第3話 地球へ

シャトルを降りて到着ロビーへ出ると、そこは大勢の人でごったがえしていた。


「おお、すごい人だねぇ。やっぱ大都会は違うなぁ。これに比べるとL2なんかド田舎だよねー」

「何、田舎者みたいなこと言ってるのよ。恥ずかしいわね」

「でも、久しぶりだよな。こんな人混みは」

「えっと、ここで乗り継ぎに4時間か。ちょっと時間があるね」

「ちょうどいいから軽く食事でもしない?」

「そうだな。次のシャトルのゲートは?」

「ターミナル5のC23になってるわよ」

「ここがターミナル2だから、連絡シャトルで移動しないといけないな。とりあえずターミナル5に言ってから食事にしないか」

「そうだね。そのほうが時間が読めて安心だ」

「どうせなら、連絡シャトルじゃなくて地上に出て車にしない?むこうの地上施設のレストランで食べようよ。地球を見ながら食事したいかも」

「地上でゾーンをまたぐ移動だと結構時間がかからないか?ここの地上はゾーン2だろ。むこうはゾーン1だし」

「移動には一時間もかからないんじゃない?余裕だと思うけどなぁ」

「いいんじゃないかな。まだ時間もあるし。それにゲートのあたりじゃ、あんまりまともな食事もできなさそうだから」

「しょうがないな。じゃ、上に上がろうか。いいかな、みんな」

「いいですよ。ここも久しぶりですから」

「時間つぶしにはなるから、いいわよ」

「同意」

「よし、決まりだ。じゃ、とりあえず上で車を拾おう」


俺たちは、昇降シャフトを探して、そこから地上に上がる。宇宙港内の時間はゾーン1で統一されているが、上に出るとゾーン2で時間が8時間戻る。時間帯は未明。そこから一時間弱の移動で、また昼のゾーン1というのも、また変な感覚だ。


俺たちはシャトルターミナル前の車寄せで、車を拾って乗り込む。このあたりは、差し渡しが20Kmほどある宇宙都市の中央部だ。ゾーン間の連絡道路は端に近い部分にあるため、かなり余計に走らないといけない。連絡シャトルなら5分で到着するのだが。まぁ、それはいまさら言ってもしかたあるまい。


「シャトルターミナル5まで」


行き先を告げると、車は機械的な応答を返してから滑るように走り始めた。宇宙都市の交通システムは全自動である。渋滞もない。車の運転間隔はすべて最適化されていて、乗った時点で到着時間が正確にわかる。今の予測は32分。思ったよりも早く着きそうだ。


「余裕だね。ゆっくり食事ができそうだよ」


高架道路に上がった車は、流れに乗ってスムーズに走っていく。太陽はまだのぼっていない。空には満天の星。東の空が少し明るいのは夜明けが近いからだろう。車はしばらく北に向かって走るとジャンクションで東に折れ、ゾーンをまたぐトンネルに入る。トンネルを抜けると、そこは昼間のゾーンである。まるで別世界への異次元トンネルを抜けたような感覚だ。車はまたジャンクションから高架に上がって今度は南に向けて走り出す。窓の外は広々としたグリーンベルト。そしてその先には高層ビル群がそびえている。


「やっぱり都会だな、ここは」

「何、田舎者みたいなこと言ってるのよ。東京育ちのくせして」

「あのな。L2と比べての話だろ」

「まぁ、たしかにL2はここと比べれば、ド田舎だけどね。地球も見えないし」

「そういう問題か?」

「いやいや、地球が見えるってのは、宇宙都市的にはひとつのステータスでしょ」

「くだらないわね。そんなの関係ないじゃない」

「同意。それは単なるノスタルジー」

「でも、お歳を召した方々は地球が懐かしくなるっていいますから、そんな価値観があってもいいんじゃないでしょうか」

「やっぱ老後は地球よね」

「勝手に老け込んでなさいよね。あんたいったい何百歳なのよ」

「まぁまぁ、価値観は人それぞれだろ。それでいいんじゃないか?」


まったく、油断しているとまたキナ臭いことになりそうだ。この旅行も、ずっとこの調子だと先が思いやられる。最近、とみにケイと美月のつばぜり合いが激しくなっている気がするのだが、リーダーの俺としては、ちょっと困りものだ。いいタイミングでマリナが火消しを手伝ってくれるのが、せめてもの救いだが。


「で、食事はどこにする?」

「シャトルターミナルの地上側にレストラン街があったわよね。まぁ、味はあんまり期待できないけど」

「あ、それならいいお店がありますよ。L2にあるお店の同じ系列なんですけど」

「それって、例のお店?」

「そうです。実は各宇宙都市にお店を出してるらしいんですよ。私も最近知ったんですけど」

「なら、そこにしよう。美月も文句ないだろ?」

「ま、地球以外じゃマシなほうだし、いいんじゃない?」

「素直じゃないねぇ。必死にステーキ食べてたのは誰だっけ?」

「うるさいわね。ほっといてよ」

「じゃ、ちょっと予約できるか聞いてみますね」


マリナはコミュニケータを取り出して店を呼び出す。幸い、席は空いていてすぐに入れそうだ。


「マリナったら準備がいいねぇ。もしかして狙ってた?」

「あ、実は少し・・・・。私も、あのお店は気に入ってるんですよ」


なるほど、そういうことか。でもまぁ、あちこち迷わなくていいのは大助かりだ。そもそも、マリナがいなかったら、どの店にするかで大もめしそうだし。新学期直後のドタバタの後、食事会をやった附属高歴代生徒会御用達のレストラン。とにかく自己主張が強いこのチームの最大公約数をとれる数少ない、というより今のところ唯一の店の系列店が、ここにあるとは俺も知らなかった。

