている者が私の下に訪れた。
その男は肥えた体つきをしていて、どうも豪勢な生活をしていると見える。
その男はその体を揺らし、私のほうまでやってきた。
「君はこの石切り場監督官だね」
「はい、総監督官様。どういった用でいらしたのですか」
私がこう聞くと、総監督は嬉しそうな顔で答えた。
「うむ。この階層での石の総産出量をどうにか上げられないものかと私は思案していてね。それで、それぞれの石切り場の監督官にどうにか産出量を挙げるよう言って回っているところでね。もちろん、それが成功した暁には私の補佐官の任についてもらおうと考えているよ。では、よろしく頼むよ」
私はこの総監督様の言葉に心が突き動かされた。この石切り場に押しとどめられていた私の心は、ついに解放される時が来たのだ。
少々名のある家に生まれた私にとって、幼いころから総監督というのは目標であった。そのためにここまで上り詰めてきた。ついには総監督の一歩手前補佐も夢ではないし、今までの妄想がついに可能性のある目標になりえるのだと思うと心が高ぶらないはずがなかった。そして私は人生最上の喜びを覚えた。
私はそうやって、その昼休みが終わる前から、総監督様の言う目標達成のため奴隷たちにもっと働き、もっとこの聖域「石化巨人」に尽くすべきと説いて回ったが、奴隷たちは一向に耳を傾けることはなかった。
彼らはそれがどうでもいいという態度をとっているようで、私はそれが理解できなかった。またそれがどうしても、苛立たしくてたまらなかった。なぜこうも私の言う言葉が理解できないのだと。私はそんな憤怒にかられた。
その時、石を地上まで降ろすための荷降ろし用の足場がある横穴が目に入った。
そこだけ大きな横穴が開けられ、外の岩でない世界を覗くことができる。その石切り場にぽっかりとあいた横穴はどこかすっきりとしないものだった。私の膨れてゆく考えの中身がそこから漏れてしまっているような感覚だった。だんだんと私の興奮は消え失せて、小さくなった。もう、誰かにこの考えを諭す気も失せた。
私はさっさと私の仕事にもどり、指揮を行った。
それから仕事が終わり、食堂へと向かった。
今日の食堂はいつものような静かさはなく騒がしいものだった。よく見て見ると食堂の中心の方に人だかりができていたのだ。私は少々の気分が下がっていたのもあって、こう煩くてはかなわなかった。
いったい何の騒ぎだろうとその集団に首を突っ込むと、中心には見られぬ服装の男がいた。手には、弦を張った楽器を持っていたのが見えたから、朝の話にも出ていた詩人なのだとわかった。
この詩人は何度か聞いたことがあるような英雄の詩をはじめに語った。それから、この詩人が作ったという詩が歌われた。
私は静かにそれを聞いていた。私はこの詩人の世界に引き込まれていった。
鮮やかに語られる人々の生活。壮大な物語とともに語られた国々の争い。緻密でどこか感情的なそれらの物語は想像しきれるものではなかった。そう、私の知らない世界がそこにはあったのだ。それはあまりにも信じがたいものであった。それは聴衆も同じであった。
私たちはここ、石化巨人の中の村々に生まれ、生涯を石化巨人の中でのみ過ごしてきた者たちである。詩人が訪れることがあっても、大抵はこんな層まで登ってはこない。だから、外のことなど知りもしなかった。
詩人はあらかた詩を歌い終わると言った。
「どうです、皆さん。この狭苦しい石の世界では、そう、面白いことが起きることもないでしょう。今宵はお楽しみいただけたでしょうか」
この一言を聞いた聴衆は黙っていなかった。ここは、われらの聖域である。われらの心を揺さぶる出来事がなかろうと、ここが狭苦しい世界であるはずなどなかった。彼らにとって、この詩人のその一言は侮辱であり、耐え難いものだった。この食堂に罵倒が飛び交うのに時間はかかりはしなかった。私も普段であればこの詩人の言葉を許してはいなかっただろう。だが、今日の私の心は昼の頃からどうも変に静かであった。あの膨れ上がった感情がしぼみ切ってから、一向に他人に対する強い衝動を持てなくなっていた。
そして、このような騒ぎにいたってしまったことは私にとっては、興ざめでしかなかった。私はそういう気分から、単純に詩人の詩を聞いていたいと思ったが、その詩人はこの聴衆の様子を見て、さっさとこの食堂を出ていた。
先ほどまでの聴衆たちは、言い争いをそれぞれで始めていた。もうこの場を納められそうもなかった。それに巻き込まれまいと、私も皿を片付けて自室へと戻った。
それから一晩中、あの詩人の話がどうも頭が離れなかった。確かにここにいてはそう聞けない話であり、興奮したのは確かだった。
私はふと昼間に見たあの、気分の下がった元凶である横穴を思い出した。あの詩人の言う世界はあの先に広がっているのだろうか。私はそう思って、あの横穴から見える境を思い出そうとしたがそれはできなかった。私はその横穴があることは知っていても、その先の景色、あるいは世界を見ようとしたこともないことに気づいた。私はどうしてもその景色を見たくなった。
いったいどんな世界が広がっているのだろうか。
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