まもなく車は市街地のはずれにあるシャトルターミナルに到着する。俺たちはマリナの案内で、お目当ての店に入り、出発までの間、ちょっと豪華なランチを楽しむことになったのである。


「ちょっと食べ過ぎたねぇ。苦しいかも」

「まったく、どれだけ食べるのよ。太っても知らないわよ」

「そういう誰かさんだって結構食べてたと思うけど?」

「うるさいわね」

「確かにちょっと食べ過ぎましたね」


確かに食い過ぎた気はする。ケイと美月だけじゃない。マリナまでもがちょっと苦しそうだ。想像通り、L2の店と変わらない美味しさで、しかもメニューはこっちの方が充実している。他のステーションの店も機会があれば行ってみたいものだ。地球にも店はあるのだろうか。これならば地球でも十分に商売ができそうだが。


ターミナルビルの中央にある昇降シャフトは、地下の出発、到着ゲートまでつながっている。俺たちはレストランフロアから一気に出発フロアまで降りる。ゲートに着くと、そこにはあのシャトルが駐機している。オライオン社の最新型シャトルTS5―300型、忘れもしない因縁の機体だ。ここまで乗ってきたシャウラとは異なり、地球の大気圏を飛ぶように設計されたこの機体は、すらっとした流線型をしていて、小さいが翼もある。大きさは違うが、スタイルはこちらのほうが、ずいぶんスマートだ。しかし、この機体にはちょっとトラウマがある。附属高入学式当日これに乗って、間違えばあの世行きになっていたかもしれないのだから。見れば美月もちょっと考え込んでいる様子だ。


「また、あんたと、これに乗るのよね」


美月が俺を見て言う。


「ああ、何が言いたい?」

「別に。あんたのこの一年の行いが良かったことを祈るだけよ」

「だな。俺もおまえの行いの良さを祈るよ」

「私は・・・・、なんでもないわ」


美月は何かを言いかけて、それを飲み込んだようだ。その判断は正しい。あの時も、今、たぶん美月が口にしようとした、その言葉を言うたびに、俺たちには次々と災難が降りかかったのだから。神様なんてものがいるならば、少なくとも俺たちは二人とも、あまり受けが良くないらしい。最近も、実習中の事件の際に、同じようなことがあったばかりだ。さすがの美月も学習して、その後は実習中でも軽口は叩かなくなった。変なフラグを立てるのだけは避けたい。


「そう言えば、二人にとっては思い出深い機体なんじゃないか?」


ジョージがまた余計なことを言う。


「思い出深い、と言うよりはトラウマだけどな」

「そうね。とりわけ、あんたと一緒だと悪夢がよみがえるわ」

「それは俺も同じだが」


という会話になってしまうのはわかっている。それに、俺たちにはこの話を拒絶したい理由がもうひとつあるわけで・・・。つまり、記憶から消しておきたい一言とか・・・。


「お二人とも、大変な目にあったんですから当然ですよね。大丈夫ですか?」


マリナは心配してくれるのだが、それはそれで、逆にちょっと気を遣うわけで。


「宇宙気象局の短期予報だと、大きな太陽活動はなさそうだし、今回は大丈夫じゃない?」

「当然よ。あんなことが何度もあったらたまったもんじゃないわ」


たしかに美月の言うとおりだ。あんな事故はここ数十年なかったはずだ。どうして俺たちの時に、という恨み言も言いたくなる。まぁ、今回はお客さんに徹して、ゆったりと旅を楽しもうじゃないか。


やがて、搭乗開始のアナウンスがあって、俺たちはゲートに向かう。この便は2クラスのシートなので、ファーストクラスの乗客が乗り込むのを、指をくわえて待つこと数分。俺たちもゲートを通って搭乗となる。ここでもチケット情報はDIユニットとゲートの機器との間で自動的にやりとりされる。チェックがOKにならないと通過はできない。そして、真っ先に俺がゲートを通ろうとしたとき、いきなりアラームが鳴ってゲートが閉じた。


「お客様、少々お待ちください」


係員がゲートのパネルで情報をチェックしている。


「中井ケンジ様ほか5名様ですね。申し訳ございません。ちょっとこちらのカウンターでお待ち願えますでしょうか」


係員はそう言うと、ゲート脇のカウンターの方に俺たちを案内する。


「あんた、何やらかしたのよ」

「知らねーよ」


お約束の美月の突っ込みだが、不安なのは確かだ。何も悪いことはしていないはずだが、ちょっと不安になってしまうのは、心にやましいことがあるからだろうか。いや、そんなはずはない。しばらくすると、シャトルの方からアテンダントとおぼしき女性がやってきた。


「中井様、星野様、沢村様、クレア様、エイブラムス様、エドワーズ様の6名様ですね。お待ちしておりました。機長がご挨拶したいと申しております。お手間をおかけしますが、操縦室までお越し願えますでしょうか」

「機長さんが・・・ですか?」


いったい機長が、アカデミー基礎課程のひよっこたちになんの用だろうか。俺たちは、おそるおそるアテンダントの後についてシャトルに搭乗し、操縦室に向かう。


「もしかして、アカデミーの先輩とかだったり?」

「なによ、先輩風でも吹かそうってのかしらね」


ケイと美月はそんな会話を小声でしている。

操縦室は、セキュリティ上の理由から航行中は乗客立ち入り禁止である。だが、駐機中は機長の許可があれば立ち入りできる。まぁ、出発前の忙しい時間帯に乗客の見学許可を出すようなクルーはまずいないから、乗客が立ち入ることはほぼないのだが。操縦室の中は、見覚えがある雰囲気だ。なんとなく去年の出来事がよみがえってくる。そう、あの時のことも・・。見れば美月も同じようなことを考えているようで、目が合った瞬間に赤面して顔をそむけた。


「皆さん、わざわざお越しいただいてすみません」


機長席に座った男性がこちらを振り向いて言う。


「あ、あなたは・・・・」

「はい。その節はお二人には大変お世話になりました。本来なら、こちらから出向くところですが、なにぶん出発前で取り込んでいるので、こんな形で失礼します」


そうだ。この顔には見覚えがある。あのときの機長だ。俺が操縦室に行ったときは、もう意識が無くて話はしていないが、顔は覚えている。


「復帰されてたんですね。よかった」

「いや、本当にお二人のおかげです。治療が間に合ったおかげで、こうして後遺症もなく、仕事に復帰できました。本当に何とお礼を申し上げたらいいかわかりません。ありがとうございました。その後、お会いする機会もなくて、今回、乗客名簿に皆さんのお名前を見つけたので、無理にお願いしてしまいました」

「いえ、本当に幸運が重なったんだと思ってます。きっと機長さんや他の乗客の皆さんが、とても幸運だったんじゃないかと」

「そうですね。でも、あの後はずいぶん大変だったでしょう。私が星野さんを巻き込んだことで、色々とご迷惑をかけてしまったこともお詫びしないといけません」

「そんなこと、気にしなくていいわよ。ちょっとした有名人気分だったし、ああいうのも悪くないわ」

「そう言っていただけると少し気持ちが楽になります。さて、そろそろ仕事に戻らないといけないので、これで失礼します。皆さんにはお礼の気持ちをこめて、会社からファーストクラスの席を用意しています。ゆっくりと旅を楽しんでください」


静止軌道から下は非常に混雑していて速度制限があるため、フライトは通常軌道で6時間以上になる。その間、窮屈なエコノミーシートを覚悟していたのだが、これは思わぬプレゼントだ。俺たちは機長に礼を言うとアテンダントに案内されて、最前部の豪華なシートに座る。


「すごい、ふかふかだよ、これ。それにフラットになるんだ」


ケイは、早速シートを倒して遊んでいる。


「あんたね、何浮かれてるの。恥ずかしいわね。そんなにファーストクラスが珍しい?」

「だってさ、ファーストなんて、学生の身分じゃ乗れないし。楽しまなきゃ損だよ」


俺はどちらかと言えばケイに同意したい。たしかに前回もちょっと事情があってファーストに、つまり美月の隣の席に座ることになったのだが、美月とは違って、最初からファーストクラスのチケットなんて絶対買えないから。


「なんだか豪華だよね。ケンジと美月に感謝だね。これは」

「そうですね。なんだか優雅な気分です」


そんな会話をしている間に、出発時刻。間もなくボーディングドアが閉まって、おきまりのアナウンスと映像が流れ、それからシャトルはゆっくり動いてカタパルトへ移動する。地球行きのシャトルは他と違って、いきなりフル加速で射出はされない。様々な衛星やら、大昔にばらまかれたデブリやら、宇宙船やらで大混雑している地球軌道は、昔ながらの軌道速度に制限されている。シャトルは一旦、静止軌道に近いドリフト軌道に移動して、指定経度近くまで移動したあとで、エンジンを使って減速し、中軌道から低軌道へ落ちていく。最後に高度400Km程度の低軌道で、減速ステーションの磁場に捉えられ、その高度で地球周回軌道に乗った後、目的地に向けて大気圏に突入するのである。この一連の流れには6時間ほどかかる。もし、着陸地が混雑していたりすれば、しばらく低軌道で待機することになり、地球を何度か周回することになるから、場合によっては1、2時間余計にかかる可能性もあるのである。この宇宙時代にあっても、地球はやはり特別な場所なのだ。特に、恒星間航路の船の乗員たちにとっては、地球周辺航路はタイムスリップでもしたような感覚になるという。


「ここからが長いのよね。食事パスして寝ていたい気分だわ」

「えー、ファーストクラスの食事をパスするの?」

「べつに、そんなに上等な食事じゃないわよ。さっき食べたのと比べたら、がっかりするから」

「そりゃ、美月はそうかもしれないけどさ。私は話のネタに食べておきたいかな」

「そもそも、さっき食べたところじゃない」

「たしかに、今はちょっと入らないかもしれないけど」


ケイは自分の腹を、ぽんっと叩いてため息をつく。地球行き所要時間の三分の一は静止軌道からドリフト軌道で落下点まで移動するのに要する時間だ。なので、機内食は比較的動きが穏やかで、乗員も仕事が少ないその時間帯に出されるのである。そう言う意味では、乗り継ぎ前に食事をしたのはちょっと失敗だったかもしれない。俺もちょっと今は入らない。いっそ、折り詰めにでもしてもらって持って帰るか。


「お願いだから、持って帰るなんて恥ずかしいことは言わないでよね」

「あ、読まれちゃった・・・・?だめかな。お弁当に・・・って」

「あのねぇ、どこの世界に機内食を持ち帰るバカがいるのよ」


ケイも俺と同じ事を考えていたらしい。口に出さなかったのは正解だ。俺が言ったら、美月の突っ込みはこんなもんじゃないだろうからな。さて、そんな事をしている間に食事のサービスが始まる。


「こちらが本日のメニューでございます。和食もございますが、いかがなさいますか?」


アテンダントさんが聞いてくれるのだが、どうやっても入りそうにないので、泣く泣くお断りすることにした。


「それでしたら、後ほど何か軽い物をお持ちいたします。お召し上がりになれるようでしたらおっしゃってください」


そう言って、アテンダントさんは爽やかな笑顔を振りまく。結局、全員が後で軽食をお願いすることにして、食事はパスした。


「さすが、ファーストクラスだね。対応が違うわ」


ケイがつぶやく。


「だよな。お客さんになったって感じがするよ。エコノミークラスはほとんど家畜扱いだし。毎回ファーストに乗れるような身分だったらって思うよ」

「でも、あの時はケンジもファーストだったわよね?」


脇から美月が突っ込んできた。


「あ、ああ。でも、あれは・・・・」


そうだ。あの時は、たまたまオーバーブッキングで席がなくて、お情けでファーストクラスに座らせてもらったわけで。しかし、それはあまり美月には知られたくない。


「それに、あの時も食事断って、何か軽い物を食べてたじゃない?」


こいつは余計なことをよく覚えている。あれも、もともとエコノミークラスだったから、あの食事だったに過ぎないのだ。それを勝手に美月がダイエットかなにかと勘違いしただけである。


「そうだったかな。あまりよく覚えていないな」


と、ここはちょっと、とぼけておくことにしよう。本当のことを言うのは、かなり癪に障るから。とりあえずは適当にごまかして、俺は一眠りすることにした。サラウンドビューに切り替えると、地球を見下ろして浮かんでいる感覚だ。この場合、目をつむれないので、眠るには少しコツがいる。意識を空の暗い方に向けておくのである。そうしていれば、いつしか眠ってしまう。サラウンドモードにはスリープサポート機能があり、意識が薄れるにつれて、サラウンドの画像も自動的に暗くなっていく。そしてサラウンドモードは眠ると自動的に解除される。目覚めたときにサラウンドのままだと、慌てて状況が理解できなくなる危険があるからだ。サラウンドのまま動いてしまうと、本当の周囲が見えなくて怪我をしたり、他人に怪我をさせたりする恐れがある。


俺は意識を、空を横切る天の川に向ける。美しい景色だ。そう言えば、昔、夏休みに親父と山に星を見に行った時もこんな天の川だったな。もちろん地球で見るよりも、こちらの方が数段明るく見えるのだが、心に残った風景は、むしろあの時の方が鮮烈だ。あれは、俺の原風景のひとつになっているのかもしれない。そんな事を、ぼんやりと考えている間に、俺は眠りに落ちていた。そして、ちょっと不思議な夢を見た。


どこかで見たことがある景色。空には天の川。手が届きそうな星の下で、俺は草原に寝そべっている。


「あれがアルタイル、そして、天の川を挟んで光っているのがベガ。その二つの星と大きな三角形を作っているのが、デネブ・・・」


そう誰かが言う声が聞こえるが、俺にはそれが誰だかわからない。どこかで聞いたことがある声なのだが、誰だか思い出せない。


「アルタイルは若き牛飼い。ベガは優しい織姫。でも二人の間には天の川が逢瀬を阻むように流れているんだ」


気がつくと、俺は空に浮かんでいて、目の前の天の川には、星たちが勢いよく流れている。向こう岸を見ると、明るく光る星の上に、少女が座っている。よく知っているはずなのに、名前が思い出せない。彼女は、天の川の上流を見つめている。俺は、彼女の方に行こうとするのだが、流れが激しくて進めない。前へ進もうとするのだが、足が重くてまったく動けないのである。俺は向こう岸の彼女に知らせようとするのだが、声が出ない。彼女は、俺に気づかず、ずっと上流を見つめている。気がつくと、そのまま時間が凍り付いたように、すべてが動きを止めていた。


どれくらい寝たのだろう。照明が落とされて薄暗くなった船内で、俺は目を覚ました。同時に俺は思い出す。そうだ、あの声は親父だ。子供の頃に星空を見ながら星座や星の名前を教えてくれた、あの時の声だ。そして美月。向こう岸にいた少女は間違いなく美月だった。俺の子供の頃の記憶になぜか美月が溶け込んでいる。たぶん夢というのはそういうものなんだろう。過去から現在に至る記憶が混ざり合っている。今の自分の内面を見るようなものなんだから。俺は、ぼんやりとそんなことを考えながら、また目を閉じた。


次に目が覚めた時には、機内の照明が明るくなり、アテンダントが準備する軽食のにおいが船内に漂い始めたころだった。俺は体を起こして思い切り背伸びをし、それからシートの背を少し立てて、それにもたれかかる。隣の美月も目を覚ましたようだ。


「あんたのせいで、変な夢を見たじゃない」


体を起こしてしばらく、ぼんやりと前を見つめていた美月だったが、ぼさぼさになった髪を気にする様子も見せず、いきなり俺の方を見てそう言った。


「俺のせいって、そりゃ言いがかりだろう。それを言うなら、お前こそ俺の夢に出てきやがって」

「冗談じゃないわ。勝手に人の夢見ないでよね。どうせエッチな夢でも見てたんでしょ。この変態下僕」

「あのなぁ。俺のは昔、親父と見た星空の夢だっての。そもそも、どうしてお前がそれに出てくるんだ?」

「星空・・・って?」


なぜか美月は一瞬口ごもった後に続けた。


「そんなの知らないわよ。昔の夢に私を勝手に巻き込まないでよね。迷惑だわ」

「巻き込んだんじゃない。お前が勝手に入ってきただけだろう」

「おはよ~、今日も仲がいいねぇ。ちょっと妬けるかなぁ・・・・」


いいかげんわけわからん会話になり始めていたあたりで、ケイが目を覚まして割り込んできた。眠そうに大きなあくびをひとつ。いいタイミングだ。


「何をどう見たら、仲が良く見えるのよ」

「ほら、喧嘩するほど仲がいいとか言うじゃない」

「普通、仲のいい相手に、寝起きでいきなり喧嘩は売らんと思うけどな」

「で、喧嘩の理由は何だったのかな?」

「こいつが、私の夢を邪魔したのよ・・・って、あんたには関係ないじゃない!」

「へぇ、夢に見るほど好きなんだ」

「違うわよ。誰がこんな奴!勝手に解釈しないでよね。こいつが出てきたせいで、せっかくの夢が台無しになったんだから」

「ふーん。で、どんな夢を見たのさ、美月は」

「あんたには関係ないじゃない。ほっといてよね」

「恥ずかしい夢? あ、ちょっとエッチな夢とか?」

「あんたとは違うんだからね。なんで、私がケンジ相手にエッチな夢を見なきゃいけないのよ」


そう言いながら、美月は少し赤面する。そこで赤面されると、俺の方が少し恥ずかしいのだが・・・。でも、それがどんな夢だったのか、俺はちょっと気になる。それに、お互いに夢に見るなんて、なんとなく・・・・いや、考えすぎだ。単なる偶然に違いない。忘れよう。


「皆様、おはようございます。機長です。当機は現在、地球低軌道までの降下を終え、大気圏突入の最終準備を行うと同時に、目的地への進入許可を待っています。予定では、一時間後には大気圏への突入を開始することになります。皆様にはそのまえに軽いお食事を用意いたします。眼下の地球の景色をご覧になりながら、お食事をお楽しみください」


そんなアナウンスが流れて、食事が配られる。前の食事を食べていないので、かなり腹が減っている。サラウンドでの大気圏突入はなかなかエキサイティングな体験になるから、その前に腹ごしらえをしておくとしよう。


食事が終わり、やがてシャトルは大気圏に向けて降下を始める。サラウンド慣れした俺たちも、大気圏突入は経験があまりない。少なくとも俺は初めてだ。シールドで守られているとはいえ、周囲の空気は高温のプラズマとなって流れていく。まるで自分が流れ星になったような感覚だ。その昔から、不具合によって大気圏で燃え尽きた宇宙船も少なからず存在する。一旦保護を失えば、容赦の無い高熱がすべてを焼き尽くすのである。そんなリスクを冒しても帰りたい、地球という場所は、そういう特別な場所なのかもしれない。


そんな事を考えている間に、シャトルは高層大気を突き抜けて成層圏に入る。空の色が黒から紺、そして深い青へと変化していく。その頃には速度もかなり落ちて、シャトルは滑空モードに移行する。このシャトルのエンジンは、それ自体で機体を軌道に上げる力はない。上昇時のほとんどは、地上からの指向性磁場の力を借りて加速するので、最終段階まではエンジンを使わなくていいからだ。降下の時も、滑空した後に宇宙港からの磁場に捕捉されて誘導されるので、非常時でもなければエンジンを使う必要はないのである。まぁ、この前はその非力なエンジンにもだいぶ助けられたわけだが、それはつまり、そういう際どい状況にあったということになるだろう。


「もう星は見えなくなってしまいましたね」


マリナがそうつぶやく。地球の大気圏という井戸の、ここはまだ入り口に近い。雲はまだだいぶ下だ。地球はまだかろうじて球の姿を保っているが、空は既に大気の薄いベールに覆われて、太陽光を散乱させている。深い青色だが、もう星はほとんど見えない。


「なんか、落ちてる・・・・って感じになってきたな」

「重力に引かれてるって感じよね」


実際、俺たちは濃紺の空から、下方に見える白い雲の波に向かってダイブしているわけだ。サラウンドモードでは、まさにダイブの感覚である。昔から時々冒険家が高高度用の気球を使って上がってきて、そこからダイブするのだが、落下速度はあっという間に音速を超えてしまう。空気の抵抗はまだその程度だ。もちろん生身の人間なんか丸焼きにしてバラバラにするくらいの力はあるのだが、下層の濃い大気に比べれば、無いも同然である。地球の大気圏はそれほどに薄っぺらだ。電離圏の上層まで入れても、地球の直径の、ほんの1%か2%しかない薄皮なのである。


ずっと下に見えていた雲の海が、次第に近づいてくる。シャトルは、少しバンクして進路を変える。そろそろ宇宙港へのアプローチに入ったらしい。下方には大きな積乱雲が並んでいる。対流圏に入る直前、軽いショックがあって、ぐっと速度が落ちる。宇宙港からの誘導磁場に乗ったようである。あとは、着陸コースに誘導されて着地するだけだ。

気がつけば、入道雲の頭はもう横にあり、俺たちはその谷間を降下している。そして前方に、綺麗な形をした成層火山、富士山が見えてきた。その裾野には地球でも有数の宇宙港、フジ・スペースポートが広がっている。そういえば、ここから旅だって、そろそろ一年半になるな。そして美月に出会ったのも、この場所だった。まぁ、あまり思い出したくない出来事ではある。横目で美月を見たら目が合った。おそらく、あいつも同じ事を考えているんだろう。


「当機は間もなく着陸いたします。着陸時のサラウンドモードご使用は、急な景色の変化でご気分を悪くされる方がいらっしゃいますので、ご注意ください」


これもお決まりの注意だが、俺たちには関係がない。それくらいで気分を悪くしていたら宇宙船乗り失格だ。実際、着陸速度は結構速い。正確には着地せずに磁気浮上した状態で一気に減速し、そのまま誘導路に沿ってゲートまで引かれていく。念のため車輪を出すが、ゲートに到着するまで接地することはないのである。着陸は結構混雑しているようで、数キロの間隔をおいて、シャトルが列をなしている。ジョージの仕掛けのおかげで前後の機体の情報はすべてサラウンドの中に表示されている。


「結構混雑してるねぇ。アプローチが行列になってるし」

「こんなのはまだ空いてる方よ。ここは上空待機を食らうことも少なくないわ」

「そっか。私はいつも札幌直行だから、フジはほとんど来ないんだよね」


ケイと美月がそんな会話をしている間に、俺たちのシャトルは一気に高度を下げる。まるで落ちていくような感覚だが、それはそれで面白い。ランウェイ直前で一気に減速し、最後は地上すれすれでランウェイに滑り込んでいく。


「皆様、当機はただいまフジ・スペースポートに着陸いたしました。ゲート到着まで、いましばらくお待ちください」


そんなアナウンスを聞きながら、俺はサラウンドを切った。さて、久しぶりに地球に戻ってきたわけだが、なんとなく気が重いのは、これからあれこれ大変になりそうな予感からだろう。このメンバーで一緒に動くと、だいたい想定外の事態が起きるのだから。まぁ、それも普段ならば悪くないのだが、地球で、しかも俺の地元の東京でとなると、ちょっと憂鬱になるのだ。


「皆様、長らくの搭乗お疲れ様でした。シートホールドを解除いたします。ドアが開くまで少々時間がかかりますので、準備をしてお待ちください」


俺たちは荷物を取り出すと、それぞれに支度をして、前方のボーディングドアが開くのを待つ。やがてドアが開くと、ボーディングブリッジの少しなまぬるい空気が流れ込んでくる。エアコンディショニングされているとはいえ、宇宙都市や宇宙機内の空気とはどこか違う、自然の空気の香りだ。ファーストクラスの俺たちは、真っ先に降機することになる。コンコースは明るくて、機内になれた俺たちの目には、ちょっと刺激が強い。シールドのおかげで熱は感じないが、透明な天井を通して夏の太陽が真上に光っている。目の前には雄大な富士山の姿。これを見ると、帰ってきた実感が湧いてくるのである。


俺たちは、とりあえず預けた荷物をピックアップして到着ロビーへと向かう。休暇時期とあってか、到着ロビーは混雑している。さて、ここからは東京都心まで列車を使う。車でもいいのだけど、列車の方がだいぶ速い。アクセストレインは磁気浮上型の高速列車で、ものの20分で都心まで到着する。まぁ、荷物を持ち運ぶ手間はやむを得まい。


「ねぇ、車にするよねぇ」

「え?時間がかかるからアクセストレインだろ」

「そっか、じゃケンジが荷物を運んでくれるんだ」

「おい。自分の荷物は・・・・」


そう言いかけて女子たちの姿を見た俺は唖然とした。ケイと美月は大きなスーツケースをふたつ。マリナとサムは一個だが、これもそこそこのサイズだ。


「いったい、何の荷物だ、それは!」

「あんたね。自分と一緒にしないでよ。女子はあれこれ大変なんだから」

「そうだよ。私も一応は女子なんだよね。いろいろと支度があるし。しかも、この後里帰りするんだからさ」


たしかに、美月もケイも実家への帰省を兼ねているわけで、土産のひとつやふたつは必要かもしれない。マリナとサムは旅行モードの分、荷物が少ないってわけか。しかし、この荷物じゃ仕方が無いな。俺とジョージの二人で、この大荷物を運ぶのはムリだ。


「しょうがないな、それじゃ車に・・・・」


そう言いかけた時だった。後ろから誰かが、どんっ、と抱きついてきた。


「お兄ちゃんっ!」


驚いて後ろを見ると、妹の沙依(さより)だ。


「もう、ずっと手を振ってたのに、お兄ちゃん、気がつかないんだからっ」


妹はちょっとふくれっ面をする。今年、中学2年になった俺の妹は相変わらずの様子だが、どうしてこいつがここにいるんだ?


「お父さんも来てるんだよ。お兄ちゃんたちを迎えにね」

「そうなのか、親父も?」

「うん、表に車を回すから、お兄ちゃんたちを連れてこいって。あ、皆さん、いつも兄がお世話になってます。妹の中井沙依です」


妹は、ここぞとばかり愛想を振りまいている。こういうところは抜かりがない。


「おお、可愛い妹さんじゃない。本当にケンジの妹なのかな」

「あ、もしかして沢村さんですね。お噂はかねがね・・・」

「ねぇ、ねえ、それどんな噂かな?ちょっと気になるかも」

「あはは、それは内緒です。お兄ちゃんに聞いてくださいっ」

「こら沙依、お前なぁ、適当なこと言っておいて人に振るなよ」

「いやいや、初デートのエピソードとか、話してくれたじゃない」

「は、初デート?」


俺と、ケイ、それから美月の三人が同時に反応する。


「ちょっとケンジ、それどういう話か聞かせてくれる?」


いかん。美月がかなり怖い顔になっている。


「おい、何の話だ。そんな話してないだろ」

「あれ?沢村さんじゃなかったっけ?もしかして星野さんの話だったかな」

「ケンジ、あんた妹に何話してるのよ!」

「あ、星野さん・・・ですね。はじめまして。シャトルでの話は兄から色々と聞いてますよ」

「おい、沙依・・・」

「それ、どんな話か興味があるわね。沙依ちゃん、後でゆっくりと聞かせてよ」


なんか、いきなりヤバい雰囲気だ。沙依の奴め、ここぞとばかり引っかき回して楽しんでいるっぽい。そろそろ止めさせないと後が大変だ。


「こら、やめんか!」

「痛い痛い、お兄ちゃん、わかったよ。止めるからその、アイアンクローはやめてよ」


俺は無意識に、妹の頭をわしづかみにしていた。妹がハメを外した時の対処法は昔からこれだ。


「ごめんなさい。冗談です。でも、皆さんのお話は、本当に色々聞いてますよ。変な話じゃなくて」

「変な話のはずがないだろ。そもそも、そこまで詳しい話をした覚えはないぞ」

「いえいえ、推して知るべしって言うじゃないですか。一を聞いて十を知る・・・みたいな?」

「お前の場合はただの妄想だろうが」


こいつと口で争って勝てたためしがない。ああ言えばこう言うという具合で、しまいに俺が疲れてしまうのである。


「そうそう。こんなことしてる場合じゃないよ、お兄ちゃん。お父さん待ってるから」

「お前な、こんなことを始めたのは誰だ?」

「あ、皆さん、こちらです」


そういうと沙依は表の方を指さして、さっさと歩き出す。さすがに全員ちょっと毒気を抜かれた感じになっている。実際、今回の旅行で俺の心配事の半分以上はこういう事態を招く事だったりするのである。おまけに、沙依のテンションは予想以上に高そうだ。これは先が思いやられる。


「楽しい妹さんですね。お兄さんが大好きみたいで。やっぱり兄妹っていいですよね」


歩きながらマリナが言う。いや、マリナさん。あなたは沙依を過小評価してますよ。てか、美月やケイもさることながら、沙依の魔の手がマリナにのびることを俺は一番心配しているのだが。


「いやぁ、ケンジからは想像ができないね、あの妹さんは」

「同意」


ジョージとサムはなんだか人ごとみたいに思っているようだが、妹の無差別攻撃の怖さは、そのうち思い知るだろう。


ロビーを出ると、車寄せには夏の日差しが降り注いでいる。もう8月も終わりとはいえ、まだまだ暑さは厳しい。


「お帰り。皆さんもいらっしゃい」

「ただいま、親父。迎えに来てくれるんだったら言ってくれればよかったのに」

「すまんすまん、沙依がどうしても行くってきかないし、友達もいて荷物もあるだろうからって、今朝決めたんだ」

「えへへ、沙依に感謝してよね、お兄ちゃん」

「あのなぁ・・・。まぁ、助かったのは間違いないが」

「さぁ、みんな、乗って乗って!」

「こら、お前が仕切るな!」

「いいじゃないか。今回は沙依も、おもてなし役だしな。さぁ、皆さん好きな席に座ってくださいな」


だいたいが、親父は沙依に甘いのである。我が家では、お袋がいない時は沙依の天下なのだ。ともあれ、俺たちは車に乗り込む。車と言っても、こいつはかなり大きい。荷物を積み込んでも8人が余裕で乗れるサイズだ。もちろんこの車はうちの所有物ではない。今の時代では、昔と違って車を所有するという習慣がないのである。そもそも、ほとんどの都市で車は自動運行の公共交通機関だ。ただ、レジャー用途などには、このように、その目的に応じた車を借りて占有できるようになっている。もちろん都市部や幹線道路での運転は基本的に自動だ。VDI(バーチャル・ドライビング・インターフェイス)は、自動運転では車の状態や情報をモニターする機能しか使わない。


「いいかな、それじゃ出発するぞ」


親父がそう言うのとほぼ同時にドアが閉まって、車が静かに動き出した。ターミナルのアクセス道路を半周してから、車は高架道路に上がり、一気に加速する。と言っても、時速は200Kmくらいだから、列車に比べれば、かなり遅い。宇宙港から東京都心まで40分くらいのドライブである。俺の家までは、なんだかんだで一時間ちょっとはかかるだろう。


「これが噂に聞くフジヤマか。なかなか雄大な景色だね」


ジョージが窓の外を見て言う。


「私も実物は初めて見ました。以前に美術館で中世のウキヨエとかいう絵画に描かれたのを見たことがあるのですが」


やはりマリナは博学だ。いまどき浮世絵なんて、日本地域の住人でもなかなか見ることがないのだから。


「最近、日本じゃ浮世絵なんて見ないわよね。でも、パリの美術館には飾られてるわよ。人類文化遺産としてね」


美月が横から口をはさむ。


「確かにな。でも、うちの近くの大江戸美術館には、あったと思うが」

「エドって、中世の頃の東京の呼び名でしたよね。ちょうど浮世絵が描かれていた頃の」

「この地域の歴史の中では一番特徴的な文化を持った時代。サムライと呼ばれた戦士たちは、自らのプライドを守るために、自分で腹を割いて自殺した」

「サム、よく知ってるじゃないか。ハラキリって奴だよ、それは」

「ケンジ、あんたね。日本生まれならセップクって言いなさいよ。ハラキリってのは、後の時代に、欧米人が日本の文化を揶揄して言った言葉だそうよ」

「なんだよ。今時どっちでも同じじゃないか。そもそも、自殺なんてものを、そうやって美化すべきじゃないんだ」


まぁ、たしかに美月が言うとおりなのだが、こいつに言われるとちょっと面白くない。だいたい、親父がフランス生まれで、パリ育ちのこいつが、そんな講釈を垂れるのが気に入らないのだが。


「日本の武士道はヨーロッパの騎士道に通ずるところが大きいのよ。自らの誇りを命がけで守るという気概には、ある種の気高さがあるわ。あんたもサムライの末裔なら、そんな歴史でも勉強したらどうなのよ」

「いや、お前こそ知ったふうな事を言うが、その気概って奴が、その後の戦争でどれだけ悲惨な結果を生んだか知ってるのか?」

「精神文化を悪用しようとする奴らは古今東西、どこにでもいるわ。ヨーロッパの騎士道もヒトラーにかかれば、彼の野望を正当化する理由にされてしまう。でも、それは精神文化そのものの問題じゃないのよ」


いかん、これは一種の宗教論争だ。どれだけやっても結論なんて出やしない。早々に打ち切るのが利口だ。だが、ここで逃げるようなマネをするのも癪に障る。さて、どうしたら・・・


「人それぞれ、美しいと思うものに違いがあるように、思想や文化もそれぞれ違います。お互いにそれらを尊重しあうことが、争いを避けることにつながると言うのが、二十一世紀中盤に起きた最終戦争の教訓でしたね」

「そうだね。あれは宗教戦争だった。しかも、中世後期の、すでに科学的な考え方が広まった後に起きたという意味で、問題の根深さに人類が気づくきっかけになったんだ。科学も思想も宗教も、それを信じるだけでまったく疑わないなら全部同じだ。その時点で思考停止に陥っているし、それ以上の進歩はない。寛容と妥協は違う。自分が信じることと異質なものを認めることが、逆に自分がそれを信じる理由を深めていくことになる。それは決して妥協ではないんだ」


マリナにあわせて口を開いたのは親父だ。いつから親父はこんな哲学者になったんだ。でもまぁ、二人が話に介入してくれたおかげで、俺と美月の最終戦争は回避できそうだ。車は綺麗なハイウエイを一路東京に向かって走っていく。そんな感じでちょっと波乱含みの、俺たちの夏休み東京ツアーが幕を開けたのである。

